出張ラッシュが一段落し、自宅。
明日も明後日も移動がない喜びをかみしめつつ、 数日前の忘れられない新聞記事について、書いておこうと思う。
それは、非配偶者間体外受精によって生まれてくる子の自己の出自を知る権利、に関するものだった。
当事者が成人し、言葉をもち、自己の出自を知る権利について、 社会に訴える時代になったのである。
「自分が精子というモノからではなく、人格をもった人間から生まれたということを確信したい」
当事者の方のこの発言は、私にはとても衝撃的なものとして、 ずっと胸に突き刺さっている。
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「自分が精子というモノからではなく、人格をもった人間から生まれたということを確信したい」
決して、とおり過ぎてはいけない言葉だ。 これは、ハンナ・アーレント風に言えば、 「これまで人類が経験したことのない絶望と悲しみ」なのだ。
人為による不自然な生命剥奪行為は、殺害である。 件の言葉の発言者は、人為による不自然な生を受けた。
双方のどこに違いがあるというのか。
私にはうまく説明できない。
生まれてきたんだからいいだろう? それはとても乱暴な議論だ。
科学技術の進歩は本当に人を幸せにするのだろうか。
何かをもたらしているとしたら、それは何か。 何かを奪っているとしたら、それは何か。
人間の幸福と利益は同じものなのか。
彼らはおそらく、今まで私たちが真面目に取り組んでこなかったそのことを 一生をかけて真剣に考えるために、この世に生を受けたのだ。
そう思いたい。
2010年06月04日(金) シーオーツー 2007年06月04日(月) 強制托卵の未来 2004年06月04日(金) 善意のベクトル
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