浅間日記

2009年07月25日(土) 法律という契約

「いけないんだー」を連呼するAは、実にもっとも小学生である。
規則違反を見つけ出しては、相手を追い詰めるネタとする。
閉塞感の表れ以外の何者でもないが、それに気付かぬ教師に、駄目だなと思う。



「いけないんだー」は、今の世の中の風潮でもある。
コンプライアンスとか、それらしい名前を与えられている。

もちろん、罪は罪として罰せられなければならない。
けれども法律というのは、人がこしらえるものだ。神の与えたもう試練ではない。

つまり、間違った法律がつくられる可能性だって、十分あるのだ。
間違っていなかったとしても、真に本質から罪かどうかなんて、本当は誰にもわからない。
百年後には妥当性を欠く可能性を含みながら、人は人を今の世のならいとして、暫定的に罰するのである。

そのことの重さを、「いけないんだー」を連呼する大人の、ほとんど皆が分かっていない。そう思う。



人はそれを罪にすることができる。
人はそれを国民の義務にすることができる。




法律は−知らない強みで乱暴に言えば−、国家と国民の契約だ。

だから選挙では、自分に得をもたらしてくれる政党はどっちか、
などという甘っちょろい認識で臨んでいては駄目なのだ。

立法府を任せるに値する政党を慎重に選ばなければ、我々はまた新たな義務を負わされ、望まない法律で生活や人生をしばられてしまうのだ。

違反しようものなら、「いけないんだー」の槍玉にあげられ、裁判にかけられ、社会のどこにも居場所がなくなってしまう。

だから、候補者一人ひとりが国民とどんな契約を結ぼうとしているのか、法律をどのように駆使するつもりなのか、まずは疑ってかからなければいけない。

選挙は、国民が立法府の権限に対して真にネゴシエーションできる、
唯一無二のチャンスなのだ。

2008年07月25日(金) オンブラ・マイ・フ
2006年07月25日(火) 減る国創造 その2
2005年07月25日(月) 
2004年07月25日(日) 想像力の欠如


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