昨日の続き。今日は雨音を聞きながら考える。
今私達は、苦しみに向き合うことではなく、 苦しみを無くすことが「救い」であると考えている。
そのことによって何かを得、そして何かを失っているけれど、 「救い」は失速することなく現代人のあらゆる苦しみに介入し続けている。
苦を救う技術はやがて、生老病死すべてにいきわたる。 生をちゃらにし、老をちゃらにし、病をちゃらにし、そして死をもちゃらにする。
そうして私達は、さらに多くのものを得、多くのものを失うだろう。
−あるいは、「私はここから先の苦しみは自分で向き合います」と、 途中下車する人が現れるかもしれない。もっとも、そのときに乗り降りの自由があればの話だけれど−
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苦しみをちゃらにしてもらうことに慣れた私達は、たぶん、 「どうにもならないこと」が何なのかがよくわからなくなっている。
本当にどうにもならないことはあきらめきれず、 本当はどうにかしなければならないことを簡単にあきらめる。
安易になりゆきにまかせて、それ以上考えることを止めてしまう。 「そういうきまりになっています」と他人に強要する。
現代版の救いで失ったもののうちの一つは、これではないかと思う。
続けるかどうか思案中。
2006年05月17日(水) 罪にすることができる 2005年05月17日(火) 芯折れ鉛筆 2004年05月17日(月) サマワに降る雨
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