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おとなの隠れ家/日記
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2005年01月23日(日)
たまにはテレビもみないと



テレビをつけていると、ときどき、き〜んと音が出る。
効き目があると真剣に思っているわけじゃないけれど
バンと叩いてみる。
一瞬音は止まるが、気休めだということがわかる。


もう10年以上は使っているので寿命と考えてもいいだろう。
買い換えれば済むんだけれど、それが面倒で。


休日は、下まで新聞を取りにいくのが面倒なため
番組欄もチェックしない。


お昼に皿うどんを作って、テレビの前に座る。
最近はテレビに向かう時間が少なくて
テレビっ子だったのにねぇ。
せめて、モノを食べる時間ぐらいテレビをみようかと。

テレビを観ないと、面白そうな話を見逃す。
映画もそうだ。
今夜は地上波初の韓国映画らしい。
みてみようかな。


皿うどんを膝の上にのせ「こどものギモン」という番組をみた。
年末の再放送らしい。
こどものギモンを解明しようというのだ。
たとえば

いちごの種はどれ?
フラミンゴはなぜ一本足で立つの?
ペンギンは冷たい氷の上でどうして平気?
世界で一番高い(高額)なものはなに?
「かわりばんこ」の語源は?
ビルに埋め込んである「定礎」ってなあに?
外国でのお正月はどんな感じ?


どれも面白かった。
わたしは「こどもレベル」ね、きっと。


先日も会社で騒いでいた。

「お地蔵さんって誰?」

誰も相手にしてくれなかったなぁ。


一番の驚きはペンギンの話だった。
ペンギンは寒さに強い、ただそれだけでマイナス90度くらいのところで
生きていけるわけではないのだろうが、
それでも生きていける仕組みが体にある、たとえば寒さを感じにくいとか
そのくらいしか思いつかない。

ペンギンが自然の中で暮らしている様子の映像をみると
おしくらまんじゅうでもやるのかというぐらいに、みんなで寄り添っている。
やはり、寒いのは寒いんだろう。

動物園で取材をして、足の裏がどうなっているかみせていた。
毛が生えているわけでもなく、厚みがあるわけでもなく。

じゃぁ、どうして凍えないのか。


心臓から送り出されるあたたかい血液が動脈を通り、足の裏へと分かれる静脈で
ペンギンの血液も冷やされることになる。
人間ならば、足の裏で冷やされた血液は、冷たいままに心臓に戻るらしく
体温が下がってしまうことになるらしいが
ペンギンの場合、その静脈が足首のあたりで
あたたかい血液が通っている動脈にくるくると巻き付いており
冷やされた静脈の血液があたためなおされている風な説明になっていた。
心臓に戻るときには、つめたくない、なので体温が下がらないというわけ。

すっげー。
寒い場所で生き延びるように、体の仕組みがそうなっているなんて。
神秘的だと思わない?

北海道の旭川には人気の高い動物園があって
そこの水中トンネルでは、ペンギンの様子が360度見学可能だとか。
ペンギンが泳いでいる様子も下から観察できるらしい。

いってみたいよ〜。


やっぱりわたしは「こどもレベル」なんだろう。


いちごの話も知らなかった。
いちごの種はまわりのつぶつぶの中がそうらしい。
そしてつぶの外側が実らしいのだ。
赤い部分は「偽果」と呼ばれるらしく、実じゃないんだって。(へぇ〜〜)

世界で一番高いものは日本にもあった。
「カリホルニウム252」という原子らしい。
100gで7兆円だって。
縁のないモノと金額なので、へぇ〜〜とも言えやしないわ。





2005年01月18日(火)
お金と命



14歳の少女が入れ墨をするのに手助けをした男とそれを彫った男が傷害容疑で逮捕、らしい。
この少女には入れ墨をしたいという願望があり、性的関係と費用の一部を男が出すということで
話がついているようだ。

読んだトピックスからすれば、男が「強要」したような雰囲気は感じられない。
この入れ墨のことが発覚したのは、少女が風俗店で働いているところを補導されたことが
きっかけのようだ。


14歳の少女が
入れ墨をしたことも
お金欲しさに性的関係を結んだことも
自分の意思だと思われるので、驚きはしないが

風俗店で働いていた、というのには
ちょっと泣けてくるな。


なんかね
14歳なので守られて当然、という気が起らない。


なんで稼がなきゃいけなかったんだろう。
なんのためのお金なんだろう。


よほどの事情がない限り、小学生はもちろんのこと
中学・高校でもアルバイトを禁止しているところが多いようだ。
禁止するから裏目にでることだってある。


隠れてタバコを吸う時代から堂々と制服をきたままの喫煙へと世の中が変わっている今
学校に内緒でするアルバイトの職種も、様変わりしているんだろうか?


きっとね
お金なんだろうと思う。
短時間で高収入。
ラクして得をしたいんだろう。

おとなだって惑わされるんだから、少女にも魅力的かもね。


もしも、この少女が遊ぶために、欲しいもの買うために
風俗で働いているとすれば

こういうところに、落とし穴があると思うよ。
お金は使いようによって凶器にもなりうる。


命の大切さを教えるのであれば、
平行して「お金」についても、じっくりと教育しなきゃ、だろう?









2005年01月15日(土)
便利だけど、つまんない



いっこ前の書き物で
車のメーターの話から時計の話に引っ張った、デジタルの落とし穴について
もうちょっと考えてみたので、書いてみる。


デジタルって慣れてしまうと問題ないようにも思えるが

わたし的には
前後のあるものと、それだけしか目に入らないものでは
意識への伝達が違うんじゃないかと思うんだ。


たとえばね
電子辞書と普通の分厚い辞書。
一発ヒットするという点では、電子辞書での検索がラクじゃあるけど
頁をめくる辞書には前後があるから、関連性のあるものに目がいったり
前後を見ることで別のこととミックスされて記憶に残りやすかったりもする。

悪くても2〜3度引けば、ほとんど覚えられた記憶力も
今では10回引いても、まだ覚えられない言葉だってあるほど低下してしまった自分としては
一発ヒットのその時だけわかる、という特性が有効ばかりじゃないよな、と思う。


膨大なデータがあって、それがエクセルだったりすると、キーワードを入力することで
瞬時に欲しいデータを目の前に出してくれるんだけど
そのデータの前後やバックグラウンドまでは、それだけで読み取ることが難しいときがある。

かつての帳面形式であれば、頁をめくることでデータは独立していないから
繋がりみたいなもんまでみえてくるのが、ひょんなことで助けになったりもする。


記憶というのは、常にそこにあるものばかりじゃなくて
何かのきっかけで思い出したりするものもあって
目に触れなければ、永遠に思い出さないものもあって

書棚に並ぶアルバムなら、なんかの拍子で手にしながら開くこともあるかもしれないが
パソの大量のデータに埋もれた写真は、忘れ去るものも出てくるだろう。

そして
パソを入れ替えるときに、すべて消えて無くなることも。

メールなんて、まさにそれ。
手紙やハガキなら、どこへやったか不明だということはあるけれど
捨てさえしなければ残るものだが
パソや携帯の中にあるメールは捨てる気がなくても消えていく。
本体入れ替えなんかしたらテキメンね。


パソコンの奥に眠った言葉たちは、呼び出されない記憶の引き出しの中に入っているようなもの。


忘れてしまう
なかったことにする


デジタルな日々を送りながら
なんかつまんまい
そう思うことがある。





2005年01月13日(木)
エコカーの落とし穴



エコカーに乗り始めてリッターあたりの走行距離も17.3キロと、
高速道路を毎日走るわりには、のびているんじゃないかと思っていたら
先日、半年点検のお知らせがてらやってきた営業の人に

「そりゃ、のびなさすぎです」

といわれてしまった。
いくら高速道路主体に走ったとしても、リッター20キロくらいは、のびてもいいそうな。

「飛ばしすぎですね」

お金払って高速走るんだから、飛ばさなきゃ。(自爆)



わたしが乗っているのはプリウス。
エコカーだから、環境には優しいのだろうが
あれ、結構危険な乗り物だと言えなくもない。

スピードを体感しにくいのだ。


いままでだったら、高速道路に乗るときには、低速からどんどんスピードが上がることが
体でわかっていた。
これ、どういうことかというと「音」だ。
そしてスピードメーター。

まず「音」についてだが
オートマ主流とはいえ、加速するときの音ってあるよね。
あれが、電気自動車系では、あまり感じられない。
一定の音しか出ない。
もちろん一般道をはしる50キロの音と、高速道路での140キロじゃ音のうるささは違う。
しかし、あまり音の種類がないんだよね。
静かなときの音、加速中の音ぐらいで。
この加速中の音が、100キロまでの加速と、100キロを150キロまで加速する音に
あまり変化を感じられない。
車が、高速出してますよ、という主張をしない、とでもいおうか。


車はアクセルを踏めば踏むほどにスピードは出るものだが、
スピードなりの加速の音が感じられないと、どういうことになるかというと
それがどのくらい出ているのか体でわかりにくいということなのだ。

スピードメーターを見ればわかる

そう思われるだろうが
このスピードメーターも、まずいことになっている。
針がスピードを教えてくれるわけではなく、デジタルの数字が教えてくれるのだ。

デジタルの数字だと、メーターを見れば数字が明確にわかるから、わかりやすいように思うが
それは取り締まり用のレーダーを通過するときやパトカーや覆面パトカーに遭遇した際
これみよがしなスピードで走るときに有利なだけで
普通に走るならば、従来の針が使われているメーターのほうが、実際のスピードを認識しやすい。


どういうことかというと
デジタルの数字で、50・100・150と目で見るのと
針が左から右へと回っていくのとでは
スピードが上がっていると体感することができるのは針の方で

数字は、数字を見ないとはっきり100なら100と目でみないとわからないが
針は、視野にちょっと入るだけで、針のだいたいの位置で何キロかがわかる。

時計を思い出してもらうと、わかりやすい。
針のついた時計とデジタルとでは、針のついた時計のほうが
ぱっとみただけで、感覚的に時間を捉えられると思わない?


車の音とデジタルメーターの二つが、スピード感を麻痺させる、とわたしは思う。
その結果、自分の思うスピードよりも出ていることがある。


走行車線を走っていて、前方に車がいたとする。
その車に追い越しをかけるために追い越し車線に移ることを考え
追い越し車線の車の流れを確認して加速するわけだが
この加速が思ったより上がるので、追い越そうとする前の車に思ったよりも接近しすぎるのだ。

こういう作業をするときは、いちいちスピードメーターを見ることはなく
勘で加速し、追い越すものだ。


自分が160出すと、他の車の流れと比較すれば、自分がスピードを出していることには気づくが
それを確認するのがメーターの数字を「160」と見るまでは130か160か、気づかないのだ。

車にツウな方に聞いてみたところ
この「音」に関しては、以前から電気自動車の泣き所として、検討され続けている話らしい。


エコにも思わぬ落とし穴がある。


安全運転で走れば問題ないのでは?

そうとも言えるけど、

発進するときや低速で走るときは、音が静かなため、
道行く人が車が近づいていることに気づかなかったりすることもあるそうだ。
自分で発進しているのに気づかず追突するという話も聞くしね。


あ、それと
ブレーキが、効きすぎ。
5段階で効き方を表現するならば(1が弱い、5が強いとして)
踏み込み方で、5つなきゃいけない効き方が
今の車は、1と5しかないという感じ。
従来の2の強さで踏んでも、5効く。
つまり、ちょっと踏んだだけでも、ガクンと車が揺れる。
かっこわるいよ、これ。

フットブレーキも、慣れないせいか違和感がある。
坂の多い長崎だと、あれじゃ走りにくいだろう。
自動車学校で習う、坂道発進ができないもの。


半年乗ってみての感想は、車というよりは車に似た乗り物という感じだ。








2005年01月10日(月)
続・日本人なのだから



前回、お節のことを書きながら
日本の伝統であるといいながら


どんな風に?
ということを書いていなかったことが気になって


いわゆる手抜きですな、あはは。


なので

わたしにとっても再度お勉強という意味も兼ね
サイトを検索してまいりました。

もう、お正月は過ぎてしまっているけれど
来年のためにも、リンクしておこうかと。



【日本の伝統食!おせち料理豆知識】
・おせち料理のいわれ
・おせち料理は健康食?
・おせち料理は保存食?
・おせち料理は何段重ね?
・お正月に食べると縁起がいい
・最近のおせち料理の傾向は

など、わかりやすく書いてあります。


ココ→ All About 



なるほど。
やはり、次の世代へと伝えていくべき大切なことのひとつだと思います。







2005年01月09日(日)
日本人なのだから



うちの嫁さん、お節、作れないんですよ
だから、元旦から焼肉でした


寝起きで、ぼーっとテレビを観ていた。
変わってきた日本のお正月、というテーマで
街頭インタビューを受けた男性がテレビ画面でにこやかに答えていた。


お節、作れなかったら作らないでいいのかよ.....
結婚しといて、家庭があって、そりゃないんじゃないか?
アンタ、亭主として、それでいいんか?
作れない、っていうのは、うちの嫁は料理できないって言ってるようなもんで
笑顔でいうことかよ?
まさか、お節より焼肉の方が美味しいし、なんていうんじゃないだろうな?


これがわたしが思った率直な気持ち。


それぞれの家庭に、それぞれの事情があるだろう。
この男性の短い言葉から、よそ様の家庭の事情まではわからない。
ただ、作れないから、という言葉から想像するに
作る気がないんだろうと思う。

あんなもん作ってどうするのよ、
誰も食べないでしょ
ムダになるわ

お正月だからといって、お節が必須なんて古い考え方、合理的ではない
とでも、いいたいのか。


今年の実家のお節は、ホテルのレストランが作ったお節だった。
4つのお重からなるそのお節は、4人前で30000円。
お節につきものの、かずのこ、黒豆、えび、紅白のかまぼこ、おなます、
田作り、煮物などの定番な段、ワインのおつまみによさそうな洋風の段があり
見た目もきれいで、味も良かった。
あとは、お雑煮、くじらや刺身、なまこ、赤飯かな。
豚の角煮と、べにさしの三杯酢漬けがなかったのは残念だったが
母の手作りお節じゃなかったことを除けば、まぁ例年通りの正月の食卓だ。

親戚が集まったり、年始の挨拶の客がくるわけでもない今、
うちは、この程度でことたりる。

実際、お節は結構残った。
しかし、日本のお正月から、お節ははずせないだろう?
お正月気分がでないじゃないか。

この「気分」が大切なんだと思う。
門松や鏡餅もまた、その気分を作る。
今は便利になったから、スーパーにいけば簡単に買い揃えられる。
クリスマスにツリーを飾るように、日本のお正月にも飾りつけはある。


お正月気分がない家に育ったこどもは、おとなになってお正月を祝わないだろう。
お正月気分が、消えることになる。
そうやって、日本らしさが途絶えていく。

いいの? それで。
よくないだろ? 日本人なのだから。


そのうち、箸も使わないようになるかもしれないね。







2005年01月07日(金)
名前の呼び方



弟も春にはようやく結婚するようで
うちにしょっしゅうお泊りしていた弟の彼女は
親父からすれば、もうすぐ娘になる。


親父が弟に訊いていた。
弟の彼女のことをどう呼べばいいかと。

彼女の名前は「まりこ」
弟は「まり」と呼んでいるようだ。


父「まりこがいいかな? まりがいいかな?」
弟「本人に訊いてみたら?」
ま「そりゃ、最初はちゃん付けがいいんじゃ? まりこちゃんとか」
父「んー」
ま「いいにくかろうもん、いきなり呼び捨ても」
弟「そういや、彼女も、お父さんのことをどういえばいいかって訊いてきたぞ」
ま「いままでは?」
弟「おじさん、と呼んでた」


親同士の挨拶も済ませ、数ヵ月後に入籍するらしく
それまでの微妙な3〜4ヶ月の間、お父さんと呼ぶのか
結婚はまだしていないので、おじさんのままがいいのかと
彼女なりに気をつかっているらしい。

弟「おい(オレ)は、挨拶のときから、お父さんと呼んでたな」

弟はすでに彼女の父を「お父さん」と呼んでいるとのこと。
ドラマ的に言えば、フライングだな。(笑)

まぁ、もうすぐ家族になるわけだから、そこまで考えることなのか?と思う反面
呼び方というのは、気持ちをいいようにも、悪いようにも表せるものでもある。


いままで「まあこ」と呼んでいた人から「まあこちゃん」といわれると
頼みごとでもあるのか、もしや何か企んでいるのか? と思う。
それまで「まあこ」だったのが、いきなり「まあこさん」と呼ばれようもんなら
他人行儀に路線変更ですか?と思うか
もしくは、こいつ、ケンカ売ってるのか?と思うな。


海外小説を読んでいると、呼び方について意識しているのを感じる。
初対面では、姓名を名乗り、ミスターやミズをつけて苗字で呼び合い
しばらくすると、名前だったり、こう呼んで、と自ら相手に伝えたりする。
理由は、話が盛り上がって友人気分になるとか、
親しくなろうとしていることを、お互いに表現しあうとか
気軽に会話を進めるためにとか。


上下関係や、仕事とプライベートの区別はあるものの
一度フランクな呼び方にして、それを形式ばったものに戻すのも
逆に、そろそろフランクに呼び合ってもいいのに、いつまでも丁寧すぎると
どことなく、つれない気、しない?


いずれにせよ、呼び方は、固定のままか、もしくはフランクな方向に進むものであって
逆戻りは、いたってよろしくないというのが万国共通の呼び方の流れじゃないだろうか。


ま「とりあえず、まりこちゃん、と呼べばいいさ」
弟「そいでいいんじゃ?」
父「しかし、娘にちゃん付けもなぁ」
ま「呼び慣れてくれば、ちゃんが取れてくると思うよ」
父「うん、そうだな」


呼び方ひとつで、親しみを表したり、壁を作ってしまったりする。
だから、呼び方に気を配る。


日本は、相手の名前を呼ぶことが、外国人よりも少ないように思う。
特に一対一の会話では、日本人は相手の名前を会話の中に入れない。
外国人は、よく名前を呼ぶんだよね。
電話だと、それが顕著に現れる。
日本だと、出だしに名乗りあえば、誰と誰が話しているのかわかっているわけだから
いちいち会話の途中に相手の名前を呼んだりしない。
知り合いならば、かけたほうが名乗る程度だ。

外国人だと

「はろー、まあこさん、ジャックだよ」
「まあこさん、今日はお天気どう? 寒い?」
「週末は何してたの? まあこさん」

みたいに、何度も名前を呼ばれることになる。
そういや、短い挨拶でもそうだな。

「おはよう、まあこ」
「ありがと、まあこ」

わるい気はしない。
むしろ、コミュニケーションの取りやすさからいえば
名前を呼ばれるほうが、親近感がわく。


「あなた、私のこと名前で呼んでくれたのは、いつが最後かしら?」


などと奥さまに突っ込まれないうちに、たまには恋人同士だったころみたいに
呼び合うのも萌え.....だったりして。(笑)








2005年01月06日(木)
お菓子の思い出



先日、お菓子の話から駄菓子の話になって
こどものころ、よく食べていたという駄菓子の種類が
わたしは他の人よりも少ないような気になった。

「こんなんがあったよね〜」

といわれれば、そうだね〜と思うが、はたして食べたんだろうか?
ひょっとしら、おとなになってから駄菓子が売られているのを
ちょくちょくみかけるようになったからかもしれない。


わたしはお嬢様育ちじゃないけれど
駄菓子の中でも、あれはダメ、これはダメなどという規制を受けて育った。
母がいうには、わたしは隠れて買っていた、らしいが
当人にしてみれば、目では知っていても、食べたことのない駄菓子は結構ある。

レトロを売りに、再び作られた駄菓子屋が
スーパーやショッピングモールに入っているのを見かけると
懐かしさから立ち寄ってみるものの
あー、これよく買っていたよな、というお菓子に出会わない。
買う気満々で入店しても、買うとすれば、甘い醤油味の揚げ菓子か
えびせんのような形をしたカレー味のやつ、
うずらのたまごと呼んでいた、チョコボールを少し大きくしたぐらいの
これも醤油味で、中にピーナッツが入った豆菓子など

どちらかといえばノーマル派。
体によくなさそうな色付きのものを懐かしむことがない。

チロルはよく食べたなぁ。


しっかりとおぼえている「よく食べた(つもりの)お菓子」といえば
ベビーチョコやペンシル・パラソルチョコ、ペロティ、アポロ、コーヒービート
ルックチョコレート、マーブルチョコレート、チョコフレーク.....
チョコばっかりかい。(笑)
親は、虫歯になるからチョコはあまり与えていないといっていたが
記憶は、結構食べたつもりになっている。

もしかして
あまり買ってもらってないから、記憶が残っているのかな?
食べたくて、買ってもらった嬉しさに便乗するような形で。
記憶は情動と結びつくと忘れにくいって、どっかに書いてあったし。
でもそれならば、駄菓子だって、もっと覚えていていいはずだよなぁ。


森永やグリコのキャラメル、ロッテのガムもわりと食べた記憶がはっきりしている。

んー、考えるほどに謎。


ひとつだけ、おやつに関しては一般家庭と異なった特徴が、うちにはあった。
それは「カステラ」がない、ということが、ほとんどなかったということ。
うちの父は、全国的にも名が通っている某カステラ屋に勤めていたので
美味しいカステラの非売品なるものが、いつも家にあった。
うんざりするほど、食べてきた、ずーっと、ずーっと。(笑)

そういう意味では、外で買うお菓子がいつも家に用意されていたことは
少なかったのかもしれない。
おこづかいで買ったとか、お土産とか、誰かに買ってもらったとか。
だから、よく覚えているんだろうか、チョコのこと。


記憶は、時間が経つと、部分的に塗り替えられていくのかもしれない。


先日帰省したときに、父が何かでもらったのか
可愛いビニールの袋にパラソルチョコが2本入ったものをくれた。
わたしが好きだったことと、昔は、我慢させていたことを思い出したって。

だから、よく食べてたつもりなんだってば。
というか、いま、わたしが何歳か知ってるのかな。(笑)