広島平和式典。梅干をベランダに出しながら黙祷。
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情報は、発信する側がリニューアルしなくても、 受信する側の状況変化によって変質することがある。
被爆者から発信されるメッセージはゆるぎなく恒久的であるが、 今年は受け止める側がその重みを変えている。そう確信した。
もちろん、イラク戦争やテロや、忍び寄っている憲法改正の足音によるのだろうと思う。
加えて、秋葉市長の平和宣言は「被爆の実相」という言葉を使って、 自分達が経験としてもっている情報や記憶こそ、平和政策の明確な根拠なのだということを示した。
被爆の実相を語ることは、そんなに簡単なことではないんである。 被爆者の人たちが記憶を言葉にするのは、ひとえに未来のためであり、 本当は多分、思い出したくもない記憶であるはずだ。
もうそのすぐの、時代の角のところまで来ている「あれ」について、 本当に中味を知っているのは、日本中、世界中で彼ら以外にいない。 そして、彼らの一つ一つの物語を象徴するのが「平和宣言」なんである。
歴代市長、そして秋葉現市長が宣言することの意味は重い。 謙虚に耳を傾けたい。
2005年08月06日(土) 慰霊考 2004年08月06日(金) 後付日記
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