病気と犯罪は似ている。 いずれも、人間が定義して成り立つ。
誰もそれを定義しなかったら、どうなるだろうか。 そのことについて、作家の田口ランディが書いていたエピソードを思い出す。
彼女が、放射能で汚染された村に残る老人を訪ねた時の話である。 明らかに放射能によるものと思われる、老婆の背中にできた気味の悪い腫瘍へ、ランディさんは土産に持参した湿布薬を貼ってあるくのである。
村の老婆達は、放射能汚染の何たるかや、我が身が受けた被災の詳細を知らない。 おそらくは入院して治療が必要な病気であるはずだが、 自覚するのはただ、腰が痛くてつらいということだけだ。
それ以外は、汚染された村で粛々と、子どもの頃から送ってきたのと同じ、 春夏秋冬のそれぞれの暮らしを不都合を抱えながらも続けている。 おそらくは放射能が原因で寿命を迎えるだろうが、それは老婆達にとって天寿なのである。
病気とは何だろうと、そこで彼女は考えるのである。
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病気も犯罪も、社会から自覚させられる。
また、世の中の成り行き上、病気や犯罪を積極的に定義する立場というのが生じる。
自分ではまったくそう思っていないことについて、ある日突然、 あなたは病気であるとか、あなたのしたことは犯罪だと言われる可能性がある。
そこまで極端なことは、まずそうそう在りえないとすると、 何が作用して、そうならないようバランスをとっているのだろう。
2007年10月25日(木) 無音のシンフォニー 2006年10月25日(水) 2005年10月25日(火)
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