音楽考は、もう少し続く。 そうとう脱線する長い話。
生きていくことは孤独で苦しい。 人生の「生老病死」は、逃れられない苦しみである。
「苦を救う」とは従来、その苦しみへの向き合い方や、 身の処し方を示唆するものであった。
苦を救うとは、苦しみを消滅させることではなかった。 少なくとも、それだけではなかった。
むしろ、「それは解決不能」と引導を渡すところから、 本当の救いが始まったのである。
だから、芸術の存在理由も明確だった。 苦しみは解決不能であるからこそ、それは魂に届く光を放つことができた。
一方、現代社会で「苦を救う」というのは、 その苦しみをちゃらにすることを意味する。
その結果、私達はいくらか−否、相当に−解放された。 リスクは減り、面倒はスルーすることができる。 手間もかからない。リセットも可能。
私達には、覚悟と決意をすることや、 苦しみに向き合う知恵や体力が必要なくなった。
同時に、苦しみに向き合うことで身につけてきた 許す、受け入れる、待つという態度も、することが困難になった。
子どもを育てられないという現象は、 育児というものが如何に、 許す、受け入れる、待つという態度で構成されているかを皮肉にも示している。
熊本に設置された通称「赤ちゃんポスト」は、 −色々な考えがあるにせよ− 子どもを育てる苦しみをちゃらにできるもの−サービス−である。
現代版「苦しみを救う」挑戦は、かくして、 行きつくところまで行き着いたのである。
つづく。
2006年05月16日(火) 天変地異・狂気 2005年05月16日(月) フリーランス時短
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