にゃんことごはん
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 知っている?猫の十戒 知っていたけど 改めて読むと泣けてくるよ

猫の十戒というのがあるようです。
犬の十戒がもとになっているようで、それは人に忠実な犬が人に対する忠誠心を踏まえ、飼い犬を大事にしてください、というような趣旨なのですが。

それをそのまま猫にあてはめることなど難しいのは、猫飼いなら承知のうえ。で、そのうえで、あえての猫の十戒。
調べた限りでは「犬の十戒」を下敷きにして作られた英文からの翻訳で、でも猫事情をふまえて、アレンジもしているようなので、どれがオリジナルなのかまでは、今回は探れませんでした。

すごく笑えるのが、
「第一戒 私の生涯はだいたい15 年くらいしかありませんが、たまに20 年以上生きてしっぽが裂けます。ほんのわずかな時間でもあなたが離れていると腹が立ちます。私が家族になってやるので、そのことを覚悟しなさい。」
です。

つまり、いつも一緒にいろとツンデレ気味に宣言しているわけで。

尻尾が裂ける云々は、日本の化け猫伝説を踏まえているのでしょうから、おそらく日本独自のものかと。

で、猫飼いとして泣けるのが、以下

「第九戒 私が年をとっても世話をしなさい。あなたも同じように年をとりますが、私は年をとってもかわいいのです」

「第十戒 最期の旅立ちの時には、そばにいて私を見送りなさい。「かわいそうで見ていられない」とか「私のいないところで逝かせてあげて」なんて言うのは許しません。なでなさい。なで続けなさい。かわいいね、いい子だねと言いなさい。言いまくりなさい。そうすれば私は着換えの時間を少し短くしてやってもよいです。まあ、気が向いたら」

そうです、年をとっても可愛いのです。ほんと、爺さん婆さんなのに、なんでこんなに可愛いのだろう、と思いましたもの。
 
私の両親は、介護する暇も余りないうちに(少しだけ介護はしましたが)、あっという間に他界しました。結婚相手の親はまだ健在で、でも私はとっくに離婚してしまったので、たぶん今後も介護はしないと思います。

だから、比べることもないのですが。

でも、ほんとうに「年をとってもかわいいのです」と思いました。
私もこの先老いていくなら、出来うることなら猫になりたいと、ちょっと思いました。猫だったら、年をとっても可愛いのです、と言えるので。
ひととしての自分に、それは無理、というものですが。

十戒の「なでなさい。なで続けなさい。かわいいね、いい子だねと言いなさい。言いまくりなさい」というのは、猫飼いが猫に対して望んでいることだね、と思います。猫飼いは、猫がそう思っていて欲しいと思っている、ということです。
ほんとうのところはわかりません。もしかして、猫はうっとおしいと思っていたかもしれません、わかりませんけど猫に聞いたわけではありませんし、ましてや、自分も死に掛けた経験があるわけではありません。

ただ、そう言って看取れたら、飼い主(?下僕?)としては幸せだよなぁ、と言うのが、猫飼いの共通の思いであるとは思います。

なで続けて、腕の中で最後を看取ったニャンが、ほんとうにそれを望んでいたのかどうか、私にはわかりません。
もっとほかに、あったのではないか。
いつも付きまとう思いです。

2017年12月12日(火)



 猫はただ そこにいるだけ でもひとは そこにまぼろしの意味を求め

ボクとママの世界を生きている練も、アタシとママの世界を生きている茶々も、
彼らの中での閉じた世界を生きているのだろうな、と思います。

一日の大半を寝てすごし、時折ご飯を食べ、時折、ママとの世界を思い出して、じゃれてくる、そんな感じ。
とても猫らしい、我侭な彼ら。

どちらかと言うと人間的だったニャンがいなくなって、我が家はほんとうに「猫とひと」の家になったのだなと思います。
ニャンがいたころは、猫とひととひともどきの猫の家、というと、まるでニャンが化け猫のようですが、でもそれぐらい生活の中にしっくりとはまっていました。

ニャンはよくリュウの膝の上に乗っていましたが、リュウはそれをあまり意識していなかったようです。
一人暮らしを始めてからひさしぶりに帰宅すると、当然のようにニャンはご飯を食べるリュウの膝上に乗るのですが、リュウは気づかずに「うぉ、おまえいつのまに」とか言うので、よく笑ったものでした。
だって、ニャンが膝に乗ると、普通に背中をぽんぽんしているのを、私は横で見ていましたから。

そんなふうに、無意識のうちに生き物を扱うリュウを、少しうらやましいとも思っていました。

だから、ニャンがいなくなって、猫たる中の猫である練と茶々は、われこそが猫であるぞと主張して、でもそこは猫なので、半分はぐだぐだと寝ている、そんなふうに思えます。

どちらも病気を抱えていて投薬が欠かせないのが切ないです。

まあ一病息災という感じでいければいいかな、と

2017年12月09日(土)



 タイトルに偽りありにならないよう ご飯の話でもしましょうか

もともとは猫たちの記録と、成長期だったリュウのご飯の記録のために始めた日記だったのです、忘れていたけれど。

最盛期にはニャン、ショー、あみ、ポッポ、ジュリナ、きらら、練といた我が家。預かり猫さんがいた時期もありましっけ。
ジュリちゃん、ポッポ、あみっちが7〜8歳でそれぞれ他界したあとは、安定の4猫1男子1おばさんという家族でした。
その後、ソチ五輪の最中にショーが他界、3猫になった年の秋にまさかの新顔チャチャコ登場。その翌年の暮れにきららが他界。
リュウが独立し3猫1婆となった我が家から、この10月に長老で殿のニャンが他界。初の猫であるニャンと暮らし始めて18年が過ぎていました、びっくりです。

私の食生活も大きく変わりました。
食べ盛りの運動部少年がいた家から、老猫と婆の我が家へ。
5合炊きの炊飯器は煮物やジップロック調理の専用鍋と化し、自分のご飯は1合ずつ土鍋で炊き、それでも主食も惣菜も小分けにして冷凍して、やりくりしています。

サラダや温野菜などいくらでもパクパクたべられたはずなのに、野菜でさえ、いくらでも、というほどは食べられなくなりました。なので大根を1本買うと、まずは酢漬けに干し大根にと保存用の処理を施した残りで、サラダやおろしや煮物鍋物に。
肉の好みはあまり変わっておらず、和牛の霜降りよりも赤身が好き、塊肉なら尚よろしい派なので、ローストビーフやローストポークを作る頻度は割と高いのですが、出来上がると、とりあえず小分けにして冷凍庫へ。ちまちまと解凍しながら消費するのがなんだか悲しい。

そうえば昔、おまかせで獲れたての鮮魚を届けてくれる通販を利用したとき(まだ今ほど、通販が一般化していなかったころです。あれはもしかしたら業務用だったのかも。とにかく安くて大助かりでした)、あんこうが丸ごと一匹入っていて(ほかにもありましたが)、出刃を握り締めて格闘したのを思い出しました。あのときは確か、ほとんどを鍋にして1日半ぐらいで消費しました。
リュウが成長期だった当時、食費に頭を悩ませていたので、このときの食べても食べてもまだ大丈夫、と大盤振る舞いだったあんこう鍋は、我が家にとって贅沢極まりないものだったのですが、それも今となっては懐かしい……。

さすがに成長期を終えたリュウですが、それでも彼が遊びに来ると食材(とお酒)が一気に無くなります。
ステーキ用のいいお肉が安くなっていると、とりあえずリュウが来たとき用(か、彼に何か送らなくてはならないときの同梱用に)冷凍庫に保存したりしていますが、先日、ふと自分で食べてみようかなと思い、解凍しました。
美味しかったです。美味しかったですが、、当然のことながら食べ切れません。
結局、もったいないと思いながら、加熱済みのお肉を再度、冷凍しました。

好き嫌いなく、それなりに健啖家を自認していたはずなのですが、これではまずい、と最近思うようになりました。
股関節が悪いので、歩く機会は減っています。その分を補わなくてはと、股関節のためのストレッチや筋トレを増やしたりしてジタバタしています。

とりあえず、一日の中で、肉・魚・貝・海草・乳製品・豆・野菜・卵・油脂をとることを目標にしています。
これ、もともとはダイエットの方法で、一食でこの9品目をきちんととることで栄養の偏りがなくなり、無駄に空腹を感じなくなるというもの。でも、一食でこれ全部は、若いときはともかく今の私には無理なので1日でなんとか賄おう、と。
気をつけていないと、貝類とか豆類はあまり食べていないとか、意外と乳製品をとっていないとか、食べるときのクセみたいなものにも気づくことができます。

かつてリュウのご飯の記録を見ていて、納豆や豆腐はともかく、それ以外の豆の摂取機会が少ないのに気づいて、煮豆が余り好きではないリュウに豆を食べさせようと自己流で作り始めたのがチリコンカンでした。サルサと並んで、我が家の夏の風物詩的メニューとなりました。
寒い季節は鍋に逃げていたので、便利でした。一鍋で野菜も肉も魚も貝も豆腐もとれるうえに、出汁につかった昆布を引き上げた後、佃煮にすれば、あとは卵と乳製品と油だけ。

今、鍋をすると鶏肉(唐揚げサイズで)2〜3切れ程度、魚の切り身を半分、冷凍あさりを10粒程度、豆腐を1/4丁、白菜や小松菜、ねぎ、キノコを適宜で、お腹一杯です。佃煮にするほどの昆布の量もないので、適当に刻んで、ご飯(1/4椀程度)と一緒に雑炊に。ここに牛乳と粉チーズ、卵を落とし、塩コショウ、仕上げにオリーブオイル。リゾット風の雑炊の完成です。

これで白ワインがあれば、なんとも贅沢な宵の口。

2017年12月01日(金)
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