次々に明らかになる、年金の着服問題。 身内贔屓にも程がある、と頭から煙を出して新聞を読む。
非常に腹立たしいが、腹を立てるだけでは物事は先へすすまぬ。
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職場であれ、家庭であれ、守りたくなる身内があることは、別に悪いことではない。 そういう一体感や支えあう信頼感は、コミュニティを居心地よくするために不可欠である。
守りたくなる身内の不祥事というのは、 反省しているのだし、とか、能力のある人だから、とか、 家庭の事情が事情だし、というように、フォローの道を探りたくなるのが人の常なのかもしれない。
それは、この人を未だ信じたい、という、情け深い気持ちの一種である。 しかし、敢えて意地悪く言えば、それは他者への情けではない。 不祥事を起こしたものと一体的にある、自分自身へのフォローであり、 それまでのコミュニティが崩壊するかもしれない結末に対する「逃げ」である。
そういう按配で情け深い態度の皮をいささか意地悪くむいていくと、 「こんな不祥事が外に出ては大変だ」という打算が、心根の芯として現れる。
自分に対してフォローも逃げもしない強さをもったリーダーでなければ、 馬謖を斬るということは難しい。 もちろん、だからできなくてもよい、ということでは全くない。
2006年09月11日(月) 他動詞との戦い 2005年09月11日(日) 生は希望 2004年09月11日(土) 死と悲嘆の必要性
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