にゃんことごはん
ごはん



 病院に通うはもはや風物詩 できうる限り苦痛なくして

はい、チャチャコさんが補液通院デビューです。

夏の検診で腎臓の数値に不安があったのですが、とにかく食べむら好き嫌いのあるチャチャコ姫のこと。もともとご飯も開封したときだけ食べるけど次は食べない、とか、ちょっとしたことで、食べようとしていたのに機嫌を損ねるとか、日常茶飯事でした。

以前はニャンの腎臓用の療法食を、横からつまみ食いしていたのに、いざ療法食を出されるとそっぽを向くという……ニャンが他界して、腎臓用の療法食は茶々専用になった途端に、見向きもしない……。
そんな状況なので、とりあえず、経過を見るために通院することに。

とにかくキャリーが嫌いな茶々なので、前に通院した何回かは唸ったり怒ったりと、大騒ぎ。診察室でキャリーから出すと落ち着くのに、キャリーに入れた途端に阿鼻叫喚。
そんなだったので、キャリーよりはましかも、と購入した小型犬用の抱っこ紐(みたいな?)を使うことにしました。

行きは大騒ぎでした。ずっと唸って、時々、雄たけびを上げるので、まるで虐待しているみたいな様子です。
でも、病院について待合室に落ち着いた頃から、静かになりました。キャリーのときは待合室でも大騒ぎだったので、これは希望が持てるかも。

採血して結果が出るまでの間も、おとなしくしています。

その後、腎臓の値が悪化しているので投薬、加えてたんぱく質の分解にかかわる数値が悪化していて、療法食を食べないためサプリメントで対応することになりました。が、前の検診のあと、一度ためしているのです。普通はご飯にまぜるのですが、茶々が食べてくれなかったので、一度断念したもの。今回は、水に溶かして水溶液にしてシリンジで飲ませてみる、ということに(これで駄目なら、また考えます)
でも、そんな状況なので(療法食に頼れないので)、当面、週1ぐらいで補液のために通院することになりました。

通院を嫌がる猫の場合、通院そのものがストレスになるので、その判断には迷います。
ニャンは「病院行こうね」と言うと、おとなしくキャリーに入り「苦しゅうない」という様子だったので、通院できたようなものです。

だからチャチャコの通院には不安もありますが、とりあえず、今日に限っては、大騒ぎしたのは行きだけ。待っている間も、その後の会計のときも、そして帰路も静かでした。半分、寝ているのでは、というぐらい。
もしかして、この抱っこ紐もどきなら、大丈夫? という期待が。

チャチャコに限った話ですが、キャリーにはトラウマがあるのかもしれません。

チャチャコは友人が保護した野良で、その友人が長期入院するにあたり親御さんのところへ、そして、親御さんが高齢なために私のところへ、と、住まいを移されてきています。当然のことながら、その移動にはキャリーが使われていたのでしょう。3年前に我が家に来たときもキャリーのなかで、ずっと鳴いていたそうです。

キャリー=住み慣れた場所が変わる、そんな刷り込みがされているのではないか。

今回、あえてキャリーを使わなかったのは、それも理由でした(まあ、ちっちゃくて軽いので可能である、できれば股関節が悪いために杖を使いたい私にとっても楽である、というのもありました)。
抱っこが嫌いな茶々ですが、膝の上に半載りになって甘えたりはしていたので、いけるかなと。

今日のところは、悪くない見通しです。
これなら、ストレス最小限で、通院できるかも、と少し楽観しています。
待合室で、膝の上に感じるチャチャコの体温がとても暖かくて、ちょっと幸せでした。

2017年11月25日(土)



 たとえれば、ひとにあだなす妖怪は、ひとの仇か、ひとの業なのか

妙にもってまわったタイトルですが、なんのことはない、昨日、テレビで「シン・ゴジラ」を見たからなのでした。

ゴジラ映画は、けっこう見ました。初作品放映当時は、年寄りの私もさすがに生まれていなかったので、後にテレビで見たのだと思います(というか何度も観た記憶があります)。
何作目から映画館で見て、どの作品を、テレビ放映で見て、レンタルで見たのかも、定かではありません。でもリュウが子どものころ、よく見ていた記憶はあります。妹一家が遊びに来た正月にみんなで見に行った記憶もあるので、平成版の初期はほぼ、見ていたのではないかと思います。 

最近の作品も映画館まで足を運ばないまでも、テレビ放映されれば見ていたと思います、だって、大好きだから。ハリウッド版ゴジラを「あれは、ジュラシックパークの亜流ね」などと言っていた記憶もあります。

特撮好き(オタクというほどでもない程度)の私ですが、いくつのかの段階があって、ゴジラはその系譜のひとつの源流ではあります。
もうひとつの源流は、「サイボーグ009」でその流れの延長上に今の特撮(仮面ライダーや戦隊)があります。
でも、巨大な脅威、という「敵」の源流は、実はウルトラマンではなく、私にとっては「ゴジラ」なのだと、最近、つくづく思います。ウルトラシリーズは好きでしたが、むしろ「ウルトラマン」以前の「ウルトラQ」や「キャプテンウルトラ」が好きだったので、怪獣バトルもの的な流れのウルトラマンは、私が子どもではなくなってしまったころ(中学生ぐらい)に始まったからか、あまり思い入れがありません。
ゴジラもサイボーグ009も、小学生のころに出会った作品でした(サイボーグ009については、今回は関係ないので、触れずにおきます)。

さて、ゴジラです。

最初にゴジラ作品をみたのがいつなのかは、はっきりしません。
でも、私の記憶の中のゴジラは、実は悪役(という言い方もおかしいのですが)ではなく、地球人と真っ向から敵対する脅威ではなく、地球人に敵対する脅威に対して、立ち向かっていく存在、というのが原点です。別に、人間を大事に思って人間を守る、というわけではなく、ただ圧倒的な脅威が、自分の脅威を脅かす存在を敵視して戦い、それが結果的に、人間にとって都合がよかった、という、そんな感じです。

実際、1960年代ごろのゴジラは、けっこう可愛い顔をしていますし、子ども(ミニラ)に火炎放射の術(術じゃなくて技?)を指南したりしていて、人間的です。

でも、その辺のどこかで私は初代のゴジラ映画を見た。もしくは、初代ゴジラの出自を知ったのだと思います。つまり、水爆実験の申し子として生まれた、人類にとってただ脅威としかいえない、圧倒的な力を持った存在としてのゴジラと、どこかで遭遇したのだと思います。
だから、しばらくのシリーズ休止のあと、初代ゴジラを彷彿とさせるゴジラが登場したとき、わくわくしながら映画館に足を運んだのでしょう。それが、たぶん1984年の作品だと思います。

その後、何作か製作されていくなかで、ゴジラは再び、親子で楽しめる怪獣バトル映画となるのですが、私がリュウや、甥っ子たちと見ていたのは、おそらくこのあたりだと思います。
ちなみに、敵?怪獣として私が好きなのは、キングギドラとラドンです。敵?らしい美しい無駄のないフォルムが、その理由ですが、異論は受け付けます。

閑話休題。
今回、「シン・ゴジラ」を観ての感想が、政府の対応や日米関係にリアリティがあるとか、対ゴジラ戦闘兵器が凄い(いや、凄いのですが)ではなく、ひたすら「ゴジラがかわいそう」だったのが、われながらびっくりでした。

今までもゴジラはフルボッコにされてきました。本人(本獣?)に悪気はないのでしょうが、何せ巨大な歩く核兵器ですから、仕方ありません。ゴジラ的には普通に歩いていても、建物はなぎ倒すし、結果として人は死傷するし、下手すれば放射能汚染です。
攻撃されれば、放射線を発射して周囲を焼き尽くします。
か弱い人類としては、フルボッコにする以外に方法はないのです。

でも今回、ゴジラよりも米軍や自衛隊のほうが強く見えるのです。
もちろん、ストーリー前半で日本の首脳が乗ったヘリがゴジラに追撃されて(つまり全員死亡)、臨時政府が設立されるというようなヘヴィな展開はありましたし、それより前に、ゴジラの幼形?が、街を破壊しながら進むという描写もあったのですが。
う〜ん。もっと破壊的な映像を見たいというわけではなく、なんというのでしょうか、ゴジラに敵対する側の絶望感が、感じ取れないというか。私の感受性の問題なのでしょうか?
たとえば幼形のゴジラが、ちょっと可愛くて、怖いというよりは、ただ、でかいが故に不本意に破壊せざるをえない、というようにしか見えず、よってゴジラの圧倒的な怖さが、最初の上陸のときには感じられず、再上陸で「きた〜」と思ったのに、あまり暴れないうちに、やっつけられちゃった、みたいな。

テレビ放映だったので、もしかしたら映画館では違ったのかもしれません。

でもフルボッコにされるゴジラを見て、普段、山の奥でひっそり暮らしているのに、うっかり間違えて里に下りてしまった熊を想像してしまったのでした。それだって、そんな熊と遭遇した人にとってはたまったものではありませんし、私だって、そんなことは御免です。
私は山を降りてきた熊と遭遇したことはありません。だから、熊よりもゴジラが怖いとは言えません。でも知識としては知っています、熊は怖がりで、普段は人間と遭遇すると逃げるのだ、と。

もちろん、何らかの事情があれば、人間は熊よりか弱いので、熊が攻撃してくればフルボッコかもしれません。でも、こちらが刺激しなければ、滅多に攻撃はしてこない、らしいです。
たとえば鮫も、よほど空腹か、血の匂いがあるかしなければ、人間を襲ったりしないとも言います。

ゴジラもほんとうは、静かに海底で眠っていたはずの古代生物を放射能汚染物質として目覚めさせた、それを「ゴジラ」という、その根底が、今作では明確に明示されていないのです。
あくまでも、ある島で言い伝えられれてた正体不明の生物、とされ、それ以上の、追求や分析はなされていなかったように、思います(私が見逃しただけでしょうか?)。

視聴者である私たちは、ゴジラ映画を何度も見てたり、前情報を持っていたりしますので、「ゴジラ=脅威」は自明の理ではあるのですが、何回かゴジラ映画を見てきた私にとって、今回のゴジラは、とても弱弱しく、哀れに見えました。

で、そのあと、少しばかりゴジラ関係の動画を検索していたら、MAD映像に遭遇しました。
進撃の巨人とゴジラ映画の(勝手に)コラボ画像です。

ゴジラの怖さって、進撃の巨人の怖さとちょっと近いかもと、そのとき気づきました。大きさとか、圧倒的な力とか。
でも、ゴジラは曲がりなりにも怪獣です、人間っぽいところは(1960年代に多少はあったにせよ、コンセプトは異なります)ありません、でも、巨人は見た目人間です、全然意思疎通できないし、どうやら生理活動も異なるようですし。

怪獣と、巨人(進撃の巨人のキャラ)、どちらが怖いか。
怪獣は最初から意思疎通のできるものであるという期待をしない存在、で、人型の巨人は、一見、人間っぽく見えるから意思疎通できるかもしれないと期待したうえで、最悪の形で(ある意味ゴジラが人を傷つけるよりもひどい形で)裏切ってくる、という存在なんだと、思います。

監督は、当然、アニメ化もされた進撃の巨人をご存知だと思うのですが、もしかして、従来通りの「怪獣」を描いても、「巨人」の怖さには負けるかも、と思ったりしたのかしらと、ちらりと思いました。

猫とは、なんの関係もない話です。すみません。

とりあえず、我が家にとって、練々と茶々子は、ほんとにちっちゃいけど、巨人ほどの存在感をもって、私を脅かす存在、ということで。

2017年11月13日(月)



 夢を見て、もういない猫、呼びかける 目覚めて後に苦笑いする

朝方から降った雨のせいか、寒いような蒸すような朝、明け染めるころに目覚め、そのまま寝付けなかったので、枕元にあった本を読んでいました。

途中で、まどろんでいたようです。

意識としては、自分の部屋で自分のベッドに寝ているのだけど、夢の中では、猫トイレ掃除をしなくては、とあせっています。というか、掃除をしていました。
やっと片付いて、ベッドに座ったところで、ニャンが来ました。
生前そうしていたように、するりと私に身を寄せ、そのままくつろいで香箱を組んでいます。

「来てくれたんだね」と心の中で呼びかけながら、私はニャンを撫でています。
ニャンは応えることもなく、くつろいでいます。
と、膝上に別の感触があり、そこにショーがいました。
すごくびっくりしました。

「ショーちゃん?」と声をかけても返事はしませんが、夢の中では、これはショーちゃんだと確信がありました。
「来てくれたんだ、ありがとう」と声をかけ、背中を撫で、寄り添っているニャンちゃんにも「ありがとう」と」声をかけ、毛並みを確かめている最中に、目が覚めました。

ニャンちゃんったら、ショーちゃんをけしかけるだけでなく、自ら出向いてくれたんだと思いました。

夢の話です。
でも、夢の中なら願いが叶うことも、もしかしたらあるのかもしれないと、思いました。

2017年11月08日(水)



 猫の居る小説求め 夜な夜なに 活字におぼれ夢に漂う

25年ぐらい前に読んだエッセイに、小説を読みたいときというのは何がしか心が傷ついていてそれを修復しようとしているときなのだというような意味合いの一文がありました。
それは、シングルマザーで一人息子を育てている文筆家の文で、息子が小説を読んでいる時期、漫画を読んでいる時期を客観的に観察した結果、得られた結論という感じでした。選択肢にゲームがなかったのは、まあ、時代、でしょう。

私に限って言えば、小説も読みますし、漫画も読みますし、もちろんテレビドラマも見ますし、最近はゲームもしますけれど、逃避したいときは、活字が一番。

1週間ほど寝付いたあと、今度は難聴がひどくなって、またヨレヨレしていました。
これは眩暈も伴うので、安静にしているしかなく、でもじっと寝ているのも気持ち悪く、けっこう本を読みました。眩暈がしている真っ最中は無理でも、そこまで症状がひどくないとき、でも起き上がるのは少し不安なとき、私の場合、本は読めるのです。さすが活字中毒。
そして本だけは潤沢にある我が家なので、しばらく読み返していなかったものを再読したり、くらくらと眩暈がするときは、途中で放り出しても経過も結末もよく知っている本の活字を眺めつつ、転寝したり。

そんなこんなするうちに、体調のいいときについつい猫が出てくる小説を見つけてしまいます。知ったら読まずにいられません。
本屋に出かけるのは無理でも、今はネットで本を購入しPCの画面で読めます。凄い。
10代のころのように、貪るように読みました。
ついでに猫とは関係ないのですが、書店に足を運んでいなかったために読みそびれていた好きなシリーズものや好きな作家の新作も読みました。

もうゲップが出そうなほど。

そうやっていても、ふとニャンちゃんの不在を思い、目を閉じてしまいます。目の前にニャンちゃんがいないことが、とても理不尽なことに思えて。

そして練々と茶々は、入れ替わりで甘えに来ます。なぜか、必ず入れ替わり。
まるで、練々は「ボクとママの世界」に生きていて、茶々は「アタシとママの世界」に生きていて、二つの世界は決して交わらない、とでもいうように。
彼らも万全な健康体ではないので、投薬や療法食やケアが必要です。
交わらないなら、いっそ別々でいいのに、なぜか練々は茶々用のフードを食べたがり、茶々は練々用のフードを食べたがるのです。

部屋を分けることも考えたのですが、分けた部屋に私が等分に居る、という点について試行錯誤しています。
だいたい、どちらも自分が甘えたいときだけ気まぐれ寄ってくるので、私的には等分のつもりでも、彼らにとっては甘えたいときにいるかいないか、で。
マイペースに寝ていたり、まったりしていたりする合間に、気まぐれに甘えにくる相手に、どう等分のペース配分をしろ、と、という状況です。

まだまだ寝込んだままではいられません。

2017年11月06日(月)
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