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おとなの隠れ家/日記
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2004年09月29日(水)
命の大切さを教えよう




大切な課題だし、前向きであることはもちろん賛成なのだが
どうも、この「教えよう」という言葉にひっかかる。

3歳未満ならいざしらず、学校という名のつく場所に来る年齢のこどもに
学校側がプログラムを組んで教えるような内容なんだろうか。


「今のこどもたちは知らないから教えるんだ」


そういう声が聞こえてきそうだが
わたしは、こういうことは、こどもが自ら感じるて学び取るものだと思うんだ。
学校生活よりも日常生活に存在するテーマだとも思うし。


こどもたちは言ってたよ。
命が大切だということは、頭ではわかってるって。


わたし的には、この「頭ではわかってる」と区別していることも気にはなる。
頭でわかっている、じゃどこでわかっていないかというと
どこよ? ハート?
どこでわかればいいわけ?
心と体は繋がっているんじゃないの?

こういうこと、聞いてみたいな、こどもに。


わたしは命の大切さは、たぶんわかっていると思う。
が、具体的に、どこでわかっているのか、わからない。
きっと、何かを見て感じて、自分で考えたんだと思う。
でもね
どこからどこまでを「命」というかについて、今でも迷うことはある。
大切だと知っていながら、大切にしていない自分も存在している。



「命は大切です」といわれれば、大切なんだと覚える。
キーボードでAを押すと「A」と画面に出てくるように、ただそれだけのことを
頭ではわかっている、というのならば、それは
作られた台詞をくちにしているのであって、
大切だという意味は、わかっていないのかもしれない。


金魚が死んだらトイレに流すような時代だからね。
大切なものをゴミ感覚で扱うはずはないと思うのだが、わたし的には。
こどもなら迷うと思うよ、こんなことやってて「命は大切です」と言われても。
人間の都合上、大切なものと大切じゃないものがあるように、思う。


「だって埋める場所、今時そうそうないのよ」


これがおとな的な考えなわけよねぇ。


「命は大切です」

言葉じゃなくて感覚的なもんじゃないだろうか。
ネロが眠るように息を引き取り、パトラッシュが寄り添うように逝ってしまう
あのシリーズ観るだけでも、精神的には、かなり刺激があるはずで

もしも、それを感じられないのなら
もっともっと基本的なところに、欠落しているものがあるのでは?と、思う。

感じる心、喜怒哀楽を表現する力
そこに何か問題があるような気がしてならない。


今のこどもたちには、どうして大切なのかを考える時間を与えられていないように感じる。
一方的に大切だ、なぜなら、と説明するだけじゃ、伝わらないと思うんだ。





2004年09月27日(月)
オソロシイ




昨日書いたように、今、過去モノ整理中だ。





あった、「甘える」について。(笑)


それから


あった、今日の気分と全く同じ書き物が。(自爆)


「メンテナンス」←これこれ


書こうかな、やめとこかな、と思っていたところ。



繰り返してんだな、やっぱり。





昨日のことだ。

こども(幼稚園年長さんくらい)が、お母さんに叱られていた。


「何回言ったら、わかるの?」
「同じこと、繰り返しちゃダメだと、いつも言ってるでしょ!」


え? わたしのことですか?


そんなちいさいこどもに言ってきかせたって無理だって。
やってるもの、わたし。
この歳になっても。(恥)







2004年09月26日(日)
敏感になりすぎか?




NHKのドラマのワンシーンで
ヤバイ系の方々が、10代前半と思われる少女たちと乱闘シーンになる。
武器はない、素手同士だ。


がしかし、おとなの男のパンチが少女のミゾオチにはいる。
張り手はもちろんのこと、おとなの男が拳で少女の顔を殴る。
倒れた少女たちは、ぐったりとなるが出血はなし。


おふざけとか、お笑いならば通過できるが、話はシリアスな様子。


おかしくないかい?
おとなの男が少女の顔面を殴って血が出ないのか?


もしも
それを残酷なシーンだと思って遠慮するぐらいなら、最初から撮らなきゃいいのに。

ぐーで殴れば、鼻の骨が折れるかもしれないし鼻血だって出るだろう。
張り手であっても、歯と頬の内側がぶつかって出血することもあるし
唇を切ることだってあるかもしれない。


それにしてもさ
どういう内容のドラマかは知らないけれど
(上に書いたシーンを見て、むっときてチャンネル変えた)
気持ちいいもんじゃないよ。
少女相手だったしね。
ノンフィクションとか再現物だったら、我慢するけど


もうちょっと娯楽的なもん、やってほしいんだけど。
怒りとか不快とかじゃなくて
悲しかったりもするけど、笑えるとか
泣けてくるけど、感動するとか
気持ちが明るくなるようなものを。


ま、まさか
あんなもんみて、面白いと思うような世の中になった?(怖)





2004年09月25日(土)
劇的なこと




わずか1年ちょっとで生活が激変する
回りで起っている。

いい方向へというばかりじゃなく
ま、いろいろなんだけどね
そんな気分を、わたしはなかなか味わえない。


人が言うには、あれだって、これだってと
わたしの人生に劇的ポイントを指摘するが

当の本人は、それほどでもないのだ。


劇的なこと
なさすぎて、ただ時間が流れているようで怖い。


劇的なこと
ないと、先もワクワクできない。
せっかくの感受性ってやつを、もてあましている。



いたって平凡で穏やかすぎる日々
何もしていないわけじゃないけど
何をしてみても劇的なことと反対方向に歩いているようで


期待している劇的なことから
どんどん遠ざかっているような気がする。


ちょっと気になる。
何故、なんにも起らないんだろう。





2004年09月24日(金)
いまさらとも思うけれど




男のヒトに甘えるって、どういうこと?

頼られることが嬉しいと、男はいう。
しょっちゅうだと困るけど、たまに甘えてほしいな、と男はいう。

どうも、ぴんとこないんだよね。

どんなことで頼られていると、男は実感するの?
嬉しい甘え、と男が思うことって、どんなこと?

具体的に教えてください。


そんなの、恥ずかしくていえるか! とか
自分の男にきけ! とか
甘えたことないの? とかは

却下です。(笑)




2004年09月18日(土)
見えないんじゃなくて見ていないんだろう? その10




ここまでに書いてきたことが、全ての親子に当てはまるわけじゃない。
当然すぎて、特に前置きとして書く必要もないと思った。


なのに

「あなたよりわかってるわよ、そんなこと」
「子供いないのに何がわかる」
「テレビみたからといって、それが全てじゃない」


こういうの、なんていうの?
言わせてもらえば
視野が狭い
人の話はきいちゃいない
色眼鏡でモノをみてしまう


わたしはおとなだから、
そういう辻褄の合わない考え方を受け止める余裕はあるけれど
こどもたちは純粋だから、きっとこんがらがると思うよ。


確かにわたしは現場を知らない。
目にするこどもたちの数は、わずかだし
こどもがいる人たちとは違った生活をしている。

しかし、やる前から、やったことないくせに、なんて言われたくない。


それから
誰もが、その人なりにやっているんだ、完璧なんてありえないだろう?という考え方。
おとなは、自分のことについてはそう思っているんだろうが
こどもを見る目も、同じように見てる?


こどもを楽しませたいと、作品を作っている宮崎監督も
子育てについて、ためになる話を聞かせてくれる養老先生も
この番組に出演していた教師歴35年のベテランの先生も
我が子の子育てについては「大きなことは言えない」と言う。

今の現状を見て心を痛め、それぞれの専門分野で語りかけているのだろう。

それでいいじゃない。
今、どうなっているのか、なぜそうなったのか
一緒に考えようよ、ということだろう?


わたしの知り合いや友人には、こどもの回りで戦い続けている人がいる。
PTA関連、少年スポーツ関連、教師、教育委員会など。
そして彼らの愚痴は、どれも似たようなものなんだ。

いまどきのこどもは.....ではなく
いまどきの若いもんは...でもなく
いまどきの親は、なのだ。


わたしの環境でいえば、仕事絡み、集合住宅絡みで見ても
いまどきのおとなってヘンだよ、ということに出くわすことがある。


ということは
おとながこどもによくない影響を与えているということは確かだと思うのだが。


こども相手の猥褻行為や虐待だけをみても
増えてるよね? ヘンだよね? 現状を見て、何も感じないはずないよね?



こういうことを言い出すと、必ずといっていいほど反撃と言い訳が返ってくる。
よくないクセだと思うよ、その、喧嘩腰っていうの?
ああ、はっきり言って、わたしは思ってるよ。
今の親は何やってんだ?と。
親ばかりでなく、おとなもね。
自分も含んだ上で考えている、おとなとして。
表現の下手さや言葉の使い方につっかかってくるんじゃなくてさ、現実をみてみなよ。
わかりきった建前を並べて現実から目をそらしても、こどもは見抜くよ。
だから「ウザイ」と言われるんじゃない?



ま、いいや。
テーマに戻ろう。



「こどもが見えない」


こどもが隠しているから見えないのか
おとなに見る力がないから見えないのか
いずれにせよ「見えない」ことが大人側からの問題の壁になっているようだ。


こども側は
掲示板の書き込みを読んでいると、結構おとなが見えているように思う。
こどもの方が数段上手だなと感じる書き込みもあった。

こどもには見える
おとなには見えない


ということは

こどもは見ている
おとなは見ていない

ともいえる。
おとなは見ているつもりでも、こどもはそれを見ていないと判断していることになる。
だからこそ、こどもは「見て!」と訴えているんじゃないのか。



見えない理由を、おとなは考えた方がいいように思う。
見えないから、どうするかということよりもね。

見えないことを、こどものせいにしていないだろうか。
こどもが見せてくれるもんだと、それを待っていたり
無理に見ようとして、閉ざされているのではないか。


聞いたら本当のことを話してくれる....なんてのは甘い考えだ。
こどもを含め、人は話を親身になって聞いてくれる人にしか胸の内は話さない。
どうせ怒られる、頭ごなしにダメだといわれる、心配かけるだけで面倒だ、
そういう先入観をもっているこどもは親に本当のことは言わない。
いい子のふりしてれば喜ぶ親には、負の部分は見せられない。


ただし、これは今に始まったことじゃなくて
親と子の関係であれば、多かれ少なかれ昔から存在している。
親(おとな)は、わかってくれないと、こどものころに思ったこと、あるのでは?


だから思う、見えないことがどうしたよ、と。


見えようが見えまいが、こどもを愛する、それが親じゃないの?
親に愛されたがっているこどもがやけに目につくのは
こども側からすれば、愛されていない、見捨てられている、そう思っているからだ。


愛情表現の仕方にも問題があるってことだよ。



この番組をみて、わたしが思ったのは

こどもの境遇が窮屈だということ。
家でも学校でも友人関係でも、自分の居場所を意識しなければならないことが
かわいそうでならない。
そういう境遇や扱いを、こどもに平気でできるおとなにも呆れる。


どうして、そうなったんだろう、と思う反面
なるようにして、なっている、とも思う。


矛盾していること、辻褄の合わないことが多すぎるものね。
こどもにとって、それをわかろうとするのは並大抵のことじゃないだろう。


今のおとなは、こどもを弱い立場だから守るというよりは
弱い部分を利用しているように、わたしの目には映る。
こどもの世界を侵略し、おとなにとっての都合や便利を押し付けて
こどもの成長を待てないのか、先回りして摘んでしまったり均してしまったり。


こどもには、それがわからないと思うんだ。
わからずに従う、どこかに違和感は感じていたとしても。
それがいつか爆発するのか、溜め込んで精神を傷つけるのか
いずれにせよ、結果はもう出ている。
事件を起こしたり、登校拒否であったり、家に帰らなかったり.....
こども本人が一番わからないと思う、なんでそうなったのか
なんで、誰も自分をわかってくれないのか、とね。


こどもをこどもだと認める、今のおとなに欠けていることだと、わたしは思う。







PS

この番組が放送されて、もう2週間が過ぎたが、こどもの書き込みは今でも見れる。
おとなの意見も募集されていたが、それは見ることができない。
公開されたかどうかも知らないけれど、読んでみたかった。
残念だ、と思うと同時に、おとならしいやり方だよなと。

おとなだけ特別なのか?



おわり






2004年09月17日(金)
見えないんじゃなくて見ていないんだろう? その9




こどもと母親が対立してしまった家族の取材をしていた。
中学生のころまで成績優秀で、親としては自慢だった娘が突然非行に走った。
親はそれを許せず、娘との間に深い溝ができたらしい。

当時こどもが思っていたことは、褒められたくていい子を演じていたのだと。
でも、そのまま親のいいなりで生きていくのがいやになった。
私がもしも「いい子」じゃなかったら愛してくれない?
それが反抗の動機だという。


当時、母親は、何不自由なく育てたのに娘に裏切られたと思ったらしい。
反抗的な態度は、受け入れられない、受け入れるわけにはいかない、と。


この親子には、二人の溝を埋めるべく、間にカウンセラーが入った。


カウンセラーは、こどもに聞いた話を母親に伝えた。
自分を偽って、母親が気に入る娘を演じてきたと。

母親は驚いた。

「そんなこと、一言もいわなかったじゃない」

(いえねーだろ、普通。)


母親は「娘は母親の作品」だといった。
母親がどれだけ手をかけたかで、娘のデキが決まるのだと。


かちんときた。
言わんとすることは、わからなくもない。
夫が単身赴任で、娘の教育は一手に任されていた。
おそらく、この母親の寂しさは娘の教育へと跳ね返っていたのだろう。

作品というのなら、誰かに認められたいってことだね、自分が。
娘のためじゃなく自分のためだと言い切っているようなもの。


「いい娘さんですね」といわれるご近所や
「成績優秀ですよ」といわれる学校側
「家事も娘のことも、ちゃんとやってます」と夫への証明。


こどもは親の所有物じゃない。


カウンセラーの女性がいう。
親は、こどもを自分と同じ人格だと思い込んでいる
親の思い込みを押し付ける傾向にある、と。
いわゆる、モノ感覚だ。


これは親のエゴだ。
こどもにはこどもの人生がある。
転んだ時に手をさしのべてくれるのは有難いが
どう転ぶかは、自分で見つけたい。
転ぶかもしれないけど、転ばないかもしれないじゃないか。
そこがおとなとこどもの違いなんだよ。


「あんたなんか、いなくなればいい」
「生まれてこなきゃよかったのに」
「産むんじゃなかったわ」


他に、害虫よばわりされたり、ダメ人間にされたりと
かっとなって出る親の一言に傷ついているこどもの書き込みを読んだ。



勝手な言い草だよね。
結婚も妊娠も、自分たち(親)の意思だろう?


「生まれたくて生まれたわけじゃないさ」


こどもは、そう思っている。
わたしも、そう思った経験がある。




2004年09月16日(木)
見えないんじゃなくて見ていないんだろう? その8




佐世保で起きた事件をもとに、専門家の方々も教育を見直す方向で模索しているらしい。

番組では、長崎のある小学校で「死」についての授業を取材していた。
今まで授業では触れなかったテーマらしい。

教師は、事件後、刺した女子が「わるいことをした、会ってあやまりたい」
といった言葉に引っかかったという。(わたしも引っかかった)
こどもたちにとって「死」は、どういう捉え方をされているのかと。


小学生3年生ぐらいだろうか。

「人は死んだらどうなるか?」

という問いに、33人中、28人が「生き返る」と答えたそうだ。


生きたいという思いが強いと生き返る
殺されたり自殺をしたりした人は残りの人生を生き返って続けられる


まるで小説や映画のようだ。
なぜそう思うかと聞くと「テレビでみた」という答えからも、
創りものと現実の違いを、まだわかっていないとみていいだろう。


教師はこのテーマを家の人と話してみましょうと宿題にした。

家でこどもと母親が話しているところを取材していた。
その家のこどもも「生き返る説」を信じていた。
母親は、自分のこどもが死を理解していないと驚いていた。
生き返る、つまり人生をやり直せると思っていることが信じられないと。
死んだら二度と会えなくなるということは当たり前すぎて
どう説明したらわかってくれるのか、教える方も戸惑うと話していた。

そしてこともあろうか、「人を殺したいと思ったことがある?」と聞いていた。
母親は、聞きたくないけれど聞いたといっていた。
今はこういう話にも触れてこどもと話さなくちゃいけない時代なのかと困惑気味だった。


なんか目線がずれてやしませんかねぇ。
殺意について、こどもに聞いちゃいけないと思うよ。
「ない」とも「ある」とも答えさせることに、わたしは反対だ。
こどもの答えには、本当ではないことも曖昧なことも含まれているからだ。



今のわたしにとっても「死」は難しいテーマのひとつだ。
10年ちょっとしか生きてきたこどもが死について首をかしげる姿に、そうだろうなと思う。
死について何を知っていれば、死を理解したことになるのか。
教えるという前に、おとなは理解しているんだろうか。

実際、わたしもこどものころは「生き返る説」を持っていたように記憶している。
会えないけれど、どこかで生きているってね。
サンタクロースの存在を信じるような気持ちに似て。


17歳の書き込みに

死というものがとういうことか理屈ではわかるけれど
実際、人の死を見たことがないので実感がない

と、いうのがあった。
驚くこともないだろう、そうだろう。
友だちをなくした、親がなくなった、そういう経験がなければ人の死について
それがどういうことなのか、わかりにくいはずだ。


病院やお葬式で亡くなった方を見ることはあっても
事故死、殺人現場での死体を見ることは、ほとんどないといっていい。
にもかかわらず、テレビや映画だけでみる。
映像が実際のものと近いとか、かけはなれているとか、比べることはできない。
それしか見ていないなら、そういうもんだと思うだろう。
まして、死んだはずの人間が作品的に生き返りでもするなら、生き返ると思うこともあるだろう。


わたしは「生き返る説」が死について理解できていないとは思っても
だからソレが殺意に結びつくかといえば、そればかりじゃないだろうと思う。
死んでも生き返るから殺してもいい、と仮定すれば
そこに痛みが伴うことを削除した考え方になる。

相手が痛いだろう、苦しいだろう、
死んでしまったら回りが悲しむだろうということに対し
実感として、それらの気持ちがわかないことが殺人や自殺の動機に関係するんじゃないかと。


死と殺意は、本来なら分けて考えたほうがいいんだろうが
テレビから流れ出す創作品やニュースの影響なのか
番組の中でのこどもたちは、死という言葉から連想するものに「殺人」や「戦争」も含まれていた。

「大人は命を大切にしなさいというに、どうして戦争するの?」

もし、こどもにこんなこと聞かれたら、わたしは死んだフリでもしてしまいたい。



ゲストの方々がいうには

動物の死で感じる悲しさを伝えたり、自分(おとな)が体験した話をしながら
自分がどう思ったか、どれだけつらくて悲しい出来事だったかを話して聞かせるといいだろうと。

生の喜びを伝えるのもいいと。
生きていることが、どんなに素晴らしいかとね。
死んだら、そういう思いはできないと。


わたしもそう思う。
人が死んだら二度と会えないというのでは不足だ。
離れ離れになれば生きていても二度と会えないことはあるのだから。
それよりも悲しいことなんだと聞かされるほうが、わかりやすい。


ちなみに、
わたしが、人は死んだらそこで終わると考え出したのは24ぐらいだったと記憶している。
祖父の遺体を中学生のときに見ていたにも関わらずだ。
大好きだった先生が死んでしまっているということを認めたくない気持ちは、今でもある。
どこかで生きているんじゃないかと。


死んでラクになりたい.....友だちはそう言った。
死んだことないのに、どうしてラクになれると思うんだろう。
死んでしまったらラクだという体感はできないはずなのに。

おとなだって、わかってない。





2004年09月15日(水)
見えないんじゃなくて見ていないんだろう? その7




さてここまでが、番組の一回目をみて考えてみたこと。
どれも深刻に受け止めた。
ひとつ「本音がいえない」の本音について、かなり書いてはみたのだけれど
いまひとつ、まとまらないので、もうちょっと考えてみることにする。



特設掲示板に寄せられたこどもの声は
小さいころから、がっちりとかまってもらわれすぎて息苦しそうなこどもや
うわべだけのこどもの演技にまんまと乗せられ、本当の姿をみようとしないおとなへの苛立ちが、
溜まりに溜まっていることがうかがえる。


まだこうやって、声が聞ける分いいんじゃない?
おとなはそれを有難く思うべきだ。

そこから早いとこ、救ってあげないと
見えないなんて言っている場合じゃない。
SOSがちゃんと出ているのだから。



......とわたしは思うのだけど、
そのわたしの神経を逆なでするような二回目のタイトル。


「大人はどう向き合うのか」


営業会議じゃないのだから、ああすればこうなるってもんじゃないだろうに。



番組の中で、こどもに問いかけた。


「大人に言いたいことは何か?」
「どんな言葉が嬉しかったか?」
「どんな言葉に救われたか?」


だって。
だめだ、こりゃ。
やっている番組はいいけど、この問いかけはどうよ。

聞くなよ、そんなこと。
考えればわかることだろう?と、思わずテレビに文句を言った。
こどもが何を考えているかわからないといって、こどもの言葉を求めておきながら
その解決法まで、こどもに聞くというのか?
てめーで考えろ、自分だってこども時代があっただろ?と熱くなったのはわたしだが
こどもは冷静だった。


そんなこと、おとなが考えてください。
嬉しかった言葉、救われた言葉を言って、それを言われたからといって
嬉しくも救われたりもしません。


ナイス♪
わたしにはこどもの方がまともに映る。
おとなはこうやって、こどもをこどもとしてはみない傾向にある。
おとなの目線を押し付けるのだ。

こどもが見えない→実際にこどもに聞いてみる→見えるようになるはず

安易としか思えない計算だ。


大人とこどもとの間に溝ができている、物事の捉え方にズレがある

って、おいおい、ズレがあって当然だろう?
相手は大人ではなくこどもなんだよ。
同じだったほうが、怖くない?

一体、おとなは何を求めているんだ?
なんか態度が横柄なんだよね、わかってあげるから言ってみなのように。
こどもが見えないというおとなに非はないという前提で物事が考えられている。

思うようにできなかったり
言いたいことをいえなかったり
それをわかってやろう、受け止めようとするのがおとななんじゃないかい?

番組の冒頭からどうも気に入らない展開だった。




2004年09月14日(火)
見えないんじゃなくて見ていないんだろう? その6




投げ損ねたボールがあたっただけで、気に食わない一言を言っただけで
イジメの対象になるらしい。
シカト、暴力、いたずらなど、それまでの学校生活が一変して苦痛のものとなる。
多くのイジメが誰かに救われることは少ないようだ。

親に話しても笑われた
先生に相談しても、自分でなんとかしろと言われた
友だちにはいえない、かばってもらえば今度はその友だちがイジメの対象になる


つらいねぇ、やるせないよ、こんな書き込みをみると。
八方ふさがりのように思うんじゃないかな。


イジメに耐えかね、相手を殺そうと刃物を隠し持って学校に行ったというこどもの取材があった。
どうして殺そうと思ったのか、その心のうちを聞いていると、わたしにも伝わってきた。
積み重なる憎しみと自分を守るために、相手を殺すしかないと、彼は思ったそうだ。

彼は繰り返される暴力の痛みには耐えられたという。
先生や友だちにこの話をして、今の関係がくずれることが怖かったらしい。
しかしあることから我慢の限界を超えた。
屈辱、それには耐えかねた。
刃物をカバンにしのばせ、朝、いつものように食卓へと向かったら
朝食をあわただしく準備する母の姿がそこにあった。
「おはよう」といえば「おはよう」という言葉が返る。
「こぼさずに食べるのよ」という、いつもの小言がある。
彼は家族の存在を感じたらしい。
もしも自分が人を殺したら、家族が悲しむ、相手にだって同じように家族がいる。

どういう方法で殺してやろうかと計画を練っっていた狂気の世界から彼を引き戻したのは
普段と変わりのない朝食の食卓の風景だったというわけだ。


こんな話を聞いていると、心が痛くなるよ。
十代で、そこまで追い込まれてしまう、学校に行くことがまるで地獄だ。
どうしてそうなっちゃっているんだ。

もはやこどもは諦めているように見える。
ただ息を殺して、じっと学校生活が終わるのを待っているような。


それにしても
回りのおとなたちは気づかないもんなんだろうか。


「ちゃんと見ていれば、私たちが追い込まれていることを親も先生も気づくはず」


こどもの書き込みに、そうあった。
だよね、見ていれば何か感じるはずだよね。


わたしは、こどもが、誰かを殺したいという気持ちがどうやってわきあがるのか
衝動的な場合を除けば、ちっともわからなかったのだが、今は少しわかってきた。


計り知れない憎しみと、これ以上耐えられないところにいる
そこを抜け出す方法として、相手をやるか、自分がやられるか


こどもが? そんなはずない
そう思っていたのが間違いか。

こどもなのに、そういう状況にいるのかもしれない、
こでもだからこそ「殺す」「自殺」という発想になりやすいのかもしれない、
そう思った。


こどもの起こす事件や自殺は何かと目立つ。
以前にはあまりなかったことだというのもあるのだろう。
その原因を「こどもが変わった」という目でみる前に
こども社会にも、おとな社会に似たようなモノが迫っているとみるほうが
当たっていはしないか。





2004年09月13日(月)
見えないんじゃなくて見ていないんだろう? その5




テーマにあった、今のこども達の友だち関係の話には、ちょっと頭を抱えるものがあった。
友だちという言い方であっても、わたしの思う友だちとは違う。


友だちの使い分けをしているこどもがいた。
話題や趣味、クラスの立場関係で所属するグループを使い分けているのだ。

Aというグループはゲーム好き
Bというグループはファッション好き
でもAとBとは仲がよくない。
少女はAともBとも仲良くしたい。
でもAと一緒のときにあまり楽しそうに騒いでいると
Bが心象をわるくするんじゃないかと、
またその逆でBと盛り上がりすぎたらAに戻ったときに、何か言われるんじゃないかと。
そういうことに気をつかっている、小学生の高学年でだよ。


仲のよさそうな二人組の少女を取材していた。
そうみえたのは、夏休みも毎日のように会っているというから。
学校でも一緒、放課後も一緒、いつも一緒に遊んでいた自分の友だちのことを思い出した。


番組の中の二人はお揃いのメーカーの服をきて会うことが友情の証だそうだ。
プリクラを撮ったとき、仲良くみえるという理由もあるそうだ。
仲良くみえる?

この二人組のうちの一人には、好きなクラスメートが他にいて(女子)
その子と仲良くなりたいために、その子が好きなファッションの情報と話が合うよう
こども向けファッション雑誌を定期購読しているらしい。

「その子に好かれたいから、友だちになりたいから」

んじゃ、今の仲良しな子はどうするの?
もしかして仲良しのフリをしているだけかい?

ひとりになるのはいやなんだろう。
誰かと友だち関係でいる、グループに所属する、それが形だけであってもいいようだ。

これも似ている気がするんだよね。
おとなの世界にある、表面上のお付き合いというのに。


しかし、小学生でそれをやっているということに、わたしは驚いた。
あの子と友だちになりたい、そういう気持ちはわかるが
気に入ってもらおうとするというのは、友だちに使う手段じゃないだろう?
それが恋愛感情ならわかるが。


うまくやっていきたいから本音はいわない
自分が受け入れてもらえるかどうかを不安がる
演技の上で成り立っている友だち関係


一緒にいて楽しかったり惹かれるものがあるから、仲良くなるんじゃないか?
喧嘩したり、支えあったりするもんだろう?
こどもが書き込みした掲示板には、わたしが思う「友だち」と同じ考えのこどももいた。


ただここで、あることに気づく。
わたしには友だちのふりとしか思えない友だち関係が成り立つ裏には「イジメ」という問題が潜んでいた。
ひとりになったり、誰かの気分を損ねたらイジメの対象に自分がなる可能性があることを
こどもたちは知っているのだ。
だから飛び込めない。
深い関係になりたくない。


わたしがこどものころもイジメはあった。
だか「イジメ」もまた、大人化しているのだ。
わたしの知る、悪ふざけの延長とは大きく違い、陰湿で暴力的で。
悪質な借金取りにでも追われているような雰囲気さえ感じる。
肉体的にも精神的にも攻撃される。
しかも誰かに助けを求めることすらできにくい構図になっているようなのだ。




2004年09月12日(日)
見えないんじゃなくて見ていないんだろう? その4




= 回想 =


急に勉強したからといって急に成績が上がることなんてなかった。
寝る間も惜しんで勉強すれば、少しは早く上がるかもしれない。
でも睡眠不足だと集中力が続かない。
思うようにできないジレンマに陥る。
やがて体が壊れる。
強制されると心が壊れる。


今になれば、この仕組みも頭でわかるんだけど
やってた当時は、わからなかった。
勉強が嫌いになっていくだけ
成績が落ちていくだけ。


親はあまり成績のことを、とやかく言わなかった。
本人は、言われはしなくても上げなきゃという気はあった。
でもね、うまくいかなかったんだよ。
わたしなりに、やってはみたけれど。(一生懸命ではなかったが)

多感なころだから
勉強のことばかり考えているわけじゃなかったから。
部活もやってたし。

あれで勉強しろとうるさくいわれていたら
学校やめるか、グレてたか、そんな気がする。



このごろになって親に聞いたことがある。

学校選びのときも
成績落ちたときも
卒業後の進路を変えてしまったときも
仕事を辞めてアメリカに行ってくる〜と行ったときも
なんで、ああしろ、こうしろといわなかったのかと。


「自分でなんとかするだろうと信じていたから」

だってさ。
そうなのか、信じていたのか。

この言葉、
もしもこどものころに言われていても、心に響かなかったと思う。

「あなたのために、あなたを信じているからこそ」
「んじゃ黙って見守ってよ」

こう言い合うに決まっている。


親とこどもって近づきすぎるのも、よくないのかもしれない。
親は、やっぱり自分より上の方にどかっと座って見てくれていたら、いい。






2004年09月11日(土)
見えないんじゃなくて見ていないんだろう? その3



こどもが将来やりたいことを語ったところで、
おとなから現実的な話でそれをつぶされるのは、
おそらく今も昔も存在すると思われる。

友だちとの付き合いが上手くいかないこどもだって
いつの時代にもいるだろう。


親と仲がよくて何でも話せるこどももいれば
親にはうまくいえなくても、友だちとなら話せるとか

どちらともうまくいかないとなると
動物だったり本だったりゲームだったり、そしてパソコンだったり。

こどもの時間さえ取れれば、こどもは自分でみつけていく。
自分の世界ってやつを。


ところが、こどもの世界におとなが立ち入りすぎると
おとなを仲間だと思っていないこどもは、
こどもであることを隠してしまうんじゃないだろうか。


小さい頃は遊んでと、親にせがんだこどもたちも
幼稚園や学校に行きだすと、こども同士で遊ぶようになる。
こども同士で楽しかったり悔しかったり悲しくなったりを学んでいく。
言葉で学ぶのではなくて身をもって学ぶ。


2歳くらいのこどもをみていると転びそうになって走る。
転ぶだろうなと思ってみていたら、やっぱり転ぶ。
転んで泣いて、次に走るときは、また転びそうに走っている。
いつ痛いから転ばないようにしようと気をつけはじめるのか知らないけれど
やがて転ばないようになる、でも時間が必要だ。


この、どのくらいかかるのかわからいけれど必要な時間というものが
おとなの手によって縮められているような気がするんだ。

小さいころから教えると何でも上達する、
そう思い込んで、まだ生まれて10年にもならないこどもに
あれこれ習い事を与えてしまうと、本来その歳でやっとかなくちゃいけないことを
やる時間がなくなってしまうよ。

こどもが、したいというから
こどもが、楽しんでいるみたいだし


本当にそうなのか。


こどもは、よくウソをつく。
親の喜ぶ顔をみたくて無理をする。
褒められたくて、かまってほしくてがんばる。
こどもって親に愛されたいと強く願うものらしいから。

こどもの親に対する洞察力を上回ることは、親には不可能だというくらいに
こどもは親の顔色や言葉に敏感に反応するからね。

親はね
わたしに言わせれば、演技にすぐだまされる。
これはわたしの経験上、そう思う。



何に興味を持つのか、いろんなことに触れさせ才能を伸ばしてやりたいと思う親の気持ちは想像できる。
ただ、焦らなくてもいいんじゃない?と思うわけだ。

おとなの時間は長い。
でも、こどもの時間は、わずかに10年ちょっとしかない。
それを、おとなになってからでもできることに費やしてしまうの、もったいなくない?


そもそも、おとなにならなきゃできないことがあって
こどもは、こどもなりにおとなの期待に答えようとしているんだと思う。
だけれど、こどもだから、おとなのようにできずに苦しんでいるんじゃないのかな。
こどもに、おとなになることを求めすぎていないか?



こどもの気持ちが書いてある掲示板で繰り返し書かれていることは

「ちゃんと話を聞いてほしい、避けないで」
「大人の理想を押し付けないで、本当の私達の姿をみて」


努力が足りないのは、おとな側だね、明らかに。
そこに親の気持ちや事情があることは、想像できなくもない。
対等ならば、お互いの歩み寄り、といいたいところだが
相手はこどもなのだから、おとなと同じ理屈で通じ合えるわけがない。
それが大前提にあることを忘れると「こどもの世界」が見えなくなる。


親の心子知らずというが、そりゃそうだろう、こどもは親になった経験がない。
親はこどもだったことがあるじゃないか。



泣いているこどもに母が言う。

「なんで泣いてるの? ちゃんと言わなきゃわからないじゃない」

ちゃんといえないもんなんだよ、こどもって。




2004年09月10日(金)
見えないんじゃなくて見ていないんだろう? その2




先に書いた少女たちが、ネットの世界に依存する姿と似たものをおとなにも見たことがある。


わたしがネットで遊ぶようになったきっかけはチャットだった。
その時は回りが主婦ばかりで、そこでずいぶんとみせてもらったことがある。


寂しいんだろうな、そう思った。
日頃、付き合いがあるご近所の方々とかこどもの学校関係の方々とか
そんな中で、気を使いながら生きているんだろう。
旦那はといえば、たいしてかまってくれることもなく
友だちはいるけれど、それぞれに家庭を持っていたりするから頻繁に交流はできない。

ところがチャットになると、誰もが気軽に声をかけてくれ
誰かが、自分の話を真剣に聞いてくれる。
掲示板に書き込めば、誰かがそれを読んでくれて返事が返ってくる。

前に書いた少女たちと似たようなことを言っていた。


それからしばらくして見せてくれたものは、あんたらこどもか?と思うようなことだった。

グループを作る、つまり仲良しごっこだ。
そして、裏では同じサイトで遊んでいる仲間の陰口が始まる。

それと同時に、男の奪い合いが始まった。
妻としてではなく母としてでもなく、女としての姿をさらけだしていく。
見せてもらったよ、思わせぶりな態度、こびをうる言葉
回りの他の女性たちに牽制球を投げるようなセリフたちを。


公開サイトでチャットをしていても個々で繋がるのは簡単だ。
メール、メッセなど個人的に繋がりを持ち始めると、それを自慢したいのか
回りには意味がわからないような発言をわざとして、
それを暗に回りに見せ付けたりもする。

「私と彼は仲がいいのよ」なんてことを、やり始めるわけだ。


こどももいるのに毎晩のように深夜までパソコンで遊んでいる。
当時遊んでいた主婦仲間は30代〜40代だった。
小さいこどもがいる人たちも少なくはなかった。
家事は?育児は?と心配するよね、普通なら。
短い睡眠時間と昼寝、家事や育児の手抜きの上に、嘘をついての男とのデート。

わたしは呆れ返り、そのサイトを去った。


想像してごらんよ。
かまってほしい年頃のこどもがいるのに、母親はパソコンに向かってこどもに背を向けている姿を。
当時聞いていたご飯のメニューだって驚きだったよ。
できあい、インスタント、ファミレス、ほか弁、コンビニなど
愛情のかけらもないどころか、カラダにも悪いはずだ。
中には旦那に注意され、パソコン使用を制限された人もいた。


おとなだって、やっている。
しかも、求めているものは似ている。

話をきいてほしい
かまってほしい

本来なら身近にいる家族や友だちに求めていいはずのものが受け止めてもらえない。
当時見ていた主婦たちと番組で紹介された少女たちが、わたしの中で重なった。


たださ
おとなでも感じる寂しさなら、こどもはもっと感じると思うんだ。
そして、どうしていいかわからないという不安は、こどもの方が大きいはずで。

しかもだ。

学校では勉強ばかりでなく、イジメに合わないようにしなくちゃいけない
先生に目をつけられないようにしなくちゃいけない
クラスで孤立しないようにしなければならない

うまく立ち回ろうとしている。
そこまで気を使えば、心身ともに疲れ果てることは目に見えている。

塾に行ったりスポーツやっているこどもたちは、勤め人であるわたしよりも
夏休みが少なかったりするからね。
忙しすぎる思う、今のこどもたち。


似ている、おとなの世界と。
ここまでこどもの世界が大人化していることが、番組をみていてとても辛くなった。
こどもの世界は、どこにいってしまったんだろう。

息苦しいはずだ、追い込まれるはずだ。




2004年09月09日(木)
見えないんじゃなくて見ていないんだろう? その1




18号の台風情報をみるために、テレビをつけっぱなしにしていた夜
うっかり、とある番組にぶつかった。


NHKスペシャル
21世紀 日本の課題「子どもが見えない」(再放送)


まずいものにぶつかったなというのが、その時の正直な気持ちだ。
子どもの話になると、はまるからなぁ。


ため息をひとつついて、ちょっと考えて、みてみることにした。


冒頭で、佐世保で起こった少女殺害事件の話がふられる。
心拍音が大きくなるのが自分でもわかった。


『こどもによる衝撃的な犯罪が相次いで起きています。そして大人たちの間には「子どもの姿が見えない」「子どもの心が分からない」といった不安が広がっています。一体、子どもたちはどんな世界に生き、何を考えているのか。番組では、その現状を探り、大人は子どもにどのように向き合っていけばよいのか考えます。』

*NHKホームページより引用


NHKでは二ヵ月ほど前からインターネット上でこどもに呼びかけをおこない
こどもの声を聞こうと公開掲示板を設置したそうだ。
掲示板の書き込み、直接こどもたちにも取材をしたものをもとに番組は作られていた。


大きく分けて4つのテーマがあった。

インターネットについて
友だち関係について
心の中で思っていること
なぜ人を殺す、殺したいと思うか?


見終わって、ひどく疲れた。
こどもの叫びが、あまりにも追い詰められた状態を表していたから。
特設掲示板も覗いてみた。
こどもたちの気持ちが書いてあった。
どうして?
こどもたちの書いていることがわからないというのではなくて
どうしてそこまで追い込まれることになったんだろうと。


この番組をみて、わたしなりに考えたことを書くことにする。



インターネットについては、先の佐世保の事件が掲示板やHPでのトラブルが報道されたことにより、
インターネットはこどもによくないと思うおとなもいくらかいるようだが、
わたし的には、インターネットで遊ぶことに問題があるわけじゃないだろうと思っている。


前にも書いたが、
何か問題が起きたら、それを禁止する、取り上げる
そういうおとなのやり方が、わたしは大嫌いだ。

もしも、本当にインターネットがこどもにふさわしくないと思うなら
パソコンや携帯電話を買い与えたのは誰だ?といいたくなる。
小学生のころからパソコンに触れさせようという教育が率先して行われているのも事実だ。

道具であるパソコンや携帯電話におとなが八つ当たりする前に、
見なくちゃいけない側面があるように思えてならないんだよね。



番組では、家にいるときにはずっとパソコンをやっているというふたりの少女(中学生)を取材していた。

彼女には夢がある。
音楽をやりたいらしい。
親は夢の話をきいてくれない、勉強してろ、と。
音楽で食べていけるのか?そう突っ込まれると返す言葉がみつからないと、少女はいっていた。
現在彼女は自分のホームページを持ち、チャットや掲示板でネットの世界と繋がっている。
インターネットの世界にしか、自分の話をきいてくれる人はいないといっている。


もう一人の少女は、3つのキャラクターを作り上げ
その時の気分でそれぞれのキャラクターを使い分け自分を表現しているらしい。

キャラのひとりはとても攻撃的で、誰かをとことん追い込むほどのきつい言葉を吐く。
まるで喧嘩を売っているような。
このキャラは、母親にひどい言葉をいわれ、それがもとで出現したらしい。
できのいい他の兄弟とくらべられ、親からせめられ、自分でも自分をせめた。
自分はダメな人間だと思い込んでいる。

彼女の心の中には、いろんな気持ちが存在していて、
それを現実で吐くわけにはいかないからネットを利用し
普段いえないことをいってストレスを発散させるらしい。


ふたりの少女がいうには、本当の自分を出せるところはネット上しかないと。
ネットなら相手が誰だかわからないし、顔もみえないから、いいたいことがいえる、と。


音楽をやりたいと思っている少女は、自分のHPを改ざんされるなどの荒らしにあった。
調べてみると、クラスメイトだった。
少女は、その荒らしと思われるクラスメイトを問いただすこともなく
今までと変わらず表面上は友だちとして接しているらしい。

誰がやったかわからないときには殺してやりたいほど憎いと思ったようだが
クラスメイトなら、騒げば騒いだで学校で面倒なことになると判断したそうだ。

なぜ問いたださないかという質問に、友だちって所詮そんなもんだろうと流したという。


そんなもんじゃないさ、すくなくともわたしはそう思う。
ただ、この少女が、誰がやっているのかわかっているのに、それを正そうとしないことは
結果的には、さらに彼女のストレスを増やしているような気がする。
本当は、そんなもんだろうと流せないんじゃないかってね。

学校での付き合いはその程度だと、顔を合わせているときはにこやかでも
知らないところで陰口をたたくものだと、そういう風にしか考えられなくなったのがなぜか。

そこに生まれるはずの怒りや悲しみを押し殺してまで、波風をたてないでおこうとする姿が
さめているようでもあり、つらそうでもあり。
これって、おとなの世界にありがちな姿だと思わない?


キャラクターを使い分けている少女もまた、本音をいうということに過敏になっていた。

もしわかってもらえなかったら
もしいじめられたら
もし嫌われたら

そういうことを考えると、友だちの前で本音が言えないらしい。
彼女がぽつりとこぼしたのは、風邪ひいたといっても親も友だちも心配してくれないが
ネットなら誰かが大丈夫?と声をかけてくれる、それが嬉しかったりもすると。

確かにネット上で、体調が悪いといえば誰かが大丈夫?と声をかけてくれる。
台風がきたといえば、心配してくれる。
わたしも嬉しい。
でも、わたしにはリアルにもそういう付き合いはある。
彼女には、ない。


この少女たちはリアルな世界にないものをネットに求めているといえる。
それは、ネットの世界に逃げているというよりは
リアルな世界に本来ならあるべきものがなくて、さまよって、ネットにたどりついたと
わたしには、そう見える。

ネットの世界じゃなきゃいけないんじゃない。
ネットの世界がいいわるいの問題じゃなくて
今のところ、少女たちをささえてくれているのがネットの世界なんだろうと思う。
そこから目をそらし、インターネットはこどもにはよくないという点ばかりを見てしまうと
こどもが置かれている苦しい状況を見過ごしてしまうんではないだろうか。





2004年09月08日(水)
被害報告→なし




18号は勢力を落とすこともなくスピードを上げ
各地で被害をもたらした様子。
みなさま、大丈夫でしたか?
わたしは無事です。(^-^ )
お見舞い、ありがとうごさいます。


こっちは7日明け方から暴風雨になるとの予報で
7日は会社を休む気満々だったけれど

船・飛行機・JR・西鉄・都市高、すべてストップしていたのに
高速道路は開いていたんだよねぇ。
雨風の強さからして通行止めになってもよさそうだっていうのに。
しかたなく車に乗って外へ。
なのにインターに行ってみると通行止めになっていた。
わたしが家を出たあとに通行止めになった模様。

仕方がないので、そのまま国道を走ったけれど車は揺れるし雨が強い。
小心者のわたしは、すっかりびびってUターン。
家に逃げ帰った。(苦笑)

前回の16号よりも大きかったが、自分ちは被害なし。
会社はガラス1枚割って、停電に見舞われた。
わずか30分ぐらいだったようだが。


あー、無理して会社に行かなくてよかった♪


会社に電話したときのわたしの台詞

「会社より自分の命の方が大切なので休ませていただきます」

おおげさだよな。(自爆)




2004年09月07日(火)
特別なヒト




手を繋ぐとドキドキする
手を繋ぐとほっとにする
手を繋ぐと心地いい


手を繋いだ相手が
自分にとって特別なヒトだから
特別な感情を抱いているから
そう感じる


キスもそう
抱きしめられるのもそう
セックスもそう


伝わってくるものは極上のぬくもり




2004年09月06日(月)
またかよ




曲がってきたよ、台風が。
数日前の予想じゃ台湾方面に行くのかと思ったが
16号と同様、急カーブを描き、九州西部・北部をかすめていきそうな気配。

台風の規模は前の16号より雨風が強いといわれている。
しかも、今の調子じゃ、福岡は台風の東側になるようなので非常に危険だ。

福岡県下の小中学校は、今日の午後、明日の休校を決定している。
船はもちろんのこと、飛行機は午前中はアウト、JRまで一部運休を決めている。
明日の明け方ごろに暴風雨圏内に入るとのことだが、さまざまな決定が早いのは
やはり大型だからか?


わたしが怖い思いをした台風と同じくらいのクラスだろうとニュースでいってた。


まじ?
これには、完全にびびった。
あの台風の話を持ち出さないでくれよ。(泣)


「明日は休むからね」

と、会社で早々と白旗宣言を出してきた。


ここでか弱さを強調しておくが(←パクリ 笑)
わたしは、びびりなんだよ、怖いと思うとすくんでしまって、もうダメ。
動けません。

今夜から会社近辺のビジネスホテルに泊まれば?だって。
冗談じゃない。
高速道路は雨足が強く、制限速度が50キロになっていた。
わたしが帰るころは小降りになっていたので制限速度規制は50のままだったが
145くらいで、ぶっどばして帰ってきた。


とにかく台風は怖いのだ。
明日の夜までに400ミリの雨だと?
ああ、手の力が抜けていく。


帰りに近くのストアで食料品とガムテープを購入。
玄関側から吹けば小さな窓しかないので安全なんだが、ベランダ側だとよろしくない。
16号のときに反った窓をみてるだけに、用心のため買ってきたのだ。


はぁ、ヤだなぁ、もう。


会社で落ち着きをなくしていたわたし、

「怖くて泣くかもぉ」

と言ったら

「そのほうが怖くて台風が逃げるかもぉ」

だと。(おい)


絶対休んでやるぅ。





2004年09月05日(日)
おっと、裏返しだ




昨日の夜に着たTシャツが、ついさっきまで裏返しだった。
きずいたのは、もっと前だったんだけれど
別に外に出るわけでもないので、そのままにしていた。

ようやく元に戻した。
特に理由はないけれど。


そういえば、このTシャツも濡らしたんだよな


わたしは顔を洗うと、着ているものの前を濡らす。
長袖の時期は、肘のあたりまで濡らす。

今は、ほっておいても、そのうち乾く。
冬は冷たいし、なかなか乾かないので気持ち悪い。

でも、毎回濡らす。


なぜ濡らすのかは、わからない。
だって顔を洗う姿なんてビデオに撮るでもしないと、みえないもん。


工夫はしたことはある。
顔の位置を洗面台となるべく平行にするとか
でもあまり効果はみられない。


やっぱり濡らす。
襟元からおへそのあたりまで。
どこかを伝わって水が垂れているんだろうとは思うんだけど
そのルートはみたことがない。


きっと、わたしは顔を洗うのが下手くそなんだろう。
そう思う。





2004年09月04日(土)
続・肌色って、英語でどういうの?




他のサイトもちょこちょこ覗いてみたが、こういう意見には賛否両論あるものだ。

ふと思ったのだが、こどものころ、太陽を赤で書くこどもと黄色で書くこどもがいたよね。
真っ黒に日焼けしているお父さんを書くときも、肌色を使うんだろうか?
黒や茶色を使うんじゃないのかな。
見えたままを、こどもなりに使えばいい。
そういう点で考えれば、肌色の名前を問題にするのは、いきすぎてないか?
単に色の種類にしかすぎないと思うのだが。


同じく「肌色」についての、ある掲示板で見かけた話によると、
人種差別の問題で「チビクロサンボ」が1980年代終わりに絶版になっているとのこと。


え? なんで?


実はわたしは、あの話が大好きだった。
トラで作ったバターを使い、パンケーキだかホットケーキだかをママが焼いてくれるお話。
それがとっても美味しそうで。
ハイジのミルクやチーズがご馳走に思えたことと似て。


なのに絶版、理由は人種差別だそうだ。
こどもはそんなこと考えないって。
おとなの考えることを、こどもに押し付けなくてもいいじゃないか。

黒人が「サンボ」とはやされ、からかわれることもあるとのこと。
それじゃ、さっちゃんと呼ばれる可能性がある、さち、さちこ、さちえさんたちは?
必ずといっていいほど、からかわれたことがあるに違いない。

「バナナ、半分しか食べられないんだろ?」と。



気になって、和訳されたものを改めて読んでみたが
今の歳でも、あの話が人種差別に繋がると、わたしには思えなかった。


差別がない社会に生きているわけじゃないのに
そりゃ減らしたほうがいいのは、わかっているけれど
その差別をやっているのは、おおかたおとなだろう?

差別はない、と教えるのは無理がありすぎる。
それよりも差別はあるけど、よくないことだと教えるほうが、わかりやすい。
社会に出たときの衝撃が少なくてすむのでは?とも思う。


それにしても
このチビクロサンボも肌色と同じで、排除されるほどのことだろうか?


わたしが初めてアメリカ(ヒューストン)に行った時、住宅街の近くのゲーセンで
推定小学3年生ぐらいの男子に「イエロー」という言葉を吐かれた。
それが決していい意味で使われたような雰囲気ではなかった。

まぁ、これも肌の色としての差別だったのだろう。
からかわれたことに対して、きっと睨み返したものの
それ以上の思いはなかった。

わたしは人種差別について詳しい話は知らない。
ただ、肌の色が違うせいで不当な扱いを受けたり悲しい思いをした人々がいるということぐらいなら
漠然と知っている。(身近な話ではないが)

もしも「肌色」や「チビクロサンボ」が人種差別に繋がると思うのなら
なおさら、こどもに触れさせたほうがいいんじゃないかな。
臭いものにフタばかりしているから、実態がみえにくくなる。
ごまかしばかりになるような気がしてならない。


ともあれ、
知り合いの姪っ子のおかげで、有意義なネットサーフィンができた。
だから、こどもの質問は面白い。

がしかし、結局、何と答えればいいのか。
ハダ(肌)という言葉を、もう知っているものなんだろうか。
知っていたとすれば、肌色を肌の色と思っているのか。


今の季節、日焼けしているこどもも多いことだろう。
クレヨンの肌色が肌の色だとは思えないかもしれない。
まず、思わないだろうな。

ならば「薄いオレンジ」ということで「pale orange」や「white orange」がいいのかなぁ。
自分の肌の色をみると「tan」のように思うが。(笑)


あなたなら、どう答える?



参考/検索に使ったキーワード「肌色 英語」




2004年09月03日(金)
肌色って、英語でどういうの?




「ねぇねぇ、まあこさん、英語で肌色って?」


そうきかれてまず浮かんだのが「skin color」
でも、それじゃ肌の色だ。
なぜ、そんなことをきくのか、きいてみると

「姪っ子(5歳女子)からきかれたんですよ」

ということだった。


即座に想像したのは、クレヨンの色。
5歳といえば、肌色といえば、クレヨンの色だろうと。
もう何十年もクレヨンなんて見たことなくて
懸命に色を思い出してみる。


茶に白を沢山まぜたような
いや、もっと明るさがある
キューピーみたいな色
リカちゃん人形の肌の色かな


色は思い出したが、英語が思いつかない。
白桃のようで、でもピーチといえば桃色を連想してしまい
それじゃピンクじゃないか、と。


和英辞書によると「flesh color」と書いてある。
聞いたことないなぁ、そんな言い方。


ネット上で色をあれこれ触るときに、わたしが参考にする色見本のことを思い出した。
ネスケ用色見本だ。
色の名前が英語で書いてあるところが理解しやすくていい。


それでみると

「tan」では、やや濃いような気がした。
あえていうなら「wheat」が近かった。
「wheat」は「白い」が原義で、小麦という意味を持つ。

しかし相手が5歳だし、肌色は英語で「wheat」だよと教えるのは、どうかと思った。


で、ネット検索をしてみることに。
すると、興味深い話を目にすることになった。


人種差別の話だ。


広辞苑では肌色のことを「人の肌のような色」「やや赤みをふくむ淡黄色」と書いてある。
肌色を和英でひくと、上に書いたように「flesh color」
わかりにくいので英和でひいてみたら「flesh color」は肌色、肉色とあった。
ぴんとこないので英英でひくと「flesh-coloerd」で
「having a slightly pink color like that of white people's skin」らしい。


日本語的には日本人にありがちな肌の色ということだろう。
しかしながら、日本には肌の色が違う日本人は、日焼けや色白という分け方程度で
元は同じ色だろうという考え方で、白・黒・黄という分け方はしないと思われる。

英語的には辞書で見る限りじゃ「肌色は白人の肌」というふうに考えられているように思う。


わたし個人としては、自分を白とも黒とも思えないが黄色だとも思ったことはない。
しかし、本題は英語でなんというかということだから、英語的に考えれば
肌色は黄色、つまり「yellow」になる。

これは、まずい。
5歳のこどもにとっての黄色は、たとえばバナナの色だろう。
ましてや「yellow」を人種として使う場合、侮辱的意味が含まれていることもある。


そもそも、肌色という色は、世界共通なのだろうか。
色鉛筆やクレパスのサイトをのぞいてみた。
外国の色鉛筆には、30色ぐらいのセットでも肌色に該当しそうな色は見当たらなかった。
(どの国かは知らないが、該当する色がある国もあるらしい)
日本のものには、色鉛筆にもクレパスにもあの「肌色」が入っている。

思い返してみれば、色鉛筆には英語の表示があったような気もして
サイトの写真を拡大してみるものの、そこまでは見えなかった。


その代わりといっちゃなんだが「肌色」についての記事を発見。
やはり人種差別であるという見解から「肌色」とは呼ばずに「pale orange」と
呼ぶメーカーもあるとのこと。

「pale」とは「青白い」が原義で、薄いとか淡いという意味がある。
薄いオレンジ色かぁ、微妙な表現だ。
こどもは覚えがいいから、最初からそうだと教われば問題ないだろうけれど。

「うすだいだい」ともいうらしい。
橙色ねぇ、広辞苑では「赤みを帯びた黄色、オレンジいろ」と書いてある。
橙(だいだい)そのものを見ることが少ないのだから、
なぜ「みかん」を使わないのかが不思議だ。


しかし、これ、人種差別に繋がるのかな。
言わんとすることは、わかる。
だが、人の肌の色を表しているのではなく「肌色」という色の名前だろう?
肌色の英語表記を「pale orenge」にするのは無難かもしれないが
日本語は肌色のままでいいのでは?


あるサイトにこう書いてあった。
「茶色」は緑茶の色か?紅茶の色か?ウーロン茶の色か?と。
なるほど、面白い。
これをわたし的に読むと(肌色と比較をするならば)
茶の色ならば、緑だろう。
いまでこそ紅茶もウーロン茶も飲むが、昔はなかっただろうから。
そのサイトで説明されていた茶色の語源は、
お茶の木を煮だし、布に染められた時の色と書いてあった。。
その色と「brown」似ていたようだ。
このサイトでは、わたしと同じく「肌色」は人種差別用語ではないという考え方だった。






2004年09月02日(木)
SEPTEMBER 2004



SEPTEMBER
「どう? かっこいいと思わない?」

30センチほどの丈の濃いグレーの綿生地のエプロンを腰にくるりと巻きつけ
紐は前で結んである。
左の手のひらにステンレスのトレイを置いたふりをして、左耳の高さにあげ
右手はウエストにひっかけ、真理は自慢げにポーズを作ってみせた。

「いまどきのカフェの従業員って感じでしょ?」

「何もつけないでエプロンっていうのもイイよな」

「え?」

隆の意外な反応に真理は言葉が続かなかった。
いやらしいなぁ、もう。
でも、私が想像している通りの絵を隆も想像しているんだろうか。
つついてみたくなった。


「このエプロンで何もつけないんじゃ、まるでターザンじゃない」
「うん、そのエプロンってわけじゃなくて、胸あてがついているやつだよ」
「どうイイっていうの?」
「見えそうで見えない、でも手はするりと入る」

後ろ姿は、おしりが丸見えだものなぁ。
そういう場合は、やはり後ろからせめてくるんだろうか。
自分で描いた空想に、真理は体温が上がるのを感じた。

「そういうの、試してみたい?」
「いや、そういうわけじゃないけどさ」


どういうわけなんだろ、まぁ、いいか。
今から近くのイタ飯屋に食事にいくのだから。





いちじくに生ハムが巻いてある前菜から始めた。
ナイフを軽く通すだけで切れるほどによく熟れたいちじくが
塩のきいた生ハムによく合う。

トマトとモッツアレラの冷製パスタ、それに
からすみをあえた、赤唐辛子とにんにくのきいたパスタをオーダーした。
隆はいつものように、皿にとりわけ真理に渡す。


普段と変わらない様子の隆を見つめながら
真理はさっきの言葉を思い返していた。

隆ってあまりエッチな話をしないのにな
さっきのエプロンの話は、どうも隆には不似合いみたいだけど
もしかして今日は燃えているのかも


しかし火がついているのは真理の方だった。
デキャンタからワインをついでくれる隆の手をみながら
それが丸見えになったヒップの左側を下から包み込み
右手はエプロンの胸あての下にすべりこむ絵を想像した。

「だめよ」

真理の言葉を無視して隆は右の膨らみを
確かめるかのように手のひらで包みこむ。
数回つかむように揉んだ。

「だめだったら」

真理は腰をくねらせ弱々しい抵抗をみせたが
隆が首筋に唇を当てた瞬間、言葉にならない声がもれた.....



「おい、どうした? 食べないのか?」


隆の声にふと我に戻った真理。


「とろんとした目しちゃって、ワインに酔ったのか?」

「ううん、なんでもない」


真理はあわてて作り笑いを浮かべ、ワインをひとくち飲んだ。
いけない、いけない、私ったら変な想像しちゃってるわ
ほてったカラダはきっとワインのせいね
真理はデザートにオレンジのシャーベットを頼んだ。





ベッドの傍のスタンドの明かりが二人の裸をぼんやりと照らしている。
隆は真理の髪を弄びながら、その手を背中におろした。
真理のカラダがビクッと反応した。


「やけに敏感だな、今夜は」


隆は背中におろした手をもっと下げて片方のヒップをつかんだ。


「あん」


真理の頭の中でレストランでの妄想がよみがえった。
真理は隆の腕の中で半回転して隆に背中を向けた。
隆は真理の右脇から手をすべりこませ、膨らみをとらえた。


「そう、それ」
「ん?」
「イイ」


全体を包み込むようにつかみながら揉む隆の動きに真理はたまらなく感じた。
親指のはらが先端を優しくなではじめると肩で息をするほどに。
隆は真理の左の腰とベッドの隙間から腕を押し込みさぐってみた。


「もうこんなに」


その言葉を発すると同時に真理のヒップに当たっていた隆のソレに
硬さが増したのを真理は感じた。




真理はつぶやいた。


「オネガイ ウシロカラ.....シテ」