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■ 枯れる花 世話できぬのはなにゆえか 時折よぎる隙間の風よ
植物を育てるのが苦手です。
まだ猫がいなかったころ、たまに贅沢に生花を買ったりしたことがあります。
もちろん好きな花もあります。十代はスミレが好きでした。紫いろがすきだったので。 その後、ブランク(要するに花を愛でるような余裕のない時期)があり、30代で出産したあと、トルコ桔梗やアルストロメリアが好きになりました。 あまり知識のない花だったのと、意外とたくましかったからかもしれません。 水換えが半日や1日遅れても、そうそうはへたらなかったので。
母は、けっこう鉢植えなどを育てていました。まめだったのでしょう。 私は、まあ好きなことにはまめではあるのですが、たまにポンと気が抜ける時があって、はっと我に返ると、花が枯れていたり、ぬか漬けが全部古漬けになっていたり。 古漬けはともかく(利用できますから)、枯れた花にはほんとうに申し訳なく、ごめんなさいごめんなさい、と言いながら、ゴミに出すことになるので、猫を飼うようになってから、余計に花を飾ることはなくなりました。
思い返してみると生き物を育てることに関して長続きしたのは、人間と猫だけです。
なぜかと言うと、彼らは自己主張するのです。 腹減った、かまえ、ほっとけ、眠い、寒い、暑い、なんか知らんが不快だからなんとかしろ。
思い返すと息子も猫も、たいして育て方は変わらなかったなぁと。特に、幼児期。 自我が目覚めるまでは「ごはん、排せつ、睡眠」を最優先、自我が目覚めてきたら、その都度、対応して。でも過剰には与えないし、先回りもしない。先回りするような余裕が、私にはなかった、とも言います。 結果的には良かったのかもしれません。過剰は時に、毒となります。
また、人間の子に対しては、代替も避けました(猫には、多少しました)。 たとえば「テストで百点とったら、欲しかったおもちゃを買ってあげる」というやつ。それをやっては、学ぶということの根本から甚だしく遠ざかっている、と思ったのではないかと思います。
植物は、言葉を発しません。敏感なひとは何かを感じるのかもしれませんが、私は感じません。 だから、たまに花束を頂いたりしても、なかなか長持ちさせることができず、ごめんなさいごめんなさい、と謝り倒すことになるのです。
猫は、普段あまり構われたくなさそうにしているわりには、必要なときには激しく自己主張します。だから、安心なのだと思います。 寝坊して、つい朝のトイレ掃除を後回しにしたら、ベッドカバーをトイレ替わりにされたり、とか……(もちろん体調が悪くて、そういう行動に出る仔もいるので、その見極めは大切です)。その割に、こちらが体調が悪く寝ているときは、なぜかみんな大人しく寝ていたりします。
人間の子は、ある程度になれば会話すればいいので楽ですが、会話が成立するようになるまでが大変です。コミュニケーションを図りたくても手段をもたない(言葉が拙い)相手と、どれだけコミュニケーションをとれるか。そこはけっこう難しいと思います。 感情を言語化するのは、非常に高度な作業なので、その何段階も手前にある幼児や小児の場合、伝わらないことに癇癪を起すことが多々あります。 でも、こちらがコミュニケーションを拒んでいるのではないということを、根気よく伝えていることで、少しずつ改善していきます。
だからと言って、理論どおりにはいかないのは、こちらにも感情があるから、なのですが。
たまに間違っても、人も猫も修復できる、というのが、この年月の間で感じたことです。 悲惨な環境に傷ついても、落ち着いた居心地のいい環境に移ったことで、傷が癒されることはたくさんあります(ダメな場合もあるのでしょうが)。
でも、やはり花を育てるのは、苦手です。 せいぜいが、ぬか漬けです。酢漬けだと、もっと便利です、という私には、細やかな気配りが根本的に欠けているのだろうな、と改めて思います。 細やかな気配りのできる人間になりたいと願い、多少は頑張りましたが、けっこう難しく、やはり無理なものは無理なのかなと、最近思うようになりました。
でも散々甘え倒した後に、隣で寝ている練々とみていると、少なくとも練々にとって我が家は居心地良く、それならそれでもいいのかな、と少しだけ、慰められる思いです。
2018年11月15日(木)
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