無責任賛歌
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| 2003年09月09日(火) |
で、『CASSHERN』に樋口可南子はホログラフィーで出るのか?/『鉄腕バーディ』2巻(ゆうきまさみ) |
相変わらず「宇多田ヒカル夫」という呼び方のほうが通りがいい紀里谷和明監督(離婚しても「宇多田ヒカル元夫」と言われちゃうんだろうな)の実写版『CASSHERN』のキャストが発表された。 主演は『金髪の草原』の伊勢谷友介(東鉄也/キャシャーン)。タッパはあるし、演技力もある人ではあるが、その演技力がかえってこういうコートームケイな話のジャマになりはすまいか。 他のキャストも、意外と、と言っては失礼だが、まあまあの有名どころを揃えてはいる。 麻生久美子(ルナ)は、もう特撮モノのヒロインの中心の一人と言っていいだろう。『赤影』も『魔界転生』も、この人のおかげで持ってる部分が多々ある。あのコスチュームが(デザインは変わると思うが)似合うかどうかはちょっと疑問だが。 寺尾聰(東博士)、 樋口可南子(東ミドリ)、小日向文世(上月博士)の三人は特別出演という感じですかね。このあたりにベテランを揃えてるあたり、一応ちゃんとしたものを作ろうとしてるのかなという雰囲気は伺える。 それに比べて不安要素が大きいのがライバル陣。 宮迫博之(アクボーン)、 佐田真由美(サグレー)、要 潤(バラシン)、及川光博(内藤)、唐沢寿明(ブライ)。 まあ、タツノコプロ作品はリアル路線の作品でもどこかセンスがダサくてお笑いの要素が強いのだが、実写でもそれ持ちこんだら相当ヘンテコなものになりゃしないだろうか。いやまあ、なったらなったで楽しめそうではあるんだが。 前にも書いたが、私はもうなにが実写化されたって、文句付ける気はないのである。ただ、日本映画の企画の貧困さに嘆息するだけだ。
ここんとこ外回りが多くなってるので、日焼けがだんだん濃くなっている。できるだけ日陰を歩くようにしているのだが、そうもいかない。いや、日焼け自体、キライなわけではないのだが、眼鏡をハメているものだからそのあとがクッキリ顔に出来るのだ。眼鏡取って顔洗う時がもうこれが大マヌケ。 コンタクトにしたら? とはよく言われるが、それで視力が上がる訳でもなし、手入れがタイヘンになるだけなんだよねえ。
くたびれながらも博多駅を回って、コミックスなど買い込み。 マクドナルドで半熟卵バーガーを食べながら読む。
マンガ、ゆうきまさみ『鉄腕バーディ』2巻(小学館/ヤングサンデーコミックス・530円)。 つとむのとーちゃんがうっかり風呂をのぞいてバーディのヌードを見ちゃうネタ、しっかりリメイク版でもやっちゃってるなー。リメイクの難しさというのは、どうしたって昔の作品と比べられてしまうことであって、作者本人は技術的に向上しているつもりであっても、既に読者の中にもイメージが出来あがっているものを破壊したとしか思われない場合が往々にしてある。 『バーディ』の場合は、失礼ながら固まったたイメージが出来あがる前に連載が終わってしまったから、さほど「昔と違う!」と怒り出すファンもいないとは思うが、気のせいか青年誌になったってぇのに、昔の方がずっとヌードとかセクシーだったような。線がスッキリしちゃうと失われるものもあるってことだね。 細かく見ていくと、バチルスが人間の記憶を取りこむたびにその人間の意識のせいで自分自身のアイデンティティを失っていく、とか、設定の変更があるのだけれど、余りストーリーに絡んできてはいない。前より着飾ってみたのはいいけれど、ちょっとムダが多いかなって印象。 「スピリッツ計画」を追っているらしいジャーナリストの室戸圭介は、ちょっと『パトレイバー』の後藤隊長を彷彿とさせて面白くなりそうな気配ではあるけれど、ともかくゆうきさんはせっかく出したキャラを生かしきれずに終わることが多いから、少し心配になるのである。
2001年09月09日(日) 見え透いたウソにすがるココロは/DVD『ウルトラマンティガ THE FINAL ODESSEY』 2000年09月09日(土) なんでこんなにバカなのか
| 2003年09月08日(月) |
ボンちゃんって呼び名も懐かしい/ドラマ『血脈』/『×××HOLIC』1巻(CLAMP) |
鬱病で芸能活動を休止していた高島忠夫さんが元気に復帰宣言。 お年がお年だけに自殺の危険もあったと思われる。以前、知り合いが実際に鬱病に罹っちゃったことがあるが、親や恋人がいかに説得しても、自室の隅に引きこもって、顔を上げようともしなかった。こちらができたことと言えば、医者に連れていくように奨めることだけ。それとても本人にとっては厄介者のように扱われていると思いこまれるのではないかと心配になった。激励の言葉がかえって本人を追いつめてしまうくらいに、心は繊細になってしまっているのだ。 高島さんが人前に出られるようになるまで約5年。この間のご家族の苦悩は想像するに余りある。自分たちの方が鬱病になってしまう危険な状況だってあったのではないか。それを堪えた。今の政伸さんの笑顔は、心からの笑顔だろう。 願わくは、この5年間の出来事を「ドラマにしよう」なんて安易なテレビ屋が現れませんように。
『キネマ旬報』9月下旬号、タイムリーに『座頭市』特集である。 監督インタビューで北野武が「市は何の愛情にも絡んでいない」と発言しているのを読んで、これも北野監督の「照れ」かな、と苦笑した。ともかく今回の座頭市は寡黙である。「感情を言葉にすることの恥ずかしさ」というのは感情表現の過多な人にはなかなか理解してもらえないのだが、市が殆ど口を利かずに過ごすのは、感情がないからではない。それを口にすればウソになってしまうからだ。 「本当は市はとても優しい心の持ち主なんだよ」。 ほら、ウソっぽいでしょう(^o^)。 言葉が意志や感情を伝達できる最良の手段だなどと思いあがってはいけない。言葉は本人の意志の十分の一、ヘタをしたら殆ど伝えられないと言っても間違いではないのだ。何かを伝えようとすればするほど、言葉が上滑りになっていくという経験をした人は多いだろう。結局は言葉もひっくるめて、「その人」を許容する覚悟があるかどうかでしか心と心の絆は生まれないのである。 じゃあ、ビートたけしが日頃あんなに饒舌なのはなぜなんだと文句をつけるワカランチンもいるだろうが、だから「照れ屋さん」は「韜晦」するんですよ。 こういう説明も野暮の極みだし、仮にたけしさんがこの文を読んだとしたら苦笑するだけだろうが、言葉を丸のままストレートにしか受けとめられない連中が世の中に横行してるから。だもんでそういう連中にはまさしくストレートに「馬鹿」って言ってやるんですがね。もちろんこれとて意味は伝わらない(^_^;)。
同じ号では『踊る大捜査線2』の評論家&読者を交えての批評も特集されているのだけれど、絶賛から完全否定まで、実に幅広い。 こうも意見がかけ離れてしまうと、「その映画って面白いのかつまらないのかどっちなの?」と未見の方は迷われると思うが、見る人によって感想が違ってくるのは当然なので、「自分の目で確かめてごらんなさい」としか言えませんねえ。 よく「主観の相違」と言ってこの意見の説明をしたがる人は多いが、じゃあその「主観」ってのは何? ってことが余り考えられていないから、説明のための言葉でなく、相手を拒絶する言葉にしか作用していないのはよろしくないと思う。 もう少し具体的に言えば、「主観」ってのは一人一人の背負っている「文化」の違いなんであって、それが映画の「何に注目するか」という違いにまで発展するのである。その結果、感想が変わるのは当たり前の話。 単純な例を挙げて説明するなら、日本人が洋画を見るとき、もしも吹き替えや字幕がなかったら、内容が掴めずにつまらなく感じるでしょう。でもそれは映画の出来が悪いからじゃないことは自明の理。じゃあ、外国語が分らない方が悪いのかって言うとそうでもなくて、そういう「文化」を持たないで生きてきたのだから、これは仕方がないことなのです。つまり一人一人の持っている「知識」や「教養」は常に偏在しているので、議論をする場合にはそれを確認した上でなければできないことなのである。 議論で意見が衝突している状態というのは、お互いに自分の「見ているもの」を相手が「見ていず」、自分の「見ているもの」を相手に「見ろ」と強要している形になってるのだから、そりゃケンカになるのもムベなるかな。 うちのしげは「ダン・エイクロイドが出演していればそれだけで傑作」と主張してますが、これはしげの中では絶対的な真理ですから、何をどう言ったってムダ(^_^;)。もちろん、世間一般に通用する意見でないってことは本人も百も承知。文句言ったって仕方ないんだけど、相手の見てるものが「ダン・エイクロイド」だけだったら、やっぱり「お前、そこだけ見るのはやめろよ」と言いたくはなりましょう。言ってはいないけど。 『踊る2』を本気で面白いと思ってる人は、映画をこれまでたいして見たことがないか、見ていても漫然と眺めていただけの人である(評論家の佐藤忠男も誉めちぎっているが、あの人もそうなのか、と聞かれたら「そうだ」と答えよう)。もちろんそれが悪いことだと言うつもりはない。誰にだって「初心者」の時期はあるのだ。江戸川乱歩の通俗ものと同じで、最初の一冊は面白いが、何冊も読んで行くと「なんだ、全部同じじゃん」と思って飽きる(もっとも微妙な差異が面白くて全作読んじゃってますが)。私は『踊る2』については「これまでに見たことのある絵、展開」しか見えなかったので、「陳腐」としか言えなかったのだが、ドラマのセオリーを外してるわけではないから、「面白い」と感じる人もいて当然でしょう。私にとって「寄せ集めのガラクタ」にすぎないものが「大切な宝物」に見えたからと言って、それを間違いだというつもりはないし、言ったとしたらこんなに僭越なことはない。 ただ、「もっと面白い映画はいくらでもあるのに、知識や教養がないとわかんないんだな」とは思う。これはただの事実の指摘なんで(まさか『踊る2』が世界映画史上ベストワンだと言う人はいますまい)、バカにしてものを言ってるわけじゃないんだから、『踊る2』のファンの人、怒っちゃいけません。と言ってもムダかもしれないが。 山根貞男氏などは「どうしようもないシロモノで、無視するのが真っ当な対応」「「カビの生えた古い感性の安っぽいセンチメンタリズムと劣悪なご都合主義」「ひたすら観客への迎合でのみ成り立っている」と容赦がない。ここまで断言してくれると実に小気味よい限り。『踊る2』肯定派の人も、この程度の言葉を受け流せる余裕がなきゃ、それこそマトモな意見吐いても相手にされなくなるから、ご注意を。
夜、TVQで佐藤愛子原作、中島丈博脚本、久世光彦演出『ドラマスペシャル 血脈 大正〜昭和大震災と戦争の時代・妻として、母として、家族を激しく愛し、憎んだある女優の一生』見る。 原作の方はいつか読んでやろうと思いつつ、文庫化を待ってる最中。でもそれは作家研究の興味からなんで、ここに登場する人たちのことを殆ど知らないだろう若い人がこの物語にどんな興味を抱くんだろう、といささか気になる。佐藤紅緑なんか、ただの無軌道親父にしか見えないんじゃないか。「あの『ああ玉杯に花うけて』の佐藤紅緑が」と思うからそのイメージのギャップに驚いちゃうんだけどねえ。 実は久世さんの演出は昔からわざとらしくてそう好きではない。今回も時代の変遷を表すのに回り舞台に佐藤家の家屋を乗せて回すというのをやってるけど、それは舞台の演出で、テレビでやってもつまんないよな、と思ってしまう。昔『真夜中のヒーロー』って番組でも裸の岸本加世子を檻に入れてぐるぐる回し、「ああ、落ちる」とか歌わせてたけど。なんでも回せばいいというものではないのである。 キャストは佐藤シナに宮沢りえ、佐藤愛子に石田ゆり子、サトウハチローに勝村政信、佐藤紅緑に緒形拳という布陣。宮沢りえは若くしてもう痛々しげだから役柄に合ってると言えなくはないけれども、なんだかやっぱり芝居が軽い。歴史の点景をかいつまんで描くような手法も、ドラマが薄くなる危険を考えなかったのかと不満が残る。 筒井康隆が島村抱月役で出てたけど、いくらなんでも太り過ぎてるんじゃないかな。
マンガ、CLAMP『×××HOLIC 〜×××ホリック〜』1巻(講談社/ヤングマガジンコミックスデラックス・560円)。 私の周囲にはCLAMP嫌いの人も多くて、この人(たち)の本はちょっと買いにくいのであるが、グループでマンガ描くというスタンスも面白いし、同じ名前のブランドでいろんな絵柄のマンガが楽しめるというのもいい売り方だと思うのである。今度の絵柄は『夢幻紳士』っぽくて好きだ。トーンを殆ど使わない黒と白のコントラストが美しく、ピアズリーの絵画を見ているようでもある。なにより侑子様のいかにもマダム〜なお美しさがもうたまりませんがな(^o^)。
ここはどこか。店である。それも、ネガイがかなう、ミセ。女主人の名は壱原侑子(イチハラユウコ)。彼女に出来ることなら、なんでも願いはかなう。けれど、対価は払わなければならない。願いに見合っただけのもの、その人にとってタイセツなモノ、例えばそれが魂であっても。 客は迷いこむようにこの店に現れる。しかしそれは「必然」。この世に偶然はなく、あるのは必然だけ。四月一日君尋(ワタヌキキミヒロ)がこの店に「呼ばれた」のも、それは必然であり、「縁」だったのだ。 一人目のお客は小指が動かなくなってしまった女性。それはその人の持つ「クセ」のせい。自分で気付いて、自分で直そうと思えば治るもの。けれど彼女は最後まで……。 二人目のお客はネットをやめたがっている女性。これも、自分でやめたいと思わなければやめられるものではない。きっかけは侑子が与えた。けれど彼女は……。 そして彼女はこう呼ばれる。「次元の魔女」と。
ホントに願いをかなえてやってるのかこの女、と毒づきたくなるキライもないではないが、考えてみれば、自分を見返ることなしに「願い」だけをかなえてもらいたがるというのも勝手なリクツではあるのだ。侑子さまはいかにも冷酷かつ悪辣な魔女風だし、マンガ表現としては新しいのだけれど、案外古風な信賞必罰の倫理観に基づいて描かれてるのだね。 そして物語はCLAMPさんのもう一つの連載、『ツバサ』とリンクしていく。『レイアース』のもこなも出る(^o^)。なんか大盤振る舞いだけれど、『バイオレンスジャック』みたいになりゃしないかと若干心配(^_^;)。
2001年09月08日(土) 半年分の食い散らし/『あなたの身近な「困った人たち」の精神分析』(小此木啓吾)ほか 2000年09月08日(金) 這えば立て、立てば歩めの夫心/『ビーストテイル』(坂田靖子)ほか
| 2003年09月07日(日) |
「時代劇の復興」というのはこういうのを指すのだ/映画『座頭市』ほか |
マンガ『ナニワ金融道』の作者で、エッセイストに転向していた青木雄二さんが、5日、肺がんのため死去。享年58。 もちろん若すぎる死ではあるのだが、あまり長生きしそうにないイメージもありはした。とか言うと、おまえは青木雄二を読んでるのかと突っ込まれそうだが、『ナニワ金融道』だけはパラパラとではあるが読んでいるのである。何しろ“しげが”全巻買っているのだ(女房の趣味感覚は未だに私には掴みきれない)。 これまで日記に感想を買いてこなかったのは、正直、マンガ自体、そんなに面白いとも思わなかったからなんだけれども、かと言ってじっくり読みこんでいたというわけでもないので、特に何かを語る必要性を感じなかったのである。 絵が下手だというのは誰が見ても同じ感想を抱くだろうし、けれどもその下手な絵にこそ魅力があるというのも、わかりはする。下手だからこそ「表現力」はあるのだ。 ただ、このあたりのことはマンガを読みなれてない人には説明がひどく難しい。なにしろ青木雄二自身が「絵が下手」と言われることに立腹していたそうだから、マンガのことなど何もわかっていないのである。何もわかっていない人が面白いマンガを描いてしまうというのも決して現実にありえないことではないので、まずそこから説明しなければならないし、その事実を踏まえた上でも、私はやはりあのマンガの押しつけがましさが性に合わなかくて評価しがたいと思っていたのだから、そこんとこを詳しく説明し始めたら、もうマンガ論一冊書く覚悟をしなければならなくなるのである。 しかも「評価はしない」が、やっぱり「惜しい人をなくした」とは思うのである。マンガの歴史を記述しようと思う者ならば、青木雄二を避けて通ることは絶対にできないが、その作品の孤高なありようを見るとき、その立ち位置をどこに求めればいいのか、少なからず迷ってしまうと思うのである。
第60回ベネチア国際映画祭が昨6日に閉幕、コンペティション部門に出品されていた北野武監督の『座頭市』が監督賞を受賞した。 1952年の溝口健二監督『西鶴一代女』(これももう、見たことないって人多いんだろうなあ)以来、実に51年ぶりの快挙であるが、黒澤・小津・溝口以来、日本人監督で世界的な巨匠は生まれていないという風評はほぼ払拭されたと言っていいだろう。神格化する必要はないし、それなりの批判はして然るべきとは思うが、ミヤザキ・キタノの二人の名が日本映画を代表している事実は認めないと、ただの意固地としか思われまい。オタクでこの二人を嫌ってる人多いけどね。 受賞日が故黒澤明監督の命日だったってのが出来過ぎの感があるが、そうした「偶然」も宣伝にひと役買ってくれると嬉しい。ともかくこれまでのたけし映画、あまりにも人に見られてないのだ。 その話をしげにするとビックリされる。 「たけしの映画って、そんなにヒットしてないと?」 「してないよ。最高で九億かそこらだろう。評価は高いけど売れないって本人も愚痴ってたんだから。ヒットしてるとでも思ってたの?」 「大ヒットとかでなくてもそれなりに人は入ってると思ってた」 「たけしのファンと映画ファンは重なってないから。テレビでたけちゃんマン面白がって見てた奴が『その男、凶暴につき』見に行くと思う?」 まあ、今の日本の映画ファンの大半は『タイタニック』や『アルマゲドン』程度に涙する浅薄なメンタリティしか持ってないから、『HANABI』の無言劇などには堪えられるはずもない。今度の『座頭市』は基本的にエンタテインメントだろうから(もちろんこれまでのたけし映画だって決してゲージツ映画ではなかったのだが)、入門編としては手頃だろう。 「権威」ってものがないと、評価を与えない、自分の目でものを見る力を持てない有象無象がやたらいっぱいいるのはうるさくてかなわないのだが、これでようやくたけし映画を語れる状況が生まれてきたと言えるだろう。 ただ、ここで昔ながらのたけしファンにヒトコト注意しときたいのは、一般のたけし映画ファンがある一定の層を作るまでは、『座頭市』について「本当のたけしはこの程度のもんじゃない」とか言い出さない方がいいよ、ということかな(^o^)。何の謂かはわかるね。
夕べもよしひと嬢がお泊まりであったが、公演直前で朝の十時から夜の十時まで12時間ぶっ通しの練習、おかげでうちに来るなりヘロヘロである。シティボーイズの公演『パパ・センプリチータ』を見せてたのだが、2時間見切れず、途中でダウンしてしまった。 で、今日も朝から練習である。 こちらは呑気に今朝も『アバレンジャー』から『鉄腕アトム』までアニメ、特撮三昧なのだから、テメエだけ楽しやがってとか思われてるかもしれんが、脚本家は書くもの書いたらあとの仕事はないものなんで、恨まれてもどうにもしようがないのである。
アニメ『鉄腕アトム』第22話「さよならプリンセス」。 アトム版『ローマの休日』ですね。リノを主役にしたのは、カーヤの相手役がアトムだったら、また人間とロボットは愛し合えるのかという難解なテーマを扱わなきゃならなくなるからかな。アニメはここんとこ、どんどんウス味になってく感じだけれども、言い換えれば、原作の描写がどれだけ濃密だったかってことだよな。ロボットの妻と結婚して暗殺される金三角とか、子供向けアニメにしにくいんだろうけど、それやらなきゃアトムじゃないんだし。
護衛の目を眩ませて、メトロシティに逃げこんだマユ−ラ王国の姫カーヤ(サファイヤっぽいけど髪形がちょっと違う)。彼女は、マユーラ王国の王位継承者の証しである「トゥーロンの徴(しるし)」を狙っているゼド(多宝丸)たちに追われていた。リノ、そしてアトムたちは、彼女をひょんなことから匿うことになり、自由な時間を過ごしたい彼女のために、変装をさせて町を案内することにする。けれどゼドたちの魔の手はすぐそこに迫っていた。
まあこういう話は“演出で”ヒロインをいかに魅力的に見せるかってとこに命がかかってるんだけど、ちょっと普通の女の子として描き過ぎてないか。定番の話をやるならやるで押さえとかなきゃならない展開ってものがあるんだが(たとえば王女が市井に混じることで起きるカルチャーギャップな騒動とか)、なんか「筋をなぞってるだけ」って話が多すぎるんだよな。もうすぐ青騎士も登場するらしいってのに、こう腑抜けたエピソードが続くと、期待度がどんどん下がって来るんだけどなあ。 カーヤの侍従ドンパは、パッと見たらヒゲオヤジに見えるんだけど、ヒゲが曲がってるからブタモ・マケルなのかも。せめてキャラデザインくらいは中途半端なものにしてほしくないよなあ。
『笑っていいとも増刊号』に、小松政夫さんが出演、タモリといきなり「材木屋」のコントを披露してくれてたのを偶然見る。こういうのがあるから「サンデーモーニング」なんか見ちゃいられないのである。 あとはまたひたすら日記書き。
で、受賞記念と言うわけではないが、ワーナーマイカル福岡東で映画『座頭市』。しげはこの機を逃すとまたしばらく映画を見る時間がなくなっちゃうので、練習終わってくたびれてるからだをムリヤリ映画館まで運ぶ。私にはそれはもうムリだ。夜、映画を見ようと思ったら、前日からたっぷり睡眠を取っておかないととても持たないのである。
さて、この映画の魅力をどう語ればいいものやら。これまでの北野武映画の最高傑作と呼ぶ人も多いとは思う(まあ私も何本か見てない北野作品もありますが、だいたい同じ評価)。 けど素直に「面白かった」と語るのに抵抗があるのも事実。これまでの北野作品を見てきた人ならご理解頂けると思うが、北野監督には、映画、ドラマのセオリーをわざと外す癖がある。それはつまり手塚治虫のヒョウタンツギみたいなもんで、北野監督の「照れ」なのだが、時代劇のようにセオリーがガッチガチに固まってる分野でそれやると、多分昔ながらの時代劇ファンで「なんじゃこら?」って反応する人もいると思うんだよね。 一例を挙げれば、座頭市の「金髪ほかの設定」なんかがそうだ。勝新太郎の座頭市にとらわれない映画を作るためには、これくらい思い切った手を使う必要があるが、旧来のファンが「噴飯もの」と怒ってもおかしくはない。 金髪なら、眠狂四郎もそうだったじゃないか、と言い出す方もおられようが、あれには転びバテレンの息子、という設定がある。座頭市には本来、そんな設定は施しようがない。意外と知られてないが、原作の『座頭市物語』は、作者の子母沢寛が土地の人から聞いた実話をもとにして書いた小説なので、座頭市は実在人物なのである。アナタ、坂本竜馬が実は紅毛碧眼だった、とかいう小説を書いたら歴史家からフザケンナって言われちゃうでしょう。 けれども、やたらハシゴ外されてるにも関わらず、この映画、決してつまんなくなってはいないのだ。ただ映してるだけに見えて、画面の持つ緊張感がただごとではないのはいつものたけし映画になってるんである。
街道で一人、休んでいる金髪頭の座頭、市(ビートたけし)。近づいてきたヤクザは、子供に頼んで市の仕込杖をそっと奪う。市が丸腰になったと思い、刀を振りかざすヤクザたちだったが……。 この冒頭のシーンで、もういきなり北野監督の「外し」が入る。 市に襲いかかろうとしたヤクザの一人の抜き放った刀が、勢い余って隣にいた仲間を斬ってしまうのだ。 私も時代劇を結構な数、見てきたつもりではあったが、こんなシーンを撮った監督をこれまでに見たことがない。第一、映画の流れを阻害するにも等しいこんなカットを挿入したら、普通は大バカの烙印を押される。 けど、不思議なもので、このうっかり斬ってうっかり斬られたこの二人のワンカットが実にリアルでかつおかしいのだ。「流れが壊れているのに惹きつけられる」。 北野武の映画を楽しめるか楽しめないか、観客は実はこの時点で「試されて」いるのである。こういう例を挙げていったらキリがないし、中にはネタバレに引っかかるものもあるので、ワケの分らないキャラだの、コマギレの編集だの、どんでん返しだの、あとの細かい「外し」は実際に映画館で見て、確かめていただきたい。 監督の「照れ」を感じることができればこの映画、とても「かわいらしく」見られるはずである。
その日、三組の旅人が、同じ宿場に入った。 一人は座頭市。 二組目は服部源之助(浅野忠信)と妻おしの(夏川結衣)。某藩の師範代であったが午前試合である浪人に打ちのめされ、脱藩してその男を追っている。 三組目は旅芸者のおきぬ(大家由祐子)、おせい(橘大五郎)の姉妹。二人は、幼いころに自分たちの親を殺した盗賊に復讐するため、その行方を探し求めていた。 そしてその宿場町は、ヤクザの銀蔵(岸部一徳)と分限家の扇屋(石倉三郎)に仕切られていたのだった。
筋の紹介はごく一部に留めておきたい。ビートたけしは浅草時代に習い覚えた殺陣に工夫を加え、迫力のある映像を作りあげることに成功している。いやもう、痛そうな絵ですわ。σ(TεT;) 遊び人新吉(ガダルカナル・タカ)の飄逸な味わいや、野菜屋のおうめ(大楠道代)のキモの座りっぷりもいい。 CMでも目立っていた「ゲタタップ」だが、これを違和感なく構成した妙も見事だった。
『座頭市』、文句なく私のフェバリット時代劇に入っちゃったのだが、ついでだから、時代劇ベストテンも選んでみよう。もっともテンではとても収まり切れなくて、ベスト20になっちゃったけれど。 これでもとても絞り切れていないことは、『七人の侍』や一連の『忠臣蔵』や、『鞍馬天狗』『旗本退屈男』『遠山の金さん』『銭形平次』『宮本武蔵』といったシリーズものが軒並み落ちていることからもご想像頂きたい。 とても順位は付けられぬので、今回ばかりは時代順である。いちいちコメント付けてたらまた字数オーバーするのは目に見えているので省略、内容知りたい人は自分で調べてちょ。
1.『雄呂血』(阪東妻三郎主演/二川文太郎監督/阪東妻三郎プロ=マキノプロ=1925) 2.『右門一番手柄 南蛮幽霊』(嵐寛寿郎主演/橋本松男監督/東亜キネマ=1929) 3.『丹下左膳余話 百万両の壺』(大河内伝次郎主演/山中貞雄監督/日活=1935) 4.『赤西蠣太』(片岡千恵蔵主演/伊丹万作監督/千恵蔵プロ=日活=1936) 5.『人情紙風船』(河原崎長十郎主演/山中貞雄監督/P.C.L.=東宝=1937) 6.『蛇姫様』(長谷川一夫主演/衣笠貞之助監督/東宝=1940) 7.『虎の尾を踏む男達』(大河内伝次郎主演/黒澤明監督/東宝=1952<製作は1945>) 8.『雨月物語』(森雅之主演/溝口健二監督/大映=1953) 9.『血槍富士』(片岡千恵蔵/内田吐夢監督/東映=1955) 10.『東海道四谷怪談』(天知茂主演/中川信夫監督/新東宝=1959) 11.『座頭市物語』(勝新太郎主演/三隅研次監督/大映=1962) 12.『切腹』(仲代達矢主演/小林正樹監督/松竹=1962) 13.『十三人の刺客』(片岡千恵蔵主演/工藤栄一監督/東映=1963) 14.『眠狂四郎勝負』(市川雷蔵主演/三隅研次監督/大映=1964) 15.『十兵衛暗殺剣』(近衛十四郎主演/倉田準二監督/東映=1964) 16.『五辧の椿』(岩下志麻主演/野村芳太郎監督/松竹=1964) 17.『怪談』(中村賀津雄ほか主演/小林正樹監督/文芸プロダクション=にんじんくらぶ=東宝=1965) 18.『大菩薩峠』(仲代達矢主演/岡本喜八監督/宝塚映画=東宝=1966) 19.『御法度』(ビートたけし主演/大島渚監督/松竹=角川書店=IMAGICA=BS朝日=衛星劇場=1999) 20.『座頭市』(ビートたけし主演/北野武監督/バンダイビュジュアル=TOKYO FM=電通=テレビ朝日=齋藤エンターテインメント=オフィス北野=松竹=2003)
番外『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ! 戦国大合戦』(矢島晶子主演/原恵一監督/シンエイ動画=ASATSU−DK=テレビ朝日=東宝=2002)
2001年09月07日(金) 夢の終わり/映画『王は踊る』ほか 2000年09月07日(木) 涙のリクエスト/『冷たい密室と博士たち』(森博嗣)ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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