浅間日記

2006年09月11日(月) 他動詞との戦い

米中枢同時テロから5年の関連記事。

社説は「「大義なき戦争」の重大さ」というタイトル。
「揺らぐ戦争違法の理念」、阿部浩己神奈川大法科大学院教授。
「力ではなく理性にもどれ」、西谷修東京外語大学大学院教授。

そのことは分かっております、というばかりの所感。
頼むから、隣の紙面に写っているブッシュ大統領に言ってくれ、と思う。



一般市民が沢山死ぬのは戦争の結果、と認識していたけれど、
最早そうとは限らない。

隣人が大量に死ぬという衝撃を与えることは、
憎しみのコンセンサスを得、無差別に人を殺すことの口実として活用可能だと証明してしまった。
5年間にアメリカとイラクの間であったことを思うと、そう感じる。

だから、我々市民はこの先、争いの幕開けのところでも命を狙われると自覚しなければいけない。
オーストリア皇太子夫妻みたいに。

何だかそれは、集落と集落の争いみたいである。

たとえ隣人と認識できない距離にある人の命でも、それは等しく尊い。
世界中のほとんどの人は、きっとそう思っている。だけど時々見失う。



本当にそれは自分が抱えるべき憎しみで、
自分が全存在をかけて負わなければいけない報復なのか考えなければ、
私達は知らない間に何者かから同胞にされ、「憎まされ」「争わされ」てしまう。

姿のみえない危険を確信するときは、まず自分をしっかりもつことだ。

2005年09月11日(日) 生は希望
2004年09月11日(土) 死と悲嘆の必要性


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