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おとなの隠れ家/日記
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2004年10月30日(土)
予感が当たった




よくよく考えたらわかることなんだけど
その場にいれば、見えないこともある


そうなんだけどさ


でも結婚は
そろそろとかで
するもんじゃないって

言ったのに


3年くらい前だったかな
付き合って半年で結婚を決めた

お互い、そんな歳だし
彼女も結婚したがっているし


危ない予感がした


結婚して半年で女は変わった
結婚して1年すぎたころ妊娠した
わがままぶりは、さらに濃くなり
こどもが生まれてからは恐ろしく変貌した


それでも男は
こどものためにと耐えて
自分の親や勤め先にも迷惑をかけ
結果的には
今、離婚調停中だ


ふたりとも30過ぎての結婚だ
十分すぎるほど、おとなだ


一方的な話しか聞いてないが
その女は、わたしからしてみれば異常だ
だが
そういう女を他に知らないわけじゃない



法外な養育費と慰謝料の要求
さんざん相手を馬鹿にして
所詮、金かよ


お金は自分で稼ぐもんだろ
それこそ負け犬の遠吠えだ


ひとつ気がかりなのは
その頭がいかれた女が子育てをしていること



ああ、近頃、いい話がちっともないな。




2004年10月27日(水)
気が滅入る




今日は弟の誕生日だ。
さっき、メールで「おめでとう」と送った。


ふと思った。
誘拐された男性が弟だったら.....


その立場になってみなきゃわかんないかもしれないが
おそらく、今、感じている気持ちと似ているだろうと想像する。


誰かの命だけが特別に大切なわけじゃない。
もともと、人の命は大切なものだ。

なのに自殺があり、殺されることもあれば、戦争があり、虐待もある。
自然の力に逆らえないこともね。
どうにもならないことは、いくらでもある。


もしも
弟が川に流されているのをみても
わたしは飛び込んで助ける力がない。
泳げないから。
なにか役に立ちそうなモノを探すか、誰かを呼びにいくか
それすらも間に合わないとしたら
わたしは何もしてやれないだろう。
あんたも、望まないよね?
わたしまで一緒に流されることを。



怨むな、弟よ。
誕生日にこんなこと書いてしまう姉を。




2004年10月25日(月)
縁石の縁...かな(笑)




そういや、どなたかが縁石に激突し、痛い思いをされたと聞いた。
わたしは、縁石に激突し、恥ずかしい思いをしてしまった。

わたしは自転車には乗らないからね。(笑)


車で、やってしまったのだ。


道路沿いのビルの前に駐車スペースがあって、そこに止めていた。
ビル正面の入り口のドアのところの前で縁石が切れている。
入り口のドアの左右に駐車スペースがあって
縁石が切れているところから車の頭を突っ込み、左右に分かれる感じで止められる。
わたしは一旦、向かって右に頭をきり、バックで左側に止めた。

ということは、
出るときには、やや左にハンドルを切って、縁石の切れ間から車を道路に出すことになる。

なのに、ほぼ真っ直ぐに車を出した。
前輪の左側はセーフだったが、右側は縁石に乗り上げてしまった。


ガガガ.....


ああ、まだ新しい車なのに。


車を降りて確認してみると、右前輪は、きっちり縁石を越えていた。
縁石が右側の前輪と後輪の間(前輪のすぐ後ろ)に、きれいにおさまっていた。
車に乗り込み、じわっとバックにギアを入れてみたが、タイヤは動かない。
前にも後ろにも動かなかった。


おー、まい、ごっ


すぐさま、会社に電話して助けを求めた。
会社からその場所まで約20分。
JAFを呼ぶより早い。

ビルの前の道路は、二車線プラス右折車線付きの、やや広めの道路。
交通量は、わりと多い。
バスも通る。
わたしは縁石側の車線の半分まで車の頭を出していた。
通行の邪魔だ。

駐車灯をつけたまま、車の中でじっと救援部隊が到着するのを待った。
信号があるため、車はスローでわたしの前を過ぎる。

「なにやってんだ?」

という視線と

「あーあ、はまってやんの」

という視線を浴びながら、どういう顔をしていればいいのか、悩んだ。
ハートがチクチク痛かった。


しかも
わたしが駐車スペースを出ているところだと思い、そこに止めようという車が
妨げになっているわたしにクラクションを鳴らす。
そのたびに車を降りて、相手の車に駆け寄り

「すみません、 あんな状態なもんで今動かせないんですよ」

と、哀れな姿の自分の車を指差しつつ、説明を。
わたしより先に駐車している人も、わたしが邪魔になって出るに出られず
あっちこっちに頭下げて回る始末。


超恥ずかしぃ〜〜〜(泣)


見知らぬ方が、石を拾ってきてくれて、それを足場にと勧めてくれたり
車の下を覗き込んで、様子をみてくれたりした。
邪魔になって迷惑をかけた運転手さんも、最初はふくれっつらだったが
事情を説明すると、にこやかに待ってくれた。

みなさまぁ、月曜日のクソ忙しい時間にゴメンナサイ。


事故発生から約30分後、救援部隊が現場に到着した。
うちの救援部隊は、なかなか役に立つ。
ブロックを二つ、持ってきた。
前輪のタイヤをあげて、そこにブロックをひとつ敷く。
縁石を挟み、反対側に、もうひとつのブロックを。
つまり、ブロックと縁石をツライチにして、その上を走らせる、という感じに。

前輪を上げるのって、難しいんだね。
車体をジャッキで上げても、その上げる場所によっては、タイヤは接地したままなんだよ。
前輪の内側あたりにジャッキを入れ込み、道路に寝っころがって無理な姿勢でジャッキアップ。
救援部隊は、汗びっしょりになってた。


無事にコトが運び、わたしは羞恥の空間から解放された。


車の裏は、こすっているだろうが、エアロパーツは無事だった。
なので、縁石が若干かけたぐらいで終わった。


なんでそんなことになったかといえば
単なる不注意だ。
ぼーっとしてたもんな。

しばらくは安全運転してよーっと。




2004年10月19日(火)
認め合うということ ラスト



「認め合うということ」を考えながら、書きながら、自分の気持ちを再確認してきた。

わたしが求めるものが、そんなに特殊なんだろうかと。

いくつかのパターンを思い浮かべ、自分が考えていることに探りを入れてみた。

人に求めるのなら、自分はどうなのか。


今の気持ちは

認め合おうよ、なんてのは、勧誘しあうようなもんじゃないのかもしれないと。

もともと、その気がなければ、無理な話なんだと。



人は自分の存在を誰かに認めてもらいたい、
そう思っていると、ある本に書いてあった。

これ、誰かにわかってほしい、というのと似たようなもんなんだろう。


わたしも、そう思っている。
大勢の誰かに認めてほしい、わかってほしいというのはないが
大切に思う人には、わかってほしいなと。


だから、人間関係は大事に取り扱ってきたつもりだった。
でも、だからどうよ、って感じなんだよ、結果的には。


こっちがどれだけオープンに構えたとしても
相手が策を持って接してくるなら
認め合おうよ、という話は通じないことを強く感じる。



友情であれ、恋愛感情であれ、夫婦であれ、公共の場での関係であれ
築きあげるものだと、わたしは思うんだが
それぞれの人間関係の形ばかりを意識している相手と向き合った場合
自分の立場のみが優先され、相手の立場はなし、なのに気づく。


人と人とは縁が会って出会う
出会いは必然だ
とかいうけれど

その出会いを、はなから、どういう形にするのか、したいのか
決めようとしているように、わたしにはみえる。

つまり出会いの先を計算しているように感じる。
出会いの意味に答えを出したいみたいに感じる。


友だちごっこ
気のあるふりごっこ
さらには、信頼関係を作るふりをする
異性をその気にさせて楽しむ

人間関係を弄んでいるようにみえる。


誰かにやられたから、その仕返しなのか
人間関係なんて、うっとおしいから表向きだけでいい、と思っているのか


人間味がないと思うことが増えた。
いくつかの人格を使い分ける人が増えたようにも感じる。


理想と現実の中で
自己防衛本能が、そうさせるのかもしれない。


わたしは、といえば
人間関係は、ワンパターンしか知らない。
相手がどんなカードを出そうと、わたしのカードは一種類しかないから
それを差し出すしかなくて。

でも、これをやると、自分へのダメージが大きくなってきた。
わたしが持つ自己防衛装置が、型遅れになってきたようで
世の中に対応しきれなくなった自分を、しみじみ感じる。
わたしもカードの種類を増やさなきゃいけなくなったのかも、とね。

古くからある商店街が、ショッピングモールに移転することに似て
いいもわるいも、そんな時代なんだと。


人と人は、認め合おうという気持ちの積み重ねで
形はどうであれ、関わりあって生きるものだと思っていたが
どうも、そういうもんじゃないらしい、という気でいる。


自分さえよけりゃいいんだよ
そう思えばいいんだよ
と、勧められているようだ。
ま、遺伝子を残してもいないわけだから
そういう考え方も、ありかな。


改造してこなきゃ、だ。


おわり






2004年10月18日(月)
認め合うということ その8




仕事ができないヤツがいる。


能力的なもの、一言でかたずければそうなる。


しかし、ほっておいてはわたしの領域を荒らされるので
根気強く向き合っている。


おそらくは
幼児が「やってはいけないこと」を覚える時間の何百倍もかかって
ひとつの仕事の一部を理解しているんではないかというくらいに
何度言い聞かせても、覚えが悪い。


これ、頭が悪いということじゃないんだ。


彼の仕事の覚えを悪くしているのは
誰かの言うことを認めない、
まずは自分が一番正しいはずだと思っていること。


数々のドジをした上に、同じことを何度も注意されておきながら
自分が正しいはずだと思える根拠は何なのか
わたしなりに随分と考えてみた。


一般的には、
間違いがあるのか?と思った時に確認してみるものだ。
誰かの言うことが正解なのか、自分が正解なのか
とりあえず再確認するのが順当だろう。

がしかし、彼の場合
何の根拠もなしに、まず相手を否定する。
自分が間違っているはずないという言動をとる。


加えて
誰かのいいところを見本に真似てみようとしない。


自分は自分


いや、ちょっとまってよ。
自分は自分なんだろうけれど
いいところは見習いましょうという言葉もあるじゃないか。


わたしからみれば
自分が成長するチャンスを自ら潰しているようにしか思えないんだが。



本人のことだけならまだしも
一緒に働く他の社員らが、人の話に耳をかさない彼を
非協力的だと受け止めだした。
当然ながら、和が乱れる。
縦横の繋がりもスムーズに行かなくなる。


そのことすら、本人は理解していないようだ。


そこまで自分の中の正しさを主張するのであれば
他の人にも自分と同じように主張があることをなぜ認められないのだろう。




2004年10月17日(日)
認め合うということ その7




結婚生活の愚痴をきく。

一人間として、女として、仕事をしている人間として
男からも女からも聞く。


離婚したいと言えば
すれば?と答える。


離婚したいほどに耐えられないのなら、すればいい。
したいけどできないは無しだ。


愚痴はいくらでも聞く、相手が話したいだけ。
その結果、一緒にいたいか、いたくないかを問う。


こどものこと、お金のこと(生活のこと)世間体のこと、自分のこと


何かの理由で思い通りにならいのであれば
それに従うのか、全てを捨てるのか、ふたつにひとつしかない、と思う。


わたしは愚痴を聞くのはキライじゃない。
理不尽な思いは、わたしの暮らしの中にもあるから。
いつも元気に前向きに生きていける日ばかりじゃないし。


話は片方からばかり聞くので
女からの話の時には旦那さんの立場のからの
男からの話の時には奥さんの立場からの

逆の立場にも、いろいろあるんじゃない?なんて話は欠かせない。


明らかに一方が悪いという場合もまれにあるが
せっかく一緒に暮らしているんだから何とかなんないわけ?と思うこともある。


一人身のわたしにしてみれば
当たり前に思っている、あーんなことも、こーんなことも感謝に値するんだよと。


ただし
自分らの環境がどうであれ
家庭がうまくいっていないからという理由での不倫は、いただけない。
だからするのよ、と言われてしまえば、あいた口がふさがらない。

恋愛がらみに、理由付けはいらないさ。



「家が上手くいっていればよそには目がいかないもんだよ」


そう聞いたことがある。

よそとは、浮気であったり不倫であったり。(この二つの違いはよくわからないが)


上手くいくって、どういうことなんだろう。
理想通りの結婚生活のことだろうか?


「彼氏と別れたばかりで寂しいから別の人と付き合いだしたの」


というのと大差ないような。
これって相手に失礼な話だと、わたし的には思うのだけれど。


足りないものを埋めるための恋愛ということか。


確かにいるものな。
恋愛はひとときの幻さ、とかなんとかいっちゃって
家庭は守りながら、うまく立ち回っている人が。


いろんな恋愛の形をみていると
それこそ、なにがなんだか、わかんなくなる。


だから思う
人を好きになる気持ちに、あれこれ理由付けするなと。


遊びだの、二股だの、誰かに持っていかれただの
結婚がからんでようが、そうでなかろうが、どちらにもあることだし


人を好きになるということには
そうそう出会えないから大事にしたいなと
他のことはあまり考えられないというか
どうでもよかったりするんだ。


自分が認められたいから
相手のことも認めようと

努力はするけど、うまくいかないこと
もちろん、あるけどね。





2004年10月16日(土)
認め合うということ その6




金メダルを狙って銀しか取れないとき
回りは、よくがんばったよと言うだろうが
本人はどうだろう。
自分も金がよかっただろうし
回りが金を期待しているのも知っていて
金を取るために、自分でできる最高レベルまで自分と戦っているのに
やってきたことが報われないことだってある。


勝ち負けだけを意識すれば、金以外は「負け」ともいえる。
どんなにがんばったとしても、勝った人と負けた人に分かれる。

でもそれは勝負としての勝ち負けで、人としての勝ち負けじゃないだろ。


負けた悔しさをバネにしたり
尊敬や憧れに対し、自分もそうなりたいと挑んでみるとか
ライバルと刺激しあいながら、お互いを高めていくとか

誰かがいるから、がんばれる
自分ひとりじゃ続かないこともある。


よくがんばったよ、と相手を認め
報われないこともあると、自分を認め
お互いが認め合うところに、感動が生まれるのかもしれないな。


勝ち負け神話に魂を奪われ、やっきになって生きるのも勝手だが
勝ち負けと関係ないことまで、勝ち負けレースを増やさなくてもいいのに
と、おとなをみていて、そう思う。


どんな物差しで勝ち負けと言うの? 
たとえば、恋愛とか結婚をさ。
幸せ、なーんて、面と向かっていえる?




2004年10月15日(金)
認め合うということ その5




できる、できない
こどものころから、何度となくコレにぶつかる。

できないからといって、強く怒られたことなく育ってきたように記憶しているわたしは
やってもできないようなことを、やれといわれることはないだろうと思って
生きてきたように思う。

だから、考え方として、できないことをダメなことだと直接結びつけることは少ない。
むしろ、できないという言葉は、結果というよりは過程のような気さえする。


【逆上がり】

運動神経のいいこどもなら、なんなくこなす。
わたしは時間がかかったほうだ。
できなかった子も、どんどんできるようになると
自分だけできないことに焦ってくる。
できる子が羨ましいというよりは、できない自分が悔しいわけだ。
毎日練習した、手が豆だらけで鉄臭くなるまで。

逆上がりが簡単にできる人
ちょっと練習したらできた人
かなり練習したらできた人
かなり練習したけど、できなかった人
練習もせず、できない人

どれにも理由があるような気がする。
できる、できないのね。


でもさ、逆上がりができなくてもダメ人間ってことじゃないだろう?
おとなになったら、まるで関係ないし。
できるようになりたい、自分がそう思ったからチャレンジするもので
できるようになるのか、そうじゃないかは、また別な話じゃないかと。


【水泳】

一言で言えば、泳げない。
足が届く範囲でなら浮くことも潜ることもできるが
足が届かないところじゃできない。
溺れた経験があるから水が怖いのだ。

人は言う。
練習すれば、(浮けるし潜れるし)泳げるようになるはずだと。
自分でも泳げるもんなら泳げるようになりたい気は少しあるが
水の恐怖と戦うことは望んでいない。
それでももし、自発的に「泳げるようになりたい」と思えば
泳げるかもしれないとは思っている。

これ、ある角度からみれば、意気地なしだ。
泳げるようになるかも、と思いながら、やろうとしないわけだから。
わたしがおとなだから、面と向かって言われることはないだろうが
こどもだと、どういわれることか、努力が足りないといわれるかもね。
でも、泳げないからって、泳げないというだけでダメ人間?


できる、できないのハードルは自分の心の中にあって
自分でハードルを設定するものだと、わたしは思う。
できない自分を認める
できない相手を認める
それから次のことを考えればいい。

できた自分に満足することも
できなかった自分を受け入れることも
学ばなきゃいけない、すべて自分だと。
それをやらないから、考えないから、人のせいにするおとなが生産され続けている。


「なぜ、できないの?」

これに答えるのは、おとなのわたしでも難しい。
自分の努力が足りないから、できないのか
わたしの能力では無理で、つまり能力が低いのか
誰かと比べたところで、その理由は簡単に見えてこない。
理由がどうであれ、今現在「できない」ということは、わかっていて
できるようになるのか、できないままで終わるのか、それもわからくて
でも、できたほうがいいんだろう、という気はしてて、葛藤しているもんなんだ。

なんでもかんでも「やる気」をみせるなんて、できると思う?
自分に不向きだな、としり込みしてしまうこと、あるでしょ。
だから、こどものうちに「ダメな子」と思わせるようなこと、しないでほしい。



こどものおもちゃの鉄砲が壊れた。
パパに直して、と頼んだ。
パパは無理だよ、と言った。
パパならできる、3歳の息子は父親にそう言った。
日頃、できないと駄々をこねたとき、息子はパパに言われているのだ。

「お前にならできる」と。

パパは、パパならできる、という言葉にやる気をみせて(というよりは立場上)
鉄砲を分解してみたが、ネックはIC部分が壊れているのが濃厚、降参した。
息子は残念そうな顔をしていたらしいが納得したそうな。

もし、ここで「パパってダメだね」といわれたら、こども相手でもショックなのでは?


できないこともあるということを、3歳児でも知っている。





2004年10月14日(木)
認め合うということ その4




ヒトと自分を比べて見えるものがある。
自分の弱さ、ずるさ、努力の足りなさ
がんばってるぞと思っていても、たいしたことないかもなぁとか。

元気をもらうこともあれば
劣等感を感じることもある。

そこで、それでもいいやと思ったり
もっとしっかりしなきゃと思ったり


いつも前向きでいられるとは限らないが
励みになることも、しばしば。


案外、誰かに比べられて報告してもらわなくても
本人は、認識できていたりするのかも。
とくに自分の弱い部分はね。


多いなと感じるのは

比べた上で、優劣をつけた上で
誰かを批評することを平気でやってのけるわりには
誰かが優位、つまり自分が劣っていると明確にわかっていても
それを認めようとはしないこと。

足をひっぱるとか
イジメをやるとか
おとなの世界にも蔓延している。

おとながこんなことをするから、こどもが真似をする。


自分より優れているものを認めようとしないんだよね。
自分が負けているのが悔しいんだろう。

悔しいのはわたしも同じ。
自分よりも優れているものを持った人がいたり
自分にはない、自分にとっては欲しいものを持っている人がいれば
手にしていない自分に対し、悔しさはある。

でも、この感情は自分に対する悔しさであり
相手に対する妬みに変わるわけじゃない。


生まれ持ったもの、努力して身につくもの、積み重ねで自然とできるようになるもの

同じ条件、同じ環境で生まれ育っているわけじゃあるまいし
ヒトによって違いが出ても当たり前じゃないか。


ないところを「すごいね」といえる教育、ちゃんとやってんのか?
欠けているところを「ダメね」とばかり言ってるから「妬み」が強くなるのでは?





2004年10月13日(水)
認め合うということ その3




これだけ生きてきてもなお、わたしには知らないことが山ほどあって

歳を重ねれば埋まる知識もあるが
これは常識だよと言われたって、知らないものは知らない。
知らないことを知らないのだから、打つ手が無い場合だってある。
わたしは、そうだ。
知らないままにあの世行きだろう。


思うに
知らないよりも知っていたほうがいいことはあるのだろうから
でも、知らないことを知らないわけだから
知っている人が教えたら、それでいいんじゃない?と。


でも、今のおとなって、面倒くさがりやでしょ。
人と触れ合うにも、表面上だけ繕えばいいと思っているんだか
裏がある行動は目につくし、そもそも、付き合いというものを避けているんじゃないかと。


まずは、付き合いが先じゃないのかねぇ。
日頃、コミュニケーションができていないから、
集まって、いざ話し合いをするとなると
苦情の言い合いになって、私も私もとか、そういうけどあなたもそうでしょ、とか
攻撃合戦が始まる。
もめごとになると厄介だからと我慢して何も言わなかったのよと爆発でもするように。
認め合うんじゃなくて、けんか腰。
おだやかに話し合える環境ができていないんだろう。

学校でも町内でも団地やマンションでも、似たようなことが起っている。
もとはといえば仲間なのにね。

その延長上にこどもたちがいることを、おとなは気づいているんだろうか。
おとながこれだと、こどもだって、仲良くなるってことを表面上のことだと
理解するんじゃないのかな。



常識が欠けている、知識が低下していると言われてる、今。
加えて
教えようとしても、嫌がられる、危険な目にあう、逆に文句いわれるなど
祟らぬ神に的な考えをする人もいる。


教えて、というお願いに反応が鈍いというか冷たいおとな、増えたよ。
教わろう、という態度も、やる気あるわけ?といいたくなることあるし。


原因はひとつじゃないんだろうし
急にそうなったとは思えないんだ、時間をかけてそうなったんじゃないかと。
ということは修復にも時間がかかるだろうな。



教える側、教わる側それぞれに歩み寄ろうという気がなければ
お互いを認め合おうとしなければ
これからも、どんどん無くなっていくんだろう、あったほうがよいものが。





2004年10月12日(火)
認め合うということ その2




モノをよく知っている人
文章を書くことが上手な人
人前で話をするのが上手い人


こういう方々は、学歴、職種、経験、趣味など
優れたものを持った方じゃないかと、わたしは思う。
自分に欠けているということもあって、わたしにとっては尊敬に値する。


がしかし、こういう方々がイイヤツとは限らない。


ネット上でもたまに見かける。


小難しい文章が書ける方々の中には、ご自分の知識や文章力に自信があり、
相手を自分より劣っていると判断するのがお好きな方もいる。


いろんな人が出入りするオープンなネット上で

いい大人が、そんな文章しか書けないのか
顔文字でしか表現できないのか
若いもんぶった話言葉を使うな、とか


そうつっかかったようなモノイイしなくてもいいんじゃないかと、わたしは思う。


どう思うかはその人の勝手だが
だからといって、
その人なりの判断基準によって自分が裁かれるのは、まっぴらごめんだ。



ここで混同しないでいただきたいのは自己主張とマナー。
いくらかの交流があってからの言葉と、そうでない場合は別ものだから。
売られた喧嘩をかう、というのも、この場合は除外だ。


初対面で

「あなたって不細工ね、タイプじゃないわ」

とか

「そんな話し方すると頭悪そうに聞こえるよ」


なんて直接言わないことに似て



ここって字が見にくい
読んでいて疲れるよ
理屈っぽいこと言うね


なんて、お初な方から言われる筋合いはねーよという話だ。
どう思われようと知ったことじゃないが
マナーぐらいは意識してくれよ、と思う。
パブリックな場なわけだから。


挨拶もまともにできないのか、といいながら
自分の会社名も名乗らずに電話をかけてくる勘違い系お偉いさんのことを思い出すよ。


認めたくないのであれば(目にして不快に思うのであれば)
認め合える者同士で交流していればいいだけの話で
いちいち、レベルがとか、知識量がとか振りかざして、
それらを文章にする必要がどこにある?


わたし的一番の驚きは
自分の好き嫌いを、他人に向け正しい、正しくないということに
すりかえているところ。



それぞれに思うことがある。
この「それぞれ」を認めないおとなが目に付く。







2004年10月11日(月)
認め合うということ




長いこと自分の中でくすぶっているネタだ。
自分の言葉がみつからず、もやもやしている。
考えが頭の中でぐるぐる回っている。

え〜い、書いてしまおう。



何かが足りない、何が足りないんだろうと、このごろ、ぼんやりと考えている。
テーマは「人間関係について」


友人関係
恋愛絡みのぶつかり合い
うまくいかない、または諦めきっている夫婦の話
上司、同僚、部下との関係、それぞれの立場
社会で触れ合う他人との関係など

人間関係と呼ばれるものの中で、わたしが不快な思いをするのは
認め合うということをあからさまに拒否した関係だと言える。


わかりあえなくても認め合えれば、何か見えてくるのでは?

そんな話を思いつくままに。



【認め合うこと その1】



「自分と他の人を比較する」


比べてもいいじゃないか、とわたしは思う。
比べなきゃ自分がわからないから。
誰かと比べて、自分が優れているとか劣っているとか
いい勝負だなとか
そう考えるのは自然なことじゃないのかな。


比べることはよくない
だからみんな同じに
もしくは個性を発揮するように促す


そういう教育もあるようだけれど
わたしには、これ、とてもわかりにくい。


競争のない世界など、ほとんどないのに
競争心はダメよと否定しているように聞こえる。

テストの点数で仕分けられる学校で日々を送りながら
自分のペースでがんばりゃいいさと言葉では簡単に言えても
成績が悪ければ、居心地が悪いのが学校だ。


自分がやらなくても
誰かが、何かが、自分に優劣をつけるのが社会じゃないの?
絵がうまい、足が速い、勉強ができる、
これらは、誰かが点数なり評価なりをつけるから
誰かと、何かと比べるから、わかることだと。



勝ち負けを教わらずに
自分は自分と教えられ
個性を延ばせという


これさ

あたりを見回し、平均的にやってればいい
自分は自分、他人のことなんて関係ない
自分はこれをやりたいから、これだけやる

わたしには、そう聞こえるんだ。



ひとりで生きているわけじゃあるまいし
誰かと関わりあって生きてるくせに
周りの中の自分、つまり社会の中にいる自分を自覚しないでどうするよ、と思うわけだ。


問題なのは比べることではなくて、比べて、それを認め合えないことだと。




2004年10月08日(金)
本音が言えない 後編




何度も自分の中で繰り返し考えてみた。
本音を言えないことが、なぜ問題なの?って。

何故?どうして?何故?どうして?何故?どうして? ←こんな感じで。

それくらい、わたしには、わかりにくいことだった。

で、ひとつ思いついたのは
「本音」の取り扱い方に、わたしとのズレがあるんじゃないかと。



本音が言える、言えないの問題よりも
言ったあとの自分のことが気になるんじゃないかな。
どう思われうるかと。

どう思われようと知ったことじゃない、なんて人もいるかもだけど
それは、その人のやり方なんだろうから。

もしも、きらわれたくない、イジメにあいたくない
だから言わないのならば、それはちゃんとした理由があるわけだし
言わないことを自分で選んでいることになる。
だから、言える誰かがいないせいで「誰にも言えない」と悩まなくてもいいんじゃないかと。


もしも本音を言える誰かを必要としているのなら
まずは自分が誰かに心を開いてみるべきだろう。
それをせずに聞いてくれる人が欲しいのならば、カウンセラーに頼むといいかもしれない。


でもさ
本当に、本音を言える誰かを求めているんだろうか。
まずは自分の話を聞いてくれる人が欲しいのでは?
だって、本音を言うということは丸裸になることだよ。
誰にでも簡単にそうなれるものかな。
親身になって話を聞いてくれる、そういった信頼がなければ本音なんて出ないだろう?


親に本音が言えないってのは、別に珍しいことだは思わない。
わたしは未だに、語っていない本音は幾らでもある。

友だちに本音が言えないってのは、
前に書いたように信頼関係が出来上がっていないからだろう。
順番があるんだよ、これには。

恋人や配偶者に本音が言えないってのは
これ、ちょいと考えもんだ。
まぁ、これはおとなが考えることだから割愛ね。



一方的に「本音を言いたい」だけで、受け止めてくれる人は稀だ。
仲間はずれになりたくないから合わせているだけの友だちとか
自分が都合のいいときだけ求める友だちでは
本音を言える関係など、できるわけないだろと、わたしは思う。


だからといって
こちらが一方的に相手を信頼して本音を言ったとしても
相手が本音で返してくれるとは限らない。
本音を語り合える相手を見つけるのに、マニュアルはないと思ったほうがいいね。
リスクは大いにあるもんなんだ。
自分が、相手が、傷つく可能性がね。


わたしだって経験あるよ。
本音を語って、相手が本音じゃなかったと知ったときの衝撃は
人間不信という形で心の傷になる。
真にうけて、それが違っていた日にゃ
モノも食べられないほど落ち込むもんだ。


こどもの頃から、そういったことを繰り返し
もちろん学習はするんだろうけれど
今、こうしておとなでいても
やられるときは、やられる。
わたしは、そうだ。
人付き合いをゼロにしないのなら、傷つくことは避けられないだろうとまで思っている。


そうやって覚えたのが、「言わない本音」←これ。
本音をまったく言わないというのではない。
言うのは本音、だけれど言わない本音もあるということ。
わかりにくいかもしれないが、わたし的やり方。

本音じゃないとか、嘘だとか、話半分だとか、どうでもいいよ、好きにすれば?
と、胡散臭い人間関係にはうんざりしている。
本音語らないで何を語るんだよ、おい、とも思う。
おとながこうなんだから、こどもはなおさら大変だろうなぁ。



そうそう、
本音が言えないことを苦しく思う理由のひとつに
我慢をできないんじゃなくて、知らないこどもが増えていることもあるそうだ。
過保護に育てられることで、何でも自分の思い通りになるものだと勘違いし
社会(こども社会)に出たとたんに、そうならない場面に出くわすと
どう対処していいのか、わからなくなると。


となると、傷ついた場合も、深みにハマる怖れもあるということだ。
自力で立ち上がる練習もしとかないと、おとなの社会でいきなりもまれたら......
と、心配でたまらない。






2004年10月07日(木)
本音が言えない 前編




9月初めにみた例の番組で何人ものこどもたちが語った

「誰にも本音が言えない」

という言葉が、どうも引っかかってね。
しばらく考えてみた、自分はどうだったのか、そして、今はどうなのか。
わたしは本音を言えているのか、と。


番組をみたときに、瞬間的に頭に浮かんだ考えは
本音を言えないことが、どうしてそんなに気になるんだろう、ということだった。
自分があまり気にしたことがないからだ。

しかし、その次に頭に浮かんだのは
言いたくても言えない、となると、恋愛感情
つまりオトコに対しては、そういうことを考えたことはある、ということ。
恋愛感情の場合、本音を言えないだけでなく、言わないというのもあるし。


こう考えると
わたしも本音ばかりを言っているとは、いえない。

他にも
キツイとかツライとか、言わないことがある。
言うと相手が気にするかなと思うときとか、特にね。
気を使わせないようにと、ま、本人は思いやりのつもりでいる。

それが通じるか通じないかは、相手のセンサーの性能による。
有難いと思われるか、都合いいから利用しようと思われるか
それもまたセンサー次第。

この場合、自分で本音を言っていないことが、はっきりわかっている。
そんな自分に、呆れることもあるが
自分でやっていることなので、自己責任だとも思うし
相手のセンサーの性能によって自分を使い分けることはしないが
相手によって、本音を言っている場合とそうでない場合はある。


誤解のないように付け加えれば
だから建前ばかりとか、嘘ばかりということじゃないよ。


自分の感情であれば、コントロールできるものもあるってこと。
骨をおって、誰かの笑顔をみることができるなら苦にならない。
でも、わたしは心が広い人間ではないので、その「誰か」というのは
限定された「誰か」だということだ。

つまり、自分で決めている。
本音を言うかどうかをね。


本音だから何でも言っていいとか
本音を言えないことが悪いことだとか


本音を、そう取り扱うから、苦しいんじゃないのかな。


言っていいことと、そうでないことがあるように
言わないことがいいと、いうことがあるように


だから

言えないなら言わなくていい
言いたいなら言えばいい


そう考えればいいと思うんだけど。




2004年10月03日(日)
甘栗




わたしにとっての甘栗といえば
飲み屋街には必ずといっていいほどに存在する「天津甘栗」だ。


これが九州だけのものかどうか、知らないけれど
長崎と福岡には、ある。


「飲みに行ったあとに、つい買っちゃう♪」


.....ではなくて
わたしの場合は、それ、たこ焼き。
お腹いっぱいでも買うという、よくないクセがある。(苦笑)


では、甘栗に何故、飲み屋街のイメージがあるのかといえば

わたしがこどものころ、親父が飲みに行った後に買ってくるお土産だったからだ。
それが何時ごろか忘れているが
起きていられる範囲で、親父のお土産は楽しみだった。


単なる食意地が張ったものなのか
親父が酔っ払って帰ってくるのをうんざりしていたのか

記憶は、決していいことで刷り込まれるとは限らないのだろうが。


いずれにせよ「天津甘栗」は、酔っ払いの親父が買ってくるもの。


栗は好きでも嫌いでもない。
季節になると、一度は食べようと思う程度。

実家にいるときは、蒸かした栗というのも出ていた。
大きな栗を包丁で二つに分けて、スプーンで穿って食べた。
悪くない作業だったが、トキメカナカッタ。(笑)


甘栗の場合
小粒で、手で皮がむける。
平面側に親指の爪で割れ目をつけ、栗の両サイドに圧をかけ、皮をむく....
というよりは、皮をとりはずす。
その下には強敵である薄皮が待っている。
上手く取れるときと、栗の実本体に、こびりつくものとがあって

こればかりは「運」だ。

何個も食べると、親指の爪の間が黒くなる。
しかし、それなりに格闘しながらくちに運ぶ甘栗の味は格別だったりする。
ついつい夢中になって食べる。


手にとって
味を想像しながら
やや手間をかける
だから美味しい



さざえ(最後のちゅるりんまで取り出せることに、こだわる)
ほうじょうみな(2〜3センチくらいの巻貝で、食べるためには吸引力勝負)
みたいに
遊び心をくすぐる食べ物が好きで

割けるチーズが好きなのも、そのあたりに理由があるんだろうが


最近では、皮むき甘栗が販売されている。
見た目も味も、皮付きで売られているものとほぼ一緒で
ラクじゃあるけど、面白くない、すすまない。

つまんな〜い。


袋をながめて「無添加・無着色」と書いてあるのをみて
体にはいいのかもね、と納得を。

でもな、栗の生産地は外国だし.....微妙だわ。






2004年10月01日(金)
OCTOBER 2004



どのくらい、やったことがあるんだ?


うーん、わかんない、だって名前とか知らないもの。
メジャーなヤツは聞いたことあるけど
でも、それがどんな形だか、わかってないな、きっと。


なるほど。


ヒロシはどうなの?


え? 俺?
俺は男だからさ。


男だから何よ。


つまり、リードしなきゃだろ?
だから、それなりに知識としてはあるよ。


知識.....ね。
まぁいいわ、実践はどうなの?なんて聞いても無駄だろうし。


おいおい。




ヘンな話だけれど、どれも気持ちいいってわけじゃないのよね。


というと?


好みの形ってあると思う。


当たり所がよければ、いいもんだろ?


そうとも言い切れないよ、私の場合。


へぇ、そうなんだ。
で、どんなのがイイんだ?


というかさ、
あまりヨクナイというのが、ある。


乗っかっちゃうヤツか?


それは克服したってば。


じゃぁ、たとえば?


たとえばねぇ
獅子舞とか
抱き上げとか
立ち松葉も
つり橋もちょっと
深山もねぇ。


共通点でもあるのかよ?


あるある。


どんな?


内緒。


じゃぁ
一番気持ちイイのを教えろよ。



言えない。


なんで?


だって48の中には入っていないもの。


どんな形だ? ソレ。


コレ。


コレって?



今、やってるやつ........