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おとなの隠れ家/日記
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2001年11月10日(土)
始まりと崩壊寸前



私の友達(ゆき/仮名)は外国人と結婚した。 
彼の家族は、ほとんどアメリカに住んでいるため、これまでに、ゆきは彼の親戚とも、
交流を深める努力をしたようで、すっかり溶け込んでいる様子。

ゆきが結婚式の前に言っていた。「私、踊れないかも」
その意味が結婚式に出てわかった。
彼のお国では、お祝い事となると、みんなで踊るのである。
その動きは上半身と下半身が微妙に違い、腰はフリフリ状態。
しかし、彼女はみごとに役割を勤めていた。 
みずからフロアーに出て、彼を誘い2人で見つめ合ってダンス。 
それから、回りにいる人達を次々に誘い込み、あっという間にフロアには円ができて、
みんな踊り始めた。 
結婚式は、花嫁が踊り疲れてギブアップするまで続くそうな。 
夜7時ぐらいから始まったダンスタイムは12時過ぎまで続く事になる。 

結婚とは本来そういうものなのだろう。
本人同士のものだけでなく、家族がつながっていく。
ゆきが彼の家族も大切だと思っている気持ちが伝わってきた。
お国が違うことで生まれるいろんな苦労があるだろうに、
ゆきはそれを自然に乗り越えているようだった。
「そんなこと、結婚するんだから当たり前よ」とゆきの声がきこえそうだ。  

私は今回初めてゆきのお母さん、そしてお兄さん家族を紹介された。
数日間一緒に行動して、私は初めて、嫁姑問題、冷えきった夫婦関係を目の当たりにした。

ゆきは、とてもお兄ちゃんっ子で、歳が離れているせいかお父さんの代役でもあるようだ。
お兄ちゃんも彼女にはとても優しい。
私が思うに、お兄ちゃんは笑顔の素敵なナイスガイ。
ところが、嫁に向けられる態度は氷のように冷たいのである。
聞けば、離婚寸前まで話は進んだものの、子供達のために留まったとか。
冷めた夫婦の話は珍しくない。 ただ、一度子供のためにと踏み止まったのであれば、
せめて表面づらだけでも取り繕ってほしかった。
両親のトゲだらけの会話をきづかっている
子供達の態度がわからないんだろうか?
あれでは、子供のため というのも、おとなのエゴのように思えた。
姑は姑で、私をつかまえては、嫁の悪口。 その内容は、憎んでいるとしか
いいようのないもの。

私は、結婚の始まりと崩壊寸前の両方を同時に見た。
何がよくて、何が悪いのか?
結婚とは、人生のパートナーをみつけて、
一緒に生きていくものではないの?
そのパートナーって容易にはみつからないと思うんだけど。
世の中には、適齢期や、回りが結婚していく焦りを理由に目の前の相手に
飛びついてしまう話が多くある。
結婚するだけで、その先に幸せが待っているわけではないのに。
結婚とは契約に近く、「手を取り合って2人で築きあげていきましょう」と
誓い合うスタートにしかすぎないんじゃ?
できれば、その後に起こるさまざまな出来事をお互いがちゃんと向き合って
乗り越えられればよいのだけど、それが出来なくなってしまった時には、
その結婚生活にケリをつけてもいいんじゃないかな。
たまには選択ミスってこともあるでしょう。
私には、くずれた信頼関係の中で無理に生活を続けていく意味がわからない。

結婚とは...とあまりにも深い問題提起をされたような結婚式だった。




2001年11月04日(日)
旅の話



アメリカのテキサスに10日ほど行っていた。 
そこに住む、女友達(日本人)の結婚式に出席するために。

時期が時期だけに、飛行機に乗ることさえ怖かった私は、アメリカ行きを迷った。
結婚式の招待状がきて、2日後に、あのテロ事件が起こったのだ。

事件は、炭疽菌の話までふくれあがってしまった中、「いこうかな」と友達に電話すると、その先に喜ぶ彼女の声。
私は行く事を決心した。

アメリカにいく話は、会社やほんの少しの人にしか告げなかった。 もちろん、両親にも内緒。
本人が一番びびっているのに、「大丈夫? 危ないんじゃない?」なんてコメントは聞きたくなかったから。

行ってみれば、事件の影響は、たいしたことはなかった。
日本やアメリカの空港の警備が、通常よりややきびしくなっていた程度。
それよりも、目的地についた私は、そのとたんになつかしい思い出にひたっていった。

アメリカで暮らしたとき、その友達と出会った。
そのころ、私はそこに住んでいた。 
今までの人生の中で、一番冒険をした1年間。 そこで出会った2人の友達。 
その後、2年ほど連絡はとりあっていたものの、最近はぷっつりととだえていた。

でも、顔をあわせるなり、ハグ。
そして、すぐさま話が盛り上がり、あまり気を使いあうでもなく、いろんな事を語りあった。
私は思った。 「あー、彼女らとは、本当の友達なんだなぁ」と。

おとなになってからの友達は、なかなか出来にくいものだ。 仲良くなっても、縁は切れやすい。 音信不通の時間がありながら、話題に遠慮はなく、まるで学生時代からの友達のように話がはずんだ。

でも、話せば話すほど、私はさみしくなっていった。 
彼女らは、私と違って、日本でしっかり学び、アメリカでさらに学び、そして、職についている。
自分の力で、いくつもの大きな壁を乗り越えて、さらに大きな目標に向かって進んでいる。 
そんな がんばり屋さんの彼女達の話は、とても刺激的だったが、一方では、私に問いかける。 「あなたは一日を精一杯いきていますか?」と。

彼女らを見ていると、自分が精一杯生きていないことを思い知らされる結果となったのだ。

私は、日本へ帰ってきてからの2年、今の仕事を覚えるために、夢中で働いた。
でもその後は.....
彼女らがアメリカで、自分と戦いながら、勝ち取り、身につけている間、私はいったい何をしていたんだろう。

友達は思い出させてくれた。 
くり返される平凡な毎日に流されていくのではなく、そこで自分はどう生きていくかと考えること。
今おかれている状況は、決して与えられたものではなく、自分で選択した道なのだから。 
自分で進んでいかなくてはならないのだ。 
今、目の前にある生活と向き合って、自分で切り開き、自分で答えを出すべきなんだ。
楽な道に逃げてしまっても、問題は解決せず、いつまでもそこに残ってしまうから。

時は過ぎてしまうと取り戻せない。
今回の旅でそれを実感した。