ラジオで「どうする雇用と経済」というテーマの番組。
企業が労働力を景気の調整弁のように使うやり方は、雇用する側だけでなく、雇用される側にも消費者にも応分の責任がある構造的な問題だという論調で解説がなされていた。
それによると、私達は安い商品が誰かの不安定な生計に支えられていることを知るべきなのらしい。価格競争は原材料の調達方法だけでなく人件費にも反映されている。
そして、雇われる側もまた、仕事に就くまでに心理カウンセリングまでを必要とする後ろ向きな姿勢が、非正規雇用のニーズを生み出した、ということだそうである。
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「適職」という概念は最近のものである。
人が「今の仕事は自分に向かないかもしれない」と思わせるために、リクルート産業が生み出した、営業用の幻である。
沢山のデータベースを持ち、今よりもっと上があるように見せかけ、安定から遠ざける。
そして、そうしているうちに、人は働く意欲、あるいは真摯に働く意欲を吸い取られていく。
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今日社会に起きている雇用問題が構造的なのだとすれば、行き過ぎた情報化社会の弊害として省みてはどうかというのが、件のラジオ番組を聴いた私の考えだ。
私達は、過剰な情報やヒューマンスケールをこえた計算結果に判断を左右され、縁という納得の仕方を大切にできなくなっている。 一人ひとりの存在は、ただの一レコードに貶められ、その固有性や人生という文脈を剥ぎ取られる。だから、
就職情報は働く意欲を奪い、 結婚情報は最愛の人への確信を奪い、 金融情報はお金の役立て方を奪い、 不動産情報は土地に根を下ろして生きる覚悟を奪っている。
やけっぱちな私はもう、そのように結論づけてしまいたいのだ。
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どんなに複雑な計算式で出された結果よりも、どんなに膨大な数のデータベースから「あなたに最適です」と選ばれたものよりも、私は、自分の目で見たものや経験に基づく結論に最もプライオリティをおいて生きていきたいと思うし、そうする権利があると思う。
2008年02月11日(月) 小乗仏教とホスト役 2007年02月11日(日) 根を張り枝を張るもの
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