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■ 骨がある、とリュウは言うが、わたしには、骨と体は違うと思え
ニャンを見送った翌週、長野からリュウが来ました。 ニャンちゃんの供養と、恐らくは私を心配して、なのだと思います。
ふと私が、先日日記にも書いた「形がなくなると喪失感が増す」という話をしたら、驚くことに、リュウは違うと。「骨があるから」と。 居間で、最近購入したお気に入りの鉄板焼き器で、長野土産のキノコや野菜、安いときに購入して冷凍していた、ちょっと上質な肉などを焼きながら、ニャンの思い出話をしていたときでした。
すごく、びっくりしました。
リュウにとっては、骨も形、だったということが。
その意識の違いがどこからくるのか、私にはわかりません。
形とは何ぞや、ひいては、形と「在る」ということとの関わりとは何ぞや、そしてさらにいえば、「在る」ということとは何ぞや、というのは、学生時代に所属していた学科の命題でした。
猫という、だれもがある程度共通に思い描く形を基本にして造詣こそが、私にとってのニャンでした。たとえ命は宿っていなくとも、生前と同じ感触(もちろん温かみはないですし、柔らかさは失われていますが、毛並みは感じることができます)、同じ見た目(もちろん、生き生きとしていた瞳の光は失われ、かわいい声を聞くことも二度とかないませんが)、それがニャンでした。 でも、リュウは違うと言います。 リュウと私が認識していた「ニャン太郎」という存在は、ことほどさように隔たっていたのだ、と改めて思いました。
そのせいかどうか、リュウが帰った翌週、寝付いてしまいました。体力的にも精神的にも無理をしていたので、仕方がない面もあったと思います。 とはいえ、レンや茶々のお世話もあります。そんなこんなで、今年の10月は、けっこうヨレヨレでした。
今朝方、すぐに食べ過ぎてはゲロッパするレンが、あろうことか寝ている私の 足の上(ちょっと布団からはみ出していた)に吐いてくれたためにびっくりして5時前に起き、寝惚け眼でその始末をして、再度、布団にもぐりこんだ後、夢を見ました。 ショーちゃんによく似た猫を拾って、「え?これはショーちゃんじゃないか」「いやいや、ショーちゃんのお葬式は出したんだから、生きているはずがない」などとドタバタしている夢でした。
目が覚めてから、笑ってしまいました。 きっとショーちゃんが、心配して来てくれたんだ、と。 ニャンちゃんではなく、ショーちゃんが来るというあたりが、なんだからしくて。
ニャンちゃん、きっと自分も猫又になるまで長生きするつもりでいたのではないかしら。 それが適わなくて、悔しかったのかもしれません。 だからショーちゃんをけしかけてくれたのではないかと。
ばかばかしい話です。 そもそも夢の話ですから。
でも目覚めたとき、ちょっと幸せな気分でした。 そして、ちょっと立ち直りました。 ほんと、勝手なものです。 勝手に落ち込んで、勝手に立ち直って。 でも、また勝手に落ち込んで泣くのです。
お互いに仲がいいわけでもないレンと茶々は、それぞれ気分が向いたときに甘えに来ます。 どっかりと膝のそばに丸くなるレンと、私の肩をチョイチョイとひっかくようにしてかまえと催促する茶々。猫嫌い、ママloveなこの子達との生活は、さて、どうなることでしょう。
2017年10月29日(日)
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