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2012年02月03日(金)
『金閣寺 ―The Temple of the Golden Pavilion』、川勝さん

『金閣寺 ―The Temple of the Golden Pavilion』@赤坂ACTシアター

うわー、これはいい再演でした。

少ない乍らも何作か三島由紀夫の演劇作品を観てきて、彼の戯曲を上演した場合と、小説から上演台本を起こして舞台作品にした場合とでは、今のところ後者の方がしっくりきています。前者だと、台詞=美しい言葉をひたすら追う状態に偏りがちになり(自分が)、挑発的とすらとれる文学の強度を思い知らされることが多いのです。しかし、三島が言葉で描写出来ないものなどないのではないかと言う技量で何もかも美しく表現している小説から視覚情報や聴覚情報を抽出し、それをト書きとして編集した上演台本から立ち上げられた舞台には、語弊のある言い方かもしれませんが言葉に邪魔されずストーリーに入り込むことが出来る。

演出は基本的には初演と変わっていませんが(しかし「チーン」と現れた金閣の画像に山川さんがひょこっと顔を出すっての、あったっけ?面白かった…)、舞台から発せられるエネルギーがダイレクトに伝わる感じがして圧倒されることしきり。演者がより強肩になった感じ。台詞が強くそして深く、遠く迄届く。そして照明、演者自身が行う舞台転換とそのまま舞台装置になる身体、システマティックなフォーメーションと演者の感情を直球で伝えるフリーフォーム、と言った演出上のフックが的確に消化され、作品世界がより強固になった印象でした。

特に一幕ラストは音と視覚情報の圧を段違いに感じて鳥肌。あの鳳凰と溝口の対峙を正面寄りで観られたのはとてもよかったです。劇場の構造、観た位置の違いも関係しているかな…KAATでの初演は上手側のバルコニー席から観たのですが、バルコニー席がないACTシアターでは正面からの一極集中で舞台からの情報をまともに喰らった感じでした。そしてそれは、森田くんと山川さんから発せられる力によるところも大きかったと思います。

あ、と言えば、初演時に山川さんが今作品での発声についてツイートされていたので、それをまとめて読み返していたのですが(・舞台『金閣寺』、山川冬樹さんの発声について(初演時))、これでは「一幕最後、二幕で溝口の背後から迫るシーン、二幕最後の壁のせり出すシーンはハンドマイク」「最後の壁倒壊後のシーンでは、ハンドマイクはあくまで補助で、主に頭蓋骨の振動を直接拾う”骨伝導マイク”という独自に考案したマイクを使って発声」と書かれているけど、今回は骨伝導マイクを使う箇所が増えていたような気がします。

そして今回は、溝口が鶴川からカキツバタをむしりとるシーンが印象に残りました。鶴川はもう死んでおり、彼を演じている大東くんは私服(と言うか、現代の若者の服装)に着替えている。そんな彼が持っているカキツバタを、柏木から生け花用に採ってきてくれと頼まれた溝口が摘みに来る。カキツバタはしっかりと鶴川の手に繋がれ、なかなか摘み取ることが出来ない。花鋏も使わず、溝口はそれを力づくでひきちぎる…地面から、鶴川から。この時点で溝口は鶴川の死の真相を知らない訳ですが、死者としての鶴川、溝口が知り得なかった鶴川の孤独を象徴しているようなシーン。大東くんの表情に胸が痛みました。

そして鶴川のその表情を知っていたであろう柏木の達観した佇まい、そんな柏木が走って逃げる溝口を追う際一瞬見せる焦燥。「認識ではなく行動が世界を変える」と言う溝口から去る柏木の表情には、鶴川に続き溝口をも失うのかと言った混乱が現れているように感じました。怒り、悲しみ、諦め。高岡くんのこれらの表現は強度を増していたように思います。

溝口、鶴川、柏木。彼らの危うく揺らぐ関係性をしっかり捉えた三人の演技は素晴らしかったです。そして三島が投げかけた「認識か、行動か」は、震災以降の彼ら、そしてそれを観ている自分にも向けられているように感じました。

ちなみに山川さんが「パ」と言えない『「パ」日誌メント』は続行中。そして初演のときも舞台上で意識を失っていたんですね…ツイートによると今回はそれで怪我をしてしまったようです。本編に影響を与えることなく進行しているところはすごいと思うけどちょっと心配。危ないことになりませんように、皆さん無事千秋楽を迎えられますように。

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1月31日未明に川勝正幸さんが亡くなった。ACTシアターのすぐ近く、TBSラジオのスタジオでは、菊地さんや大根さんが追悼番組を放送していた。大根さんの番組は帰宅後即ラジオをつけ終了迄聴き、菊地さんの番組は録音したものをその後聴いた。

誰かを喪ったときの菊地さんの言動は、いつも真摯さと敬虔さとカオスに満ちている。その場面には一観客として、一リスナーとして幾度か遭遇している。喪失に執着するな。喪失を受け入れろ。そして、受け入れたフリは一番止めろ。「欲しかったけど手に入らなかった物」なんて、そんなもん幸福のシンボルじゃないか。

「音楽は通路(ツール、かも知れないが、通路、と言う言葉もしっくりくる)を選ばず届く。全ての死者に。」と言う言葉を皮切りに、菊地さんは2時間ひたすら音楽と献花文を届け続けた。そして最後にこう言った。「今は言葉を持たない。これから川勝さんの死とじっくりと向き合い、ライド出来るようになったら、何かしら話したり書いたりしようと思います」。待つ。

正直なところ、ただの一読者に過ぎなかった自分でもまだ信じられない。しかし川勝さんに教えてもらったこと、ものは数知れない。川勝さんを最後に見たのは菊地さんのライヴだった。川勝さんが菊地さんと出会ってからのこの8年、菊地さんのライヴでは必ず見掛けていたと言っていい。それ以前にはスカパラやSDPのライヴ会場、宮沢章夫さんの作品がかかる劇場、そしてリンチの映画がかかる映画館(これは滝本さんとコンビで)で。「あ、川勝さん来てるよ」。何度この言葉を口にしたことだろう。現場に必ずいる。それも川勝さんが書くものを信用出来る理由でもあった。いとうせいこうさんの献花文「目利きのいない世界は闇に等しい」を繰り返し思い出している。今は、ただただ、感謝を。