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■ もう二度と 触れることさえ叶わない そのすべらかな銀の手触り
リュウの予定と私の仕事の都合がついたのが今日だったので、ショーの火葬に行ってきました。 冷たく動かなくてもショーがショーの形をしていたときには感じなかった喪失感が、今はあります。
もっと一緒にいたかったよ。 寝たきりでもいいから、生きていてほしかったよ。 もっともっと大変な思いをさせてくれても、よかったんだよ。 でも、ショーは逝ってしまった……。
もともとショーは気配を感じさせない仔で、どこにいるのかわからないのに、ご飯のときになると「メシメシ」と煩く鳴くニャンやレンやキラをよそに、気づくと静かにお皿の前でスタンバイしているとか、ふと気づくとドアの隙間から顔半分だけのぞかせて、じっと私を見ているとか……そんなだったので、今もどこからか寝起きの顔でショーが現れるのではないか、と思ってしまいます。
子猫のころから、かまえかまえ、と甘え鳴きすることもなく、ごくたまに、私の足にチャイチャイと前足をひっかけて、気まぐれにオヤツの催促をするぐらい。 抱っこもポンポンもあまり好きではなく、でもそっと首筋を撫でるとぐるぐるのどをならすような、そんなところがありました。 そうそう、ショーだけは水を水道から飲むので、我が家の水道の蛇口にはキッチンと言わず洗面所といわず、浄水器が取り付けられています。 朝の忙しい時間、リュウの朝ごはんの支度と弁当作りを終えて、さあ、調理器具を洗いましょうというときに限って、ショーが水を飲んでいて、「ああもう、洗い物は帰ってからだわ」なんてことも多々ありましたっけ。
いつもマイペースで、お気に入りの場所(いくつかは把握しているけれど、いくつかは、本当に謎だった、大して広い家でもないのに)でくつろいで、ご飯も適量食べ(決して太ることもなく適正体重を保ち)、あまりベタベタすることもなく、でも、帰宅するとお迎えに出てくれて、客人がくれば遠目に観察して、たまに近づいてみたりして、いつも「ボク、イケメンでしょ?」とばかりにスラリとした姿で佇んでいる、そんな仔でした。
だからこちらも、必要以上にかまうことはせず、でも、ショーがごくたまに甘えてくると嬉しくて嬉しくて、内心「ひゃっほー」と雄たけびをあげながらも表には出さず、さりげなさを装って接していました。
だから、いつも傍にいたという感じではないのに、今は、とても寂しい、 悲しいというより、寂しい……。 I miss you ってこんな感じなのかなと、思います。
毛皮を着替えて戻っておいで、と言いたいけれど、今から仔猫を責任もって育て看取るには、私自身が少し不安な年齢になっています。 だから、ニャンとレンとキラを看取って、そちらに行くまで待っていてね。
もう亡くなってしまった仔も、いまいる仔も、ほんとうにいとしく、かけがえのない仔だけど、やっぱりショーは私にとって運命の仔だったんだな、と、亡くした今、改めて実感しています。 ショーと私の間にだけ通じる何かが、確かにあり、今はそれがなくなってしまった……それが、今の私の喪失感の核になっていると思えるから。
リュウが選んだ骨壷入れは、綺麗なパウダーブルー。 「ショーちゃんの毛皮のシルバーはさ、暖色のまじっていない、ほんっとに綺麗なシルバーだったから」 いくつかあったなかで、まじりっけなしの綺麗な寒色のパウダーブルー、だそうです。 今は大学で物理学を専攻しているリュウは、高校の3年間美術コースにまなんだせいか、ちょっと独特の美的感覚と拘りをもっています。
ジュリナ、ポッポ、あみっちに、ショーも並びました。
食の細くなったショーに、仕事から帰宅してご飯をあげ、しばらくしてまたご飯をあげ、仮眠して起きてご飯をあげ、ショーを抱っこしながら、ソチオリンピックを見て、またご飯をあげ、仮眠して起きて、ご飯をあげ、仕事に行って、昼に帰宅してご飯をあげ(リュウがいるときはリュウがご飯をあげ)……そんなふうに、過ぎた2月。記録的な積雪のなか、細く軽くなったショーを抱っこして過ごした日々は、大変だったけれど、幸せでもありました。 最後に、そんな幸せをくれたショー。雪が降るたび、冬季五輪の時期になるたび、思い出すのでしょうね。
2014年02月18日(火)
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