|
|
■■■
■■
■ 紫陽花の色はいろいろ、土壌により 異なる色味咲き乱れるを
近所の公園の護岸工事をしたあと、紫陽花を植樹した話を日記に書いたのは、まだショーちゃんが居たころだったように記憶しています(調べる気はないらしい)。
ひょひょろした茎に花が咲いたのに、とても驚いたものでしたが、あのあと、ひょろひょろ紫陽花が、しっかりした花木になったのも、日記に書いたと記憶しています。たぶん、ョーちゃんの亡くなったあと(調べる気はないらしい)。
そこから数えると、さらに数年たっているわけですが、まあ見事な花を咲かせています。花弁の感じからたぶん、西洋紫陽花だとは思うのですが、今を盛りと咲き誇っています。紫陽花の花の色は確か、土壌の酸性度に影響されるといったような記憶があります(調べる気はないらしい)。
公園の紫陽花は、何株かある中、坂道の一番上が青で、そこから赤紫が続いて、途中、また青になって、薄いピンクになって最後、また青。なんか不思議な色の並びです。なぜなのかはわかりませんが、色とりどりの紫陽花も、けっこう綺麗なものです。
もしかして、春までもたないのでは、春を越せないのでは、と心配だったニャンは、腎臓もよくなることはないわけで痩せてはいますが、好みの腎臓療法食を見つけることができて、まあまあ元気でやっています。 永遠に生き続けることはないのはわかっていても、なるべく長生きして、少しでもそばにいてと願ってしまいます。
この前、たまたま見ていたドラマで「死んだ瞬間のことばかり考えていたけれど、あいつとはともに生きた時間が確かにあったんだ」みたいなセリフがあって、ちょっと、胸に来ました。 どうしても、失ったときのことを思ってしまいます。 でも、その瞬間よりも、生きて一緒に過ごした時間のほうがずっと長かったんですよね。
どの仔の最後も、後悔だらけではありますが、ショーちゃんのときは特に、後悔というのか、なんというのか……ずっとずっと引きずっている思いがありました。 でも、ショーちゃんはそのことを恨んだり怒ったりはしていないのかも、むしろ、それを私が悲しんで楽しかったショーちゃんとの日々を封印することのほうが、悲しいのかも、と少しだけですが、思えるようになりました。
今でも、居間の南の掃き出し窓から注ぐ光のなかで、バレリーナのようにすくっとした姿でこちらを見ているショーの姿を思い出します。 あんな美しい猫を見たことがない、と思います。 あの凛としたショーの姿を宝物にして、後悔は沈めてしまうのがいいのかもしれません。
でもやっぱり、今でも思います。 今ここに、ショーちゃんがいてくれたらなぁ、と。
2017年06月23日(金)
|
|
|