隣の家の梅が、今年も大きな実をつけ、最高の熟し具合となっている。 それを今年もまた、じっと指をくわえて見ている。
手を伸ばせば届きそうである。 傘の柄など使えばさらに、枝をこちらに寄せることができる。 その誘惑を、常識という危うい蓋で押さえつけている。
張り出した枝から我家の方に落ちてきた実は、これはもう縁ということにして頂戴する。 三時間おきぐらいに見に行っては、そこに黄色に熟した梅の実を発見すると小躍りする。
けれどもやはり、そのような待ちの姿勢でいるのは胸が掻き毟られるような気持ちである。 隣家の庭には、桃と見紛うような立派なのが、ぼとぼとと落ちている。
今年こそはお隣の戸を叩いて、お宅の梅が素晴らしいのでいくらかで分けて下さいと、申し入れようと思っているのだが、今年もまた躊躇している。 失礼になりはしまいか、不審に思われはしないかと。
私のそんな様子を見かねたAから、今すぐ行こう、今、と背中を押される。 でもなあと躊躇していると、お母さんはもう絶対に行かないね、 近くても遠くても関係ないねと見切られる。
決断力のない親の姿をさらしながらなおも、 あともう少し落ちてきてくれないかなあと、またのぞきに行く。
2007年07月03日(火) 平和と危険と 2006年07月03日(月) 2004年07月03日(土) 主権が彼岸からやってくる
|