にゃんことごはん
ごはん



 枯れる花 世話できぬのはなにゆえか 時折よぎる隙間の風よ

植物を育てるのが苦手です。

まだ猫がいなかったころ、たまに贅沢に生花を買ったりしたことがあります。

もちろん好きな花もあります。十代はスミレが好きでした。紫いろがすきだったので。
その後、ブランク(要するに花を愛でるような余裕のない時期)があり、30代で出産したあと、トルコ桔梗やアルストロメリアが好きになりました。
あまり知識のない花だったのと、意外とたくましかったからかもしれません。
水換えが半日や1日遅れても、そうそうはへたらなかったので。

母は、けっこう鉢植えなどを育てていました。まめだったのでしょう。
私は、まあ好きなことにはまめではあるのですが、たまにポンと気が抜ける時があって、はっと我に返ると、花が枯れていたり、ぬか漬けが全部古漬けになっていたり。
古漬けはともかく(利用できますから)、枯れた花にはほんとうに申し訳なく、ごめんなさいごめんなさい、と言いながら、ゴミに出すことになるので、猫を飼うようになってから、余計に花を飾ることはなくなりました。

思い返してみると生き物を育てることに関して長続きしたのは、人間と猫だけです。

なぜかと言うと、彼らは自己主張するのです。
腹減った、かまえ、ほっとけ、眠い、寒い、暑い、なんか知らんが不快だからなんとかしろ。

思い返すと息子も猫も、たいして育て方は変わらなかったなぁと。特に、幼児期。
自我が目覚めるまでは「ごはん、排せつ、睡眠」を最優先、自我が目覚めてきたら、その都度、対応して。でも過剰には与えないし、先回りもしない。先回りするような余裕が、私にはなかった、とも言います。
結果的には良かったのかもしれません。過剰は時に、毒となります。

また、人間の子に対しては、代替も避けました(猫には、多少しました)。
たとえば「テストで百点とったら、欲しかったおもちゃを買ってあげる」というやつ。それをやっては、学ぶということの根本から甚だしく遠ざかっている、と思ったのではないかと思います。

植物は、言葉を発しません。敏感なひとは何かを感じるのかもしれませんが、私は感じません。
だから、たまに花束を頂いたりしても、なかなか長持ちさせることができず、ごめんなさいごめんなさい、と謝り倒すことになるのです。

猫は、普段あまり構われたくなさそうにしているわりには、必要なときには激しく自己主張します。だから、安心なのだと思います。
寝坊して、つい朝のトイレ掃除を後回しにしたら、ベッドカバーをトイレ替わりにされたり、とか……(もちろん体調が悪くて、そういう行動に出る仔もいるので、その見極めは大切です)。その割に、こちらが体調が悪く寝ているときは、なぜかみんな大人しく寝ていたりします。

人間の子は、ある程度になれば会話すればいいので楽ですが、会話が成立するようになるまでが大変です。コミュニケーションを図りたくても手段をもたない(言葉が拙い)相手と、どれだけコミュニケーションをとれるか。そこはけっこう難しいと思います。
感情を言語化するのは、非常に高度な作業なので、その何段階も手前にある幼児や小児の場合、伝わらないことに癇癪を起すことが多々あります。
でも、こちらがコミュニケーションを拒んでいるのではないということを、根気よく伝えていることで、少しずつ改善していきます。

だからと言って、理論どおりにはいかないのは、こちらにも感情があるから、なのですが。

たまに間違っても、人も猫も修復できる、というのが、この年月の間で感じたことです。
悲惨な環境に傷ついても、落ち着いた居心地のいい環境に移ったことで、傷が癒されることはたくさんあります(ダメな場合もあるのでしょうが)。

でも、やはり花を育てるのは、苦手です。
せいぜいが、ぬか漬けです。酢漬けだと、もっと便利です、という私には、細やかな気配りが根本的に欠けているのだろうな、と改めて思います。
細やかな気配りのできる人間になりたいと願い、多少は頑張りましたが、けっこう難しく、やはり無理なものは無理なのかなと、最近思うようになりました。

でも散々甘え倒した後に、隣で寝ている練々とみていると、少なくとも練々にとって我が家は居心地良く、それならそれでもいいのかな、と少しだけ、慰められる思いです。

2018年11月15日(木)



 いつの間に秋を過ぎるか空の色 せめてひととき安らぐ風を


夏物をしまい損ねているうちに、いきなり肌寒くなりました。
半袖でも暑かったり、長そででも寒かったり。
季節ごとの入れ替えが、うやむやのうちに過ぎていくような気がします。

しばらく小説に嵌まっていました。
いや、小説にはずっと嵌まっているのですが、ちょっと気になっているシリーズが、某電子書籍で半額セールになっていたのもので、20冊ばかりまとめ買いしました。
買うより、読破するほうが疲れました。

折も折、長野から仕事で東京はお茶の水に出てきていたリュウから電話があり、「時間潰せるようなところがある?」と。
お茶の水と言えば、坂を下って三省堂書店本店から続く、神田神保町の古本屋街でしょ。
と、思うわけですよ、書痴としては。
私がちょうど、今のリュウぐらいの歳のときにライターとしての第二段をスタートさせた町でもあります。
古本屋街に反応したリュウは、5〜6冊を購入して「ほんとうは、欲しかった本、もっとあったんだけど、持ち金なくて」と嘆きつつ、一夜の宿という形で我が家にやってきました。

最近、我が家の主は俺様なのよ、状態の練ちゃんは、リュウが来るなり居間の椅子にやってきて、リュウと私の間に鎮座してゴロゴロと甘えていました。
リュウが持参してくれた長野の美味しい日本酒と、私のほうは秘蔵の(笑)獣肉で喉を潤しつつ、あれこれと雑談するなか。

たまたま、どこぞの関連のツイートで、あたれば100万ポイント、一生分の本が買えます、的な書店関係のツイートが流れてきました。

「百万ポイント、1ポイント1円として百万円」
「一生分?」
「う〜ん、どうだろう」
「たとえば、1冊500円として」と親子で試算が始まります。
 100円で買える古本もありますし、1000円2000円、下手するともっと高額で購入する専門書や稀覯本もあるので、必ずしも正確ではありませんが、まあ平均値として、我が家の購買意欲(必ずしも、購買実績とイコールではない)を鑑みると、長くて5年ぐらいかねえ、という結論に達しました。
「一生分は無理だね」
「うん。無理だね」と答えましたが、「私はいけるかも、あと5年ぐらいなら」と内心で思ったことは、内緒です。


2018年11月12日(月)
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