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■ ひとり文学論
最近、毎日、描いています。でも術後、まだベッドでうなっていた頃。もう再起不能(倒れる以前と同じようには回復は難しいという意味で)とみた夫は、「かきなさい!かきなさい!」とペンを持たせるかわりに、さらにPCを買い与えるかわりにPC・インターネット・ブログについての情報雑誌を買い与えてくれたー。ちょっと安いカンジ…いや、医療費、目が飛び出るほどの金額がかかったので何もぜいたく言えない。 そのときの「かきなさい」とは「書きなさい」という意味であって、けして「描きなさい」という意味ではなかった。でも今んところ書くより描くが上回っている。
私は、こうみえても純文学について人知れず悩み楽しんでいるのだ〜?!悩むということは、その現状が自分にとって苛酷であり、その状態から逃れたい。でも出口が見つけられずにいて心が右往左往しているようなことの総称のことを通常「悩ん」でいるという言う。私の場合は、純文学が過酷ではなく、危機的状況に陥っているわけではない。その出口が見えない事柄について常に喜んでいるようにあるのだ。私の右脳出血してしまった脳内では、今や夢想妄想が毎夜肥大していっている。
実は、もう返却日を二週間以上経過してしまった本を返却しに行ってきたのである。今日は、幸い、我が市の図書館は定期休館日なので二週間も延長してしまった本の返却を図書館の窓口のパートのおばさんと顔を合わさずに返すことが可能。返却ポストにストンと落とせばいい…実際には、滑り台のようになっていてゆるく本が流れていく仕組み…いい加減、イイ大人が返却期間を守れないということに背徳感を覚えながらも暑くてなかなか読み終われず、さらには、暑くて返しに行けなかった。さっき午前中は、雨があがっていて、日は照ってなかったので歩行するにはうってつけの天候状態だったわけです。
なかなか読み終えなかった本は、スキャンティという女性のエロチックな下着を日本で考案デザインして下着の会社を立ち上げた鴨居羊子の本だ。 *スキャンティというのは、今や、スケスケのエロエロチックなショーツと定着しているが、本来の意味は「乏しい」とかそういう意味で、少量の小さな表面積の生地で作ったということから命名したらしい。 *画像は、鴨居羊子の本とは関係ありません。
はじめは、下着に執着のあるおしゃれな女性なのだと思っていた。違っていた。彼女は、もとは新聞記者。先輩に当時毎日新聞記者で現・作家の山崎豊子や、作家になりたての司馬遼太郎が本名で登場してきたり。戦後、まだ日本がどういう形に発展していくか未知のその頃に、当時、木綿のズロース、よれよれの肌着しかなかった女性の下着に革命を起こさんとしたエロチックやおしゃれ下着の改革、先駆者なのだった。ちょっと外国のファションデザイナーのココ・シャネルにも通ずる人だ。
たいへん文章がうまく…そりゃそうだろう、もともと新聞記者なわけだし。ということより彼女の感性が素晴らしいのである。彼女の世の中と自己と母親と母親に代表するような女性の観念のようなものに折り合いつけられずに悩んでいたことがえんえんと書かれている。
私もどっか彼女に通ずる何かを感じている。まあ、読むことによって私の奥底に沈溺していたものを呼び起こされた観があったのかのしれない。
この本は、純文学ではなく自身の半生を書きつづったエッセイ本なのだが、この本を読んでいる傍らでもやっぱり私は、そういう文学やらをやってみたいと思っていたのである。
それは、夫の父親が作家崩れの国語の教師だったこと。私の父も人知れず小説や随筆を書きためていたのだ。父は、国外の南の島で生まれ、戦後兄弟が多くカビ臭く、壁をヤモリが這いまくる粗末な沖縄の家でゲーテを読んでいたのだ。こうしてみるとどこだって文学はできるようにきこえてくるが、夫の父親の場合は、かの夏目漱石の生地付近で生まれ、文学の交差点でもある東京都文京区で所帯を構え、ちなみに早稲田大学文学部在学中にて源氏物語を読みふける学生だったそうだ。けど、作家として活動することはなかったのだ。こうしてみると文学はどこでもできないものにみえてくるが、私は、双方の事情の向こう側に行く下駄を履かされたような気がしてくるのだ。まあ、それこそがブンガクなのかもしれない。
2011年07月20日(水)
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