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2002年05月11日(土) ■ |
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『幽霊はここにいる』 |
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KOKAMI@network vol.4『幽霊はここにいる』@紀伊國屋サザンシアター
オープニング、レインコートらしき衣裳を着た群衆が傘をさし、歩き回る。そのリズムが統率されていき、ダンスになる。
「あ、『ハッシャ・バイ』だ」。
傘をさして歩く群衆のシーンは、この戯曲が初演された俳優座のヴァージョンにもある。『ハッシャ・バイ』を思い出したひとは、第三舞台を結構観ているひとだと思う。『パレード旅団』のオープニングもこうだったが、この時は上演場所がPARCO劇場だった事もあり、フィリップ・ジャンティが連想された。
数々のデジャ・ヴュを感じているうちに、ここ数年の鴻上作品を観る度に残るぼんやりとした不安が、とうとうハッキリした像を結んでしまった気がした。
正直に言うと、ここ3〜4年の鴻上作品には馴染めなかった。現に数作は観に行っていない。そして、もっと本音を言うと、演出家としての鴻上さんの事は信用していない。と言うより、劇団と言う枠組みで、同じメンバーと腰を据えて向き合い、当て書きのような形で戯曲を書き、舞台にあげるシステムの手腕は凄いと思っているし、実際一生忘れる事はないだろうと思う作品が沢山ある。その場合の演出力と言うのは、舞台全体の構築力ではなく、役者から何らかの魅力を引き出す目であったり、役者がどのように舞台で輝くかを考える力だったのではないだろうか。だから、観終わった後にいつも「こんなに作品世界は素晴らしいのに、役者は素敵なのに、何故セットがあんな張りぼてなんだろう、衣裳がダサダサなんだろう」と小さな疑問が残るのだ。遊戯性を得意とする鴻上戯曲だからこそ、軽いセットやカラフルな衣裳なのだ、と言う理論武装は以前からあったが、果たしてそれはベストな選択なのだろうか?
つまり、このひとの“演出”を活かすのには、それ位の時間がいるのではないだろうかと言う事。そしてそれは、プロデュースシステムではなかなか実現出来ないだろうと言う事。第三舞台と言う枠組みを離れ、メンバーとも別れた。第三舞台以外での鴻上演出には常々疑問があった(『ゴドーを待ちながら』は、第三舞台以外では例外的に冴えた演出だったが、これもかなり前の上演だ)ので、足が遠のいた。劇団が無くなったので(一応封印となってはいるが)、彼の描く世界を体現する役者をいちから探す事になるが、今回は本人の書いた作品ではない。安部公房は好きな作家だ。この戯曲の舞台は未見だが信頼出来る。鴻上さんが自分で書いていないこの作品なら、彼の演出を冷静に観られる。久々に行く事にした。そして、不安が確信になった。
役者は頑張っていた。が、アンサンブルがまとまっていない。空回りする対話。美しい言葉の数々が、客席に飛んでくる前に床に落ちてしまう。そして、その言葉から紡ぎ出される美しい風景が、舞台に浮かんでこない。痛々しいシーンが続く。こんな筈じゃない、こんな筈じゃない。観客のレスポンスが極端に鈍いので役者も戸惑っている。悪循環が続く。戯曲のサスペンス的な内容のおかげで、観る集中力が途切れる事はなかったが、「こんな筈じゃないだろう」と言う歯痒さも最後迄続いた。つらい。
フォローしておくと、まだ初日があいて3日目だ。後半観れば何とか固まっているかも知れない。でもそれではもう遅いかも知れない。
偉そうですまん。でも、これが正直な感想だ。もう鴻上さんの舞台を観て、終演後席を立てなくなる程涙が止まらなくなるなんて事はないかもしれない。鴻上さんも、私も歳をとった。でもそれは、悲しい事ではない。そして、その経験があったから、今でも舞台を観るのをやめられないのだと思う。ただ、今後も彼の作品を観るかどうかは、判らない。
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