浅間日記

2007年05月17日(木) 苦を救う その2

昨日の続き。今日は雨音を聞きながら考える。

今私達は、苦しみに向き合うことではなく、
苦しみを無くすことが「救い」であると考えている。

そのことによって何かを得、そして何かを失っているけれど、
「救い」は失速することなく現代人のあらゆる苦しみに介入し続けている。

苦を救う技術はやがて、生老病死すべてにいきわたる。
生をちゃらにし、老をちゃらにし、病をちゃらにし、そして死をもちゃらにする。

そうして私達は、さらに多くのものを得、多くのものを失うだろう。

−あるいは、「私はここから先の苦しみは自分で向き合います」と、
途中下車する人が現れるかもしれない。もっとも、そのときに乗り降りの自由があればの話だけれど−



苦しみをちゃらにしてもらうことに慣れた私達は、たぶん、
「どうにもならないこと」が何なのかがよくわからなくなっている。

本当にどうにもならないことはあきらめきれず、
本当はどうにかしなければならないことを簡単にあきらめる。

安易になりゆきにまかせて、それ以上考えることを止めてしまう。
「そういうきまりになっています」と他人に強要する。

現代版の救いで失ったもののうちの一つは、これではないかと思う。


続けるかどうか思案中。

2006年05月17日(水) 罪にすることができる
2005年05月17日(火) 芯折れ鉛筆
2004年05月17日(月) サマワに降る雨


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