子どもを寝かしつけながら書棚をぼんやり見ていたら、 読んでいない本が結構あることに気が付いた。
そういう訳で、ここ数日は、山中恒の「アジア・太平洋戦争史――同時代人はどう見ていたか」を読んでいる。
太平洋戦争に関する情報の正確さについては、執念と言ってもいいほど膨大な過去の資料を引用している。そのほとんどが会議録や条文、当時の新聞などの一次資料であることが特徴である。
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所感はやまほどあるが、まず二つ。
一つには、戦争というのは国家間の状態なのだということ。 瞬間的に発生する災害のようなものとは性質が全然違う。
そしてもう一つには、戦争史は戦闘史としてだけでなく、 経済史、外交史として検証しなければ歴史が正確に浮かび上がってこないということ。
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読んでいると、生々しい同時代の空気が伝わってくる。
中国へ進出する日本の状態を、まるでトヨタが世界へ躍進するかのように、 誇らしい日本、明るい未来でいいではないか、と思ってしまい、恐ろしくなる。 しかしその後の戦争状態へ突入するところへ読み進むと、日本の政治判断の甘さ、幼さにやるせない思いがする。
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「過ちは繰り返しませんから」と言ったところで、どの段階の何が過ちだったかを検証しなければ、繰り返しを防ぎようがない。過ちというのは人殺しのような残虐行為に限らないし、繰り返していけないのは、むしろそこに至ったプロセスである。
戦争はこりごりだという世論は風化し、たやすく崩され、 いずれすぐに同じ空気がもどってくるだろう。
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では何が過ちだったのか。どうすればよいのか。
自分なりに総論するならば、今のところそれは、「日本だけの思い込みや思い入れで世界のルールをつくろうとしても、それは通用しない」ということではないかと思う。エースとうぬぼれた日本は、世界の承認というジョーカーを軽視しすぎた。
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日本では公式扱いでも、世界からless formalと切り捨てられるものがある。その事実をわかっていれば、私たちにのしかかる国家の質量はいくらか軽くなり、過ちはいくらか回避できる。
2006年06月05日(月) 蟻の罪 2005年06月05日(日) 噺家の話し方教室
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