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2011年05月21日(土) ■ |
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『散歩する侵略者』 |
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イキウメ『散歩する侵略者』@シアタートラム
2006年、G-upのプロデュース公演でこの作品を観た。その時の衝撃を忘れることはないと思う。今でもありありと思い出せるあの感触。理解と言葉の無意味さに対する恐怖、想像力の可能性。
そこで初めて前川知大という人物を知った。イキウメと言う劇団の座付作家。この作品は、そのイキウメで初演されたもの。2007年に小説版が出た。
その後『奇ッ怪〜小泉八雲から聞いた話〜』、『狭き門より入れ』、『抜け穴の会議室〜Room No.002〜』と観ていき、作家への感嘆と興味は増すばかり。そしてようやく、イキウメの本公演に辿り着いた。5年経っていた。三演目、上演台本と演出を大幅に改定したとのこと。
G-up版は赤堀さんが演出していた。つまり前川さんの演出でこの作品を観たのも初めて。打ち出し方の違いがとても興味深かった。ホン自体の改訂もあるけど、こんなに印象が変わるとは。しかしストーリーに対する衝撃と絶望、そしてほんの少しだけ残る希望は変わることがない。怖い、悲しい、それでもちいさなちいさな光を残す。たよりない、心もとない、ちいさな、ちいさな希望。
概念を奪えば奪う程彼らは“人間的”になる。言葉に意味はない、理解していてもそれはただの理解でしかない。コピーアンドペーストではなくカットアンドペーストなのがミソで、奪われた側にとってそれがどんなに大切なものか、彼らは奪ってみた後にしか実感することが出来ない。そしてそれを返すことは出来ない。自分が何をしたか、自分がやったことはどういうことか、思い知ったときにはもう何もかもが遅いのだ。真治がそうであったように、天野や立花もそうなるだろうか?
そうなれば、ひょっとして彼らの計画は頓挫するかも知れない。長谷部はその概念を失った丸尾を補って向き合っていこうとするし、車田は“訓練”によって失ったものを身に着けようとする。人間はそれが出来る。そこに希望がある。
しかしそうだとしても、そこに希望を見出したとしても、それはそこにしか希望がないからだ。真治が最後に鳴海から奪ったものは他の誰かが補うことは出来ないし、訓練によって獲得出来るものではない。与えることしか出来ないもの。受け取っても受け取っても返せないもの。献身?そう、献身は愛がなければ行えない。そんな儚いものを人間は信じているし、それを灯にして生きていくことが出来る。
とにかくホンがすごいのだが、それを見事に舞台に立ち上げる役者陣もすごいのだ。台詞にも出てくるが、「言葉に意味はない」。言葉では伝えられないこと、でも皆が肌で知っていること。その言葉にならないことを演者たちは観客に伝えなければならない。「その言葉を知ってるだけ」で観客が帰路へと就かないように。
台詞を聴き、役者と舞台のありさまを見るのがお芝居。でも、そこには言葉で表現出来ないものがある。目に見えないものが存在する。優れた演劇にはそれがある。
長年舞台を観ているけれど、個人的には一生もんの作品だと思っています。忘れられない、忘れられない。「ありがとう。それを貰うよ」。真治の声を忘れることはないだろう。
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