初日 最新 目次 MAIL HOME


I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
kai
MAIL
HOME

2010年06月22日(火)
よみもの

■『ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘』水木悦子、赤塚りえ子、手塚るみ子
偉大なマンガ家たちは、どんな父親だったのか?家族にしか見せない顔、家族が知らない顔。三人の娘たちが語ります。
最近読んだ大森立嗣さんと大森南朋さんの対談で、「小さい頃は自分ちのことしか知らないからこんなもんだと思ってたけど、だんだん『ウチは普通じゃないんだ…』と言うのが判ってくる。ともだちの家に遊びに行って、『ごはん食べていきなさい』なんて言われた時とか」なんて話が出ていたなあ。小学生の南朋さんが、白塗り半裸で踊る『はたらくお父さん』の絵を提出したら、お母さまが学校に呼び出された話は有名ですね(笑)。
沢山の連載を抱えていた大人気マンガ家の家には、多数の編集者がひっきりなしに出入りし、原稿があがるのを待っている。るみ子さんのお兄さん・眞さんが、原稿が間に合わなかった腹いせに編集者からいじめられたり池に突き落とされたりした、と言うエピソードには戦慄。りえ子さんがお父さんの彼女と海外旅行に連れて行かれた話も、本人淡々と喋っていますが、淡々としているからこそ当時その場の冷たい空気が想像されて複雑な気分になりました。悲しいとも腹立たしいともつかない微妙な気持ち。
反発もしたけれど、ふたりは偉大な父親を尊敬し、その作品を後世に伝えるために日々活動している。悦子さん家は確執もなく、お互いマイペース(と言うか達観してる?)に過ごしているようにも思えました。いちばん屈託なく楽しめたのは水木家のエピソードだったな。
それにしても普通って言葉はややこしいな。こどもたちからすると、そのお父さんしか知らない訳で、となるとそれがあたりまえ。暮らしていけば、それが普通。

月末にはりえ子さん著の『バカボンのパパよりバカなパパ』が出るそうで(ちょー突貫スケジュールで祖父江慎さんがデザインされてます)こちらも読んでみようかな。長谷川町子さんと言い、最近マンガ家の思い出話がやたら気になっている。

■『荒野へ』ジョン・クラカワー
映画化された時買ってそのまま寝かしていて、やっと読んだノンフィクション。これもある種家族の物語で、アラスカの自然の中で餓死した青年の足跡を丁寧に辿ることで、彼の家族の歴史も暴かれてしまう。青年の死後、マスコミに騒がれ、秘密を世間に広くばらまかれることになった家族の心情をも考えさせられました。ちょっとしたボタンのかけ違い、ちょっとした事故。それが取り返しのつかない別れを生んでしまう。複雑に絡まった糸は誰にもほぐせない。時間が解決出来たかも知れないが、青年にはもうその時間がない。
登山家でもある著者は、途中の章で、結構な頁を割いて自分のことを書いています。そのことが青年への共感、本を書くことの動機にもなっていたように思います。出て行くひとを止める権利は誰にもない。結果起こったことを愚かだと嘲笑することも。

■『告白』湊かなえ
いやー…面白かったと言うと語弊があるか?エンタテイメントとして読みました。彼らのその後に思いを馳せると言う作業はしない。こういうことが起こらないようにと祈るばかり。
もともとは最初の章一遍だったものが評判を呼び、その後の章を書き足したそうなので、ちょっといびつなところもあるような。でもそのいびつさこそが、善悪を抱えた人間の曖昧なところなのかも知れないな。
映画も気になってます。中島監督だし、エンディングデーマがレディオヘッドだし(ハマりそー)。

■『ジャパニーズ・オルタナティヴ・ロック特選ガイド』中込智子 監修
US版UK版に続いて日本版が出ました。90年代、2000年代のバンドを相当数フォローしてあるのがいい。ブラフマンのトシロウさんが鼎談で話していたことは悲しいけれど多分真実で、でもだからこそ、音楽はいつでも傍にあって、誰でもアクセス出来るものであってほしいと思う。
遠藤ミチロウさんのインタヴューも面白かったなー。そしてミチロウさんや戸川純ちゃんを舞台に起用し、曲の引用も印象的な蜷川さんのこともいろいろ考えた。
個人的にじんわり来たのが、上田現の『Atlas』が紹介されているところ。リリースされた事情が事情なので、近しいひとやファンの間でしか聴かれないかも知れないとちょっと思っていたのです。このレヴューをきっかけに、上田現を、レピッシュを知らない若い子たちが彼らの音楽に触れてくれたら嬉しいな。中込さん有難う。

■『スローターハウス5』カート・ヴォネガット・ジュニア
いやっ、これっ、大人になって再読してよかった!ちっちゃい頃に出会ってよかった!とも思うけど。いやもう爆音映画祭に感謝するわ…いいきっかけで思い出させてくれた……。
ひとが死ぬのは避けられないことで、あたりまえで、“そういうものだ”。亡くなったひととの別れ=喪の仕事は、何度もそういう場面に遭うことで、どう対処すればいいか身体が憶えてくる。でも、それに慣れることはずっとない(とスズカツさんも言っていたなあ)。ただただ抵抗せず、流れに身を任せる。すると故人の遺したものや出来事に、安らぎを見出せるようになってくる。それはある種の信仰のようなものだが、対処を知っていることが救いになるとは限らない。それでいいんじゃないかな、との思いを再確認。