無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年02月11日(火) 映画を見る以外に休日の過ごし方なんてあるんですか/映画『音楽』/『プーサン』/『エデンの海』/『日本一のホラ吹き男』

 朝になっても、やっぱりしげは帰らない(^_^;)。
 いいなあ、夜通し飲んで騒げて次の日に残らないって。まだまだしげは若いわ。

 CS日本映画専門チャンネルで予約録画しておいた三島由紀夫原作・増村保造監督の『音楽』を見る。
 増村監督は『からっ風野郎』で三島を俳優として使ったことがあるが、もう三島の役者としてのド素人ぶりは目を覆いたくなるほどであった。
 ATG(アート・シアター・ギルド)制作のこの映画は、三島の死後に作られたものだが、増村監督からの三島へのレクイエムの意味を持っているのだろう。その原作に『音楽』を選んじゃうというのが増村さんの意地の悪いところである。
 精神分析医を訪ねた不感症の女。
 彼女は恋人と感じることができない悩みを告白する。ではこれまでに感じることは一度もなかったのか? そうではない。彼女にもほかの男とのSEXで感じることはあった。そしてそのときには必ず彼女の体が「音楽」を奏でていた。
 心理分析による推理小説的要素を多分に含んではいるけれど、その結末は何だか今一つ説得力に欠ける(ミステリーとは言いきれないけれど、これを三島唯一のミステリ作品、と評価する人もいるので、結末は明かしません)。三島由紀夫って、才能に任せて書きなぐったような作品も多いし、これは彼のグロな面が作品として昇華しきれないままに出ちゃった感が強い。まあ、珍品として鑑賞するくらいがちょうどいいかも。
 主人公・弓川麗子には黒沢のり子。脱げる人ということで日活から呼んできたらしいが芝居はからっペた。精神科医・汐見は細川俊之。あの舞台口調で麗子を責める様子、医者じゃねーよ、と大笑い。やっぱり大映ドラマの伝統かなあ(^_^;)。麗子の恋人・江上に我等がモロボシダン、森次晃嗣(当時は浩司)。恋人を満足させられなくて悩む姿に、アンヌを幸せにできない宇宙人としての自分の身の苦しみを重ね合わせてみるのもおもしろ……くないって。
 あと、三谷昇のSEXシーンという珍しいものも見られます。見てどうする(ーー;)。


 なんだか完璧にハマっちゃったな、CS日本映画専門チャンネル。
 いやねえ、実際にCMなんか見ててもすっげえセンスいいんだよ。宝塚映画や東宝映画の名作の予告編を繋げて、そこに50年代、60年代のオールディーズをBGMに流す。これが実にハマってんだね。
 もちろん本編中にそんな曲は流れないんだけれど、当時、それらの映画をリアルタイムで見ていた世代にとっては、「ああ、この曲を聞いていたころ。この映画を見ていたなあ」と、「時代の記憶とともに映画を見る」ことができる仕掛けになっているのだ。うまいなあ。
 あるいは『新吾捕物帳』の予告編。BGMがOO7のテーマ! 『江戸の黒豹』よりずっとカッコイイんだなあ。
 しかしこれだけカッコイイCM作っちゃうと、本編見たとき、「イメージ違うじゃん!」ってことになりはしないかと心配である(^_^;)。


 続けて日本映画チャンネルで、市川崑監督の『プーサン』を見る。
 見たい見たいと思いつつなかなか見る機会に恵まれなかった映画の中でも、これは特に見たいものの一つだった。
 いやあ、よかったねえ。
 横山泰三のマンガ『プーサン』と『ミス・ガンコ』が原作、けれど脚本の和田夏十は原作マンガを随所に挟みつつも、ストーリーに一本骨を持たせるには相当自由に脚色、新設定を付与しているようである。「ようである」って言葉を濁してるのは、『プーサン』の原作、今は手に入らないから読んで比較するってことが出来ないからなのよ。昔、何かで再録されてたの見たことはあるんだけどなあ。
 脚色が効を奏したのか、本作は市川崑フィルモグラフィーの中でも最高傑作と言ってもいいんじゃないかってくらいに面白い。私の趣味に合っているというか、ギャグがみな「乾いている」のだ。私の心の中ではこれまでの市川崑のベストワンは『吾輩は猫である』だったんだけれど、もう『ビルマの竪琴』も『細雪』も金田一耕助シリーズも吹っ飛んだね。『火の鳥』とか『竹取物語』とか『天河伝説殺人事件』とかは最初から話にならないけど(^o^)。

 プーサンこと野呂米吉(伊藤雄之助)が、いきなり銀座でトラック(軍用っぽい)に撥ねられるところから物語は始まる。幸い大した怪我もしなかったプーサン、「ぼくは銀座に出て来たのは久しぶりでしてねえ」と呑気なことを言ってヘラヘラ笑っている。車に撥ねられそうになったのも戦後復興の謂いかと喜んでたりしているのだ。
 プーサンの後ろで蒲鉾屋がさかんに「政治の貧困ザンスねぇ!」とナンセンスなことを言っている。もちろんこのセリフで察せられる通り、演じてるのはトニー谷。「家庭の事情」に続いてこの「政治の貧困」も流行らそうとしたところだろう。
 応急治療はしたものの、プーサンは下宿近くの渋谷の診療所に回される。そこの医者・手塚先生は木村功、看護婦・織壁さんが八千草薫。なんだかここ数日、八千草薫ばかり見てる気がするが、1953年当時22歳。匂うがごとき清純な美しさである。『プーサン』『今宵ひと夜を』『白夫人の妖恋』と時代を追って、更に『ガス人間第一号』まで見ていくと、八千草薫が清純な少女から、男を虜にする魔性の女へとオトナになっていく様子がよく分る。で、最後は『サトラレ』の呑気な婆ちゃんになると(^o^)。
 プーサンの住む下宿の大家は三人家族、銀行に勤めるそこの一人ムスメがガンコさんこと金森カン子(越路吹雪)である。越路さん、市川崑作品には『結婚行進曲』『足にさわった女』に引き続いての出演で、このとき御年28歳、後年のハデな化粧はもちろんしてなくて、印象はクールビューティーである。転んで頭を打っても「痛くない!」、銀行では同僚からガメツク借金を取りたて、「映画見るよりストリップの方がいいわ!」と嘯き、恋人(黛敏郎!)との結婚を反対されたら自殺未遂しちゃうという、ガンコっていうより偏執狂的なキャラをサラリと好演している。
 「野呂さんといると気分がのんびりするわ!」と言われてプーサン、ぽわーんとなる、つまり彼女がプーサンのマドンナってわけである。もちろんこの恋、成就はしないんだけれど。
 プーサンの職業は、今で言う予備校の数学教師。けれど塾長(加東大介)から
は安く見られていて、夜間に回されるわ給料は減らされるわ、でも要領の悪いプーサンは文句一つ言えない。それどころか、その要領の悪さが祟って、左翼学生・古橋(山本廉)の口車に乗せられてウッカリデモに参加してしまい、あの「血のメーデー事件」に巻き込まれて、予備校をクビになってしまう。
 慌てて少ないコネをたどって再就職に奔走するが、もちろんどこも雇っちゃくれない。なんとか臨時雇いで潜りこんだのは、倉庫での梱包係。送る荷物はなんと銃弾である。もちろんこれは朝鮮戦争で使われるものだ。
 ラストシーン、銀座をあてどなくさ迷うプーサンを再び軍用トラックが撥ねかける。もうプーサンは笑ってはいない。街路には、汚職事件で失脚したのに、自伝を出してベストセラーになった政治家のポスターがズラリと貼られている。

 世相マンガの映画化は、やはり世相映画であった。
 脚本のセリフにも「戦争になるかねえ」とあるが、多用されるニュースフィルムなどを見ていても、1950年ごろの日本人が、どれだけ戦争の恐怖に怯えていたかが伝わってくる。
 当時の様子を語ってもらうために、岸田今日子がゲストに呼ばれて、八木亜希子がインタビューする形で解説をつけているのだが、「警察予備隊」が街中を行進するフィルムを見た八木さんが、「これ、戦前のシーンですか?」と聞いていたのがトンチンカンではあるのだけれども興味深かかった。
 紛れもなく、アレは軍隊なのである。ただそれが戦前のフィルムではなく、間違いなく戦後の風景だということがハッキリ分るのは、沿道の人たちが誰一人として旗を振っていないことだ。みんな、目の前の情景をどう受け取ればいいのか困惑し、苦渋に満ちた顔をしている。さて、現代だと自衛隊の行進に旗を振る人はどれだけ増えているだろうか。
 かと言ってこの映画が右翼批判の映画でないことは、左翼学生・泡田(小泉博)が浅薄な知識をひけらかしているそのウラで、実は伯父の政治家・五津平太(菅井一郎)に取り入っている様子からも見て取れる。イデオロギーは右も左もアヤシイもんだ、ということをこの時代に喝破していた和田夏十・市川崑の洞察力には感服するほかはない。
 原作マンガにあったと思しいギャグもみな殺伐としている。

 派出所に飛びこんでくる拳銃を持った男。「弟を殺して来ました!」と震えながら叫ぶ。応対する警官・甲賀(小林桂樹)は驚く様子もなく、「あ、弟殺しね」と奥に通す。
 ザンバラ髪の女がやってきて、「精神病の息子を殺しました!」。甲賀、また「あ、息子殺しね」と奥にやる。
 薄汚れた子供がやって来て、「ネズミ殺したよ」。目の前にぶら下げられたネズミを見た途端、「ぎゃあ!」と言って卒倒する甲賀。

 警察署への通報が二つ、一つはルンペンの中年男の首吊り、もう一つは若い裸の美女(ガンコさんである)の自殺未遂。署内から一斉に飛び出す警官隊(このあたりはキーストン・コップ調)。全員が美女の方に殺到して、男の方の張り番は、首吊り死体を前に寒空の中、「遅いなあ」と呟いている。

 笑えるかどうかは別として(^^)、「時代」は小さなギャグ一つにも横溢している。
 今、この映画を見る人の中にはその暗さに閉口して、暗澹たる思いにかられてしまう人もいるかもしれない。失職してちょっとおかしくなったプーサンが部屋でキャベツを頭に乗っけて「うへへへへ」と薄ら笑いを浮かべているシーンなどはたしかにゾッとする。けれど当時の庶民の多くに、そんな言い知れぬ不安を感じる気分があったのではないか。
 全く、平和国家ニッポンと言いながら、日本人が戦争の恐怖に怯えないでいられた時間ってのをどれだけの期間、共有できていたというのだろうか。そんなことを考えながら見ていくと、この映画、素晴らしく面白いのである。

 あと、市川崑映画には定番のギャグ、フスマの裾挟み、この時代からやってたのを発見。うーん、面白いんだかなんなんだか。 


 興奮して見てたのに、睡魔が襲ってきて、夕方まで寝る。
 休日は昼寝せよ、と遺伝子が命令しているのであろうか。んなワケないって。


 目覚めてからもCSに齧り付き。
 だからって、見た感想を全部詳しく書いてたら、時間がいくらあっても足りゃしない。このへんでちょっとトバします。
 『エデンの海』。
 山口百恵文芸シリーズ第4弾、でもって三浦友和以外とコンビを組んだ初めての作品でもある。お相手は南条豊だけれど、映画自体、教師と生徒の禁断の恋、と言っても「高校教師」的な妖しいムードはまるでなく、健康的というよりはお子様ランチ的なヤリトリが延々と続いて、今見ると気恥ずかしくなるばかりだ。でも当時はこれでもドキドキしながら見てたんだよなあ。
 興行的に弱いと踏んだのか、山口百恵が初めて水着姿を披露するし、体操服姿でおしっこちびっちゃうなんてサービスサービスなシークエンス(何でや)まである。でもやっぱり山口百恵が演じるには違和感ありまくりの役だ。
 百恵ちゃんにレズ的愛情を寄せるヘンなオバサン役に樹木希林。逆に先生を一人占めされて嫉妬するクラスメートにデビュー当時の浅野温子。冷徹な前のクラス担任教師に岸田森。南条豊に思いを寄せる女教師に紀比呂子。陰険なヘコキ教頭に井上昭文。温厚な校長に伊藤雄之助。役者はみんないいんだけどなあ。
 『日本一のホラ吹き男』。
 植木等主演、「日本一」シリーズの佳作。
 これも何度見たかわかんないなあ。やたらテレビでも再放送されてた気がするけれど、一番調子よく出世しちゃう話だから、人気があるのかも。でも結局はどれも似たり寄ったりだよな。時々『ゴマスリ男』とかと混同しちゃうので、定期的に見返す必要があるんである。
 オリンピックの陸上選手だった植木等、アキレス腱を切っちゃって選手生命を断たれちゃうんだけれど、ご先祖様の巻物を発見して、心機一転、ホラを吹いてうまいこと出世しちゃおう、と太陽電気に就職する。
 この就職するところまではすごく面白いんだよね。大言壮語ばかりするものだから面接にはアッサリ落ちちゃうんだけれど、警備員でなんとか会社に滑りこむ。そこから社長にコネつけて……。そのへんまではまさしく植木等自身の知恵なんだけれど、冷暖房電球の発明は谷啓の手柄だし、ダム建設の入札をするためにワザと自社の情報をリークしてライバル会社を騙すっていう展開は陳腐だ。全体の構成がまとまってるから余りつまらないという印象はないけれど、アイデアが今一つっていう恨みはある。
 ヒロインの浜美枝にはもう少し活躍の場所が欲しかったな。あと、ライバル会社の社長役で、『ウルトラQ』の一ノ谷博士こと江川宇礼雄が出演してることもチェックポイント。


 夜、東京のこうたろう君から電話。
 上京についての用件だったのだが、気がついたら最近見た映画の話ばかりしている自分に気がつく。「八千草薫はいいぞ!」って、なにを今更。映画を語るにしてももう少し落ち付いたらどうか。(2003.3.11)

2002年02月11日(月) うまいぞもやしマヨネーズ/『ONE PIECE ワンピース』22巻(尾田栄一郎)
2001年02月11日(日) 水の中の失楽/アニメ『も〜っとおじゃ魔女どれみ』1・2話ほか


2003年02月10日(月) 夢見が悪い日ってあるよね/映画『金髪の草原』/『うさぎとくらたまのホストクラブなび』(中村うさぎ・倉田真由美)ほか

 久しぶりに夢の話である。
 しょっちゅう見てるとは思うんだが、朝、目覚めたときにはもうたいてい忘れてるものでね。
 以前、私の職場の同僚で、セクハラが理由で辞職した人がいた。
 と言ってもそんなに珍しいことでもなく、私の知る限りでもソレで問題を起こした人間がこの10年ちょっとの間に5人もいた。私の知らぬところも含めるなら、もっと数が多いことであろう。全く、どうしてウチの職場、そんなに女に飢えてるやつばかりいるのだ。……てなことを真っ正直に書いちゃうから、私は職業が明かせぬのである。もし社名をバラしちゃったら、四月から新しく入って来る女性の数が減っちゃうじゃん(^o^)。
 さて、そのセクハラ同僚であるが、私が出勤してみたら、なんと復職してニコヤカに声をかけてきたのである。
 「あれ? 退職されたんじゃなかったんですか?」
 「それがこのたびの恩赦で復帰できることになりまして」
 恩赦ってなんの恩赦だ。それに問題にはなったが別に逮捕されてたわけではない。このへんがやっぱり夢である。
 その同僚、実に明るい顔で「これであと三回まではおサワりセーフですよ!」と鼻息荒く断言する。どうも法律で一回罪を償ったものはその代償に三回までは悪いことをしてもいいことになったらしい。けれどいったいどういう理屈なんだかよくわからない。
 「さあ、有久さんも一緒におサワりしましょう!」
 するか! もう2年近くも会ってない元同僚がいきなり夢に出て来たというのもワケが分らないが、なんでおサワりの仲間に誘われなきゃならんのかもサッパリわからん。そんな願望でもあるのかと心配になるなあ(ーー;)。
 

 朝、車で職場まで送ってくれたかと思ったら、夕方は寝過ごして迎えに来ないことが殆どのしげだけれど、今日は珍しく寝過ごさずにしげ迎えに来る。
 正直に「珍しいね」と言ったら、しげ、急に怒り出す。
 「悪かったわね、フン!」てな感じだ。誉めてんのになあ。
 頼んでおいた洗濯ものを干したかどうか聞いたら、「アンタが干す番やん!」とまた怒り出す。「おまえだよ!」「あんた!」「おまえ!」「あんた!」。
 これがケツにつくのがエクスクラメーションマークじゃなくてハートマークだったらラブラブバカップルなのだが、毎回これではただのバカップルである。
 しかししげもこう毎回機嫌が悪くしてて疲れやしないだろうか。


 CS日本映画専門チャンネルで『金髪の草原』を見る。
 大島弓子の原作を犬童一心が脚本化、監督も務める。
 記憶を失い、自分を20歳の青年だと思いこんだ70歳の老人・日暮里歩は、ホームヘルパーの古代なりすを憧れのマドンナだと思いこむ。
 原作マンガがそうであったように、日暮里老人は自らの意識そのままに青年の姿で現れるのだが(演じるは伊勢谷友介)、少女マンガの手法をそのまま実写映画に持ちこむことには違和感を覚える。かと言って、これをホンモノの老人に演じさせてしまっては大島原作を使う意味はないわけで、結局、マンガの実写映画化は難しいよなあ、というありきたりな結論を導き出して嘆息するばかりである。
 伊勢谷友介、熱演で老人っぽく見えるところもあるのだが、やはりヒョイと若者らしさがチラホラと見え隠れしてしまうのが痛い。
 なりすを演じた池脇千鶴という女優さんは、東芝のCMで普段着の演技ができる人だなあ、と感心していたが、この映画でもいい意味で芝居臭さのない、少女らしさを好演している。私が若いころなら絶対に入れこんでるところだ(^^*)。
 しかし、基本的には地味な女優さんで、大島マンガにおける「マドンナ」のイメージとはかけ離れている。でも、大島マンガの女性はみな、設定自体は実に生々しいのだが、その正体は「妖精」なんである。妖精を演じられる女優さんなんてそうそういるものではないから、これは仕方のないところか。
 実写じゃなくてアニメにしていたら、ともちょっと思ったが、これもアニメーターに実力がないと、『綿の国星』アニメ版のような、なんだかなあ、なシロモノになってしまうだろう。名倉靖博あたりなら、きちんとアニメ化してくれそうな気はするがなあ。
 大島弓子の映画化作品は多く、萩尾望都や竹宮恵子の映画化作品に比べればはるかに完成度の高いものが多いのだが、それでも「傑作」、とは呼びにくいのは、やはり大島弓子のキャラクターが一旦、マンガというフィルターを通して生身の人間が濾過されているからだろう。それをもう一度生身に戻しても、まずセリフがキャラクターに乗らないのである。
 原作にはなかったと思うが、日暮里老人を訪ねたかつての旧友・神崎(加藤武)とのやりとりで、「エノケンの映画をよく見にいったよなあ」「行った行った」「でもおまえはすぐシミキンのファンになってな」「し……しみ?」とあったのはなかなか凝っていた。
 シミキンが台頭してきたころ、戦争が始まる以前には、もう日暮里老人の記憶は失われていたのである。それを聞いた加藤武の、静かに受けるだけの演技は絶品である。日暮里の知らぬ戦争で神崎は片腕を失っているのだから。
 こういうところに映画の白眉を見るのはやや意地の悪い見方だとは思うけれど、このシーンを見るだけでもこの映画を見る価値はあると思う。


 日本映画専門チャンネルで続けて、黒澤明監督作品『悪い奴ほどよく眠る』。これも随分前に見たっきりで久しぶりに見たが、以前は地味で長ったらしい印象だったものが、全く逆にサスペンスフルにハラハラドキドキ、画面から目が離せなくなっていたのには驚いた。なにしろ2時間半の長尺をまるで退屈に感じないのだから凄いことである。
 ストーリーは逆に一本調子だなあ、と思うようになった。説明的なセリフが多いのもテンポを阻害していて気になるところだ。
 汚職事件の責を取らされて自殺に追い込まれた父親の復讐を誓った西幸一(三船敏郎)の計画自体、今見るとかなり杜撰である。汚職の中心人物の一人・岩淵副総裁(森雅之)の娘婿になりおおせたまではいいのだが、復讐の相手を脅かすのに夢中になりすぎて、あちこちでボロを出してしまっている。幽霊騒動まで起こすのはちょっとリアリティに欠けるだろう。
 特に薄幸な跛の妻・佳子(香川京子)を愛するあまり、かえって抱くことができない、というのは最大の失敗だったろう。そのことが結果的には西自身の身の破滅を招くことになるのだが、復讐者の人間的な優しさが自縛の紐となる展開は、この映画が制作された昭和35(1960)年当時においてもいささか古臭過ぎはしなかったか。
 当時、政府筋から汚職事件を扱うことについて「圧力」があったとも聞くから、そのような結末のツメの甘さは、黒澤監督の妥協の産物なのかもしれないが。
 いささかステロタイプになってしまったとは言え、登場人物たちのキャラクターとしての存在感にはやはり眼を見張る。
 誰かが指摘していたことだが、この『悪い奴ほどよく眠る』は、黒澤版『ハムレット』であると。
 なるほど、復讐鬼・西幸一はまさしくハムレットである。佳子もオフィーリアも、愛する人の愛を受けられぬまま狂気に陥ってしまう。佳子の兄・辰夫(三橋達也)はレイアティーズであり、岩淵はもちろんクローディアス王だ。ああ、幽霊騒動が起きるところも似てるか(^o^)。
 しかし『ハムレット』と違うのは、復讐の相手であるクローディアスに当たる岩淵は、死ぬことなく、ラストでゆっくりと深く、安眠するのである。その分、観客の感じる悪辣さはクローディアスの比ではない。『白痴』で絶対的な善人を演じたのと真逆の日本人的「悪」の象徴を森雅之は見事に演じきっていると言えるだろう。
 ほかにも、お人好しが災いして、岩淵たちの罪を背負わされて自殺させられそうになったのを西に助けられ、同じく復讐を誓うも、どこか頼りなげな和田課長補佐を演じた藤原釜足、小心ゆえにただただ怯えながら自滅して行く白山課長の西村晃、冷酷な殺し屋がこのころは似合っていたデビューしたばかりの田中邦衛など、ワキ役、チョイ役にも見所が多い。
 ちなみに、西幸一のテーマソングは、一時期、私自身のテーマソングであった(^o^)。映画館を出て、今見た映画のテーマソングを口笛で吹くようであれば、その映画は名作と言えるのではないか。
 未見の方は、ぜひ。
 

 晩飯は久しぶりにカレー。
 実は前に買っておいたカレールウがまだ余っていて、そろそろ作っとかないと賞味期限がヤバそうだったのだ。
 こないだ作った時には人参を入れ忘れていたので、今日はちゃんとそれもスーパーで買った。肉は安い豚肉のブロックを角切りしてたっぷりと。普通のカレーの軽く三倍はぶちこんでいるだろう。それだけ作っていても、しげに食わせた途端にあっという間に消えてなくなってしまう。
 しげに「カレー食うか?」と聞いたら、「ケンカしとうけん、いらん」とむくれていたが、実際に皿についで「ホレ食え」と言ったらペロリと食った。しげが怒りよりも食欲を優先することなど、先刻ご承知なのである。

 しげ、職場での飲み会があるとかで、夜中に出かける。
 「いつ帰るん?」
 「わからん」
 ということは「朝まで帰らん」という意味だな(^_^;)。
 しげは最近、こんな職場の付き合いが多くなったけれど、10年前、バイトすることすら怖くてなかなかできなかったころに比べると、随分社交的になったものだ。もっとも職場での話を聞くと、トンチンカンなことをしては笑われているようで、付き合い上手になったというわけでもないらしい。
 なんにせよ、バカやってもそれが人に笑われながら受け入れられるということはメデタイことである。マジメな人間ほどバカを排除するからなあ。
 「人をバカにするな」と怒る人間は、実はバカを差別して迫害する種類の人間なのだよ。自分は正しいと思ってる人は無意識のうちに他人を差別してること多いから、気を付けようね。


 中村うさぎ・倉田真由美『うさぎとくらたまのホストクラブなび』(角川書店・1575円)。
 女性がソ○○○○ドに全く縁がないごとく(客として行く、という意味ですよ)、ホストクラブもまた男には全く縁がない。しかも男の場合、客としてでなくても縁がないヤカラが殆どではないか(^o^)。
 で、一応の、興味を、持って、読んで、見た・の、だ・が……。
 ホストには外見は関係なくなれる。という笑劇……否、衝撃の事実であった。そういうのって、女の場合だけだと思ってたのになあ。
 ソ○プだとさ、よく聞く話だけれど、「MEGUMI並の巨乳でっせ」と言われて喜んで指名したら、出て来たのがウシだったとかトドだったとかスカイドンだったとか(^o^)言うじゃないのよ。それでも「とりあえず損だしなあ」とスカイドンをせめてガヴァドンだと錯覚させてナントカするのが男の悲しいサガなんだけれど、ホストクラブの男どもがみんなパパイヤ鈴木とかドラえもんとかだったら店がつぶれないか。体重でではなく。
 でもホントにこのお二人、取材の最中、ブサイクやデブに当たりっぱなしである。もしかして某脂身三兄弟でもなんとかなってしまうのではないか(^o^)。
 いや、これが冗談ではなくナントカなってしまうかもしれないのだ。くらたまさんは博多出身だから、当然博多の取材もある。その博多の『サーカス』という店、ホストの三分の一がオヤジらしい。くらたまさんはそこのオヤジとジルバを踊ったそうな。
 オヤジでジルバ! 強力である。オマケの方が豪勢なタイムスリップグリコのようだ。仮に私がオヤジホストになるとしたら、いったい何がオマケとしてつくだろうか? 歌も踊りも、楽器も全部ダメだしなあ。オタ話。これってセールスポイントにはならないよなあ。
 いやいや、「オヤジ」という一見マイナス要因に見えるものですら、売りようによっては渋い魅力ということで商売として成り立ってしまうのである。世の中何が当たるかわからない。ましてや「オタ話ホストクラブ」なんて、全国でもどこにもない。脂身三兄弟と組んで作ったら、結構、隠れオタク女が集まってきたりしないだろうか。語るセリフは全てアニメ・特撮の名セリフか、そのアレンジにする。
 どうです、そこのお嬢さん、めくるめくオタクの世界に、今宵一夜、貴女を誘ってさしあげましょうか。
 ▽~ヽ(・_・)ノ~▼チャ △_(。_。)_▲チャ ▽~ヽ(^-^)ノ~▼チャ!
 ……すみません。今朝の夢見が悪かったせいか、妄想が私の体を離れてアンバランスゾーンに入ってしまってます。今までの十数行の内容は、全て忘れて下さい。m(__;)m(2003.3.10)

2002年02月10日(日) 男が女に暴力を振るうワケ/『仮面ライダー龍騎』第02話「巨大クモ逆襲」/アニメ『サイボーグ009』第17話「決戦」ほか
2001年02月10日(土) 「html」って、はいぱあ・てくのろじい・まきしまむ・ろぽ……じゃないよな/映画『狗神』ほか


2003年02月09日(日) 見た、読んだ、食った、太った(^_^;)/映画『今宵ひと夜を』/『仮面ライダーSPIRITS』4巻(石ノ森章太郎・村枝賢一)ほか

 またもや寝過ごして、日曜の朝のアニメその他の番組を見られなかった。
 仕方なく(と言うのもヘンだが)、CS日本映画専門チャンネル(長いなあ、省略した呼び方はないものか)『今宵ひと夜を』を見る。
 昭和28(1953)年度の芸術祭参加作品、とタイトル前にクレジットが出る。記録を見ると実際の公開は翌年の2月なので、あわよくば「受賞作」という振れこみで上映したかったのが、受賞を逸しちゃったんでしょうがなく「参加作品」ということだけで売ったものか。
 原作は広津和郎の『入江の町』で、昭和24(1949)年に小津安二郎が同じ広津和郎の『父と娘』を原作として、名作『晩春』を撮っているから、その顰に倣ったものか。ただ、もともと広津和郎の小説は「心境小説」と呼ばれるくらいに登場人物の内面描写に拘っているものが多く、ハッキリ言っちゃえば相当辛気臭いのである。小津安二郎も『父と娘』を「映画」にするために随分脚色をしたようだ(原作は随分前に全集か何かで読んだ記憶があるが中身は全く覚えてないのでこんな印象しか書けません)。だいたい、娘がファザコンでなかなか結婚しないってだけの話だし。逆に言えばたったこれだけの物語を見事に「映画」にしてしまった小津の天才が光っていると言えるのである。
 で、驚いたのがこの『今宵ひと夜を』で、監督の千葉泰樹、まるでミニ小津とでも言いたいくらいに小津演出を踏襲……と言えば聞こえはいいが、ハッキリ言ってほとんど模倣じゃないかと言いたくなるほどによく似た画面造りをしているんである。つまり、ローアングルなカットとか、人物の真正面からの切り替えしとか(^_^;)。でもそんなことしてちゃ、受賞はちょっと難しいよねえ。
 しかも主演のお美代を演じている三浦光子、宿屋の飯盛り女中役なんだけれど、ほとんど演技が蓮っ葉な芸者って感じで(当時の田舎の女中にはそんなのが多かったのかもしれないけれど)、芝居の深みで見せるって感じになっていない。真正面からこれを見せられ続けるのはちょっとキツイぞ。
 それでもドラマとしては『晩春』よりこの『今宵』の方が随分複雑である。複雑と言っても、今の目で見るならやはり随分あっさりしているのだが。『入江の町』という原作は全く知らなかったが(Google検索してもヒットしない。どうやったら読めるのだ)、「寿屋」という宿屋の女中三人を主役に、それぞれの幸せを求める様を、ある者は叶えられ、ある者は裏切られ、という形で描く。彼女たちの求める「幸せ」が、結局は「男にこの境遇から連れ出してもらうこと」であるのは時代かそれとも田舎町に対する揶揄なのか。
 お美代(三浦光子)は、惚れっぽい性格から、何度も男に裏切られている。今度も小泉(中村伸郎)という男にくっついて、この町を出て行ったのだが、案の定、男には本妻がいて(中村伸郎を見れば、ひと目でこいつは信用できないと分りそうなものだ……ってムリか)、傷心のうちに町に戻ってくる。ところがそこで宿の息子・清一(中山昭二!)にまた惚れるのだが、自分みたいな汚れた女が、と思いを口に出すことができない。
 まだ女中を始めたばかりのお春(八千草薫)も、清一に憧れている一人だが、酔客に絡まれて逃げ出したところを清一にかくまわれ、そこで関係を持ってしまう。てっきり思いが叶ったものと喜ぶお春だが、清一はまだ学生の身、結婚などは思いも寄らない。お春との関係は、大学休みの間だけのただのアバンチュールだったのだ。休みが終わればお春のことなどうち捨てて、さっさと大学に戻ってしまう。
 唯一幸せになれたのがおしま(東郷晴子)。ドサ回りにやってきた歌舞伎役者の市村右左衛門(モデルは市村羽左衛門だろうね。でも演じているのは澤村国太郎)と同じ満州帰りということで意気投合して、「迎えに来るから」という彼の言葉を信じて、ただひたすら待つ。そして本当に右左衛門はおしまを迎えにやって来るのだ。
 三本立てのドラマを一気に見られるのが売り、というところだろうか。でもちょっと定番過ぎて、印象は今一つである。だもので、興味はどうしても細部に行く。
 右左衛門を演じる澤村国太郎は、もちろん、長門裕之・津川雅彦のご父君である。お顔がちょうどこの息子二人を足して2で割ったようなのが面白い。
 右左衛門は、東京でもかなり有名な役者であるらしいのに、戦後すぐのこととて、地方回りでもしないことには食って行けない。田舎町の方でも、別に歌舞伎役者だからと言って、崇め奉るような雰囲気はない。「東京の歌舞伎もなかなかやるじゃない」なんて言われている。今時は歌舞伎役者をステイタスのように語る人って多いけど、戦後20年くらいまでは、こんな感覚の方が普通だったんじゃないか(私見だけれど、歌舞伎役者がなにかスバラシイもののようにイメージされだしたのは、NHK大河ドラマ『源義経』(1966)で、尾上菊五郎が義経を演じたころからではなかったか。菊五郎が静御前役の藤純子と本当に結婚してしまって、当時は随分話題になったものだ)。
 この右左衛門が寿屋で口上を述べているときに、廊下からその様子を宿の主人の女房であるお浜が覗いているカットがある。これ、物語としては何かの伏線になっているというわけでもなく、全く意味がないのだが、実はお浜を演じているのが澤村貞子(NHKの朝ドラ『おていちゃん』のモデル……って、これも若い人は知らない)。国太郎の妹なんである。二人が絡むシーンがほとんどないので、これはまあ、楽屋落ち的なお遊びですね。弟の加東大介も出てればもっと面白くなったろうなあ(^o^)。
 それにしてもこのころの八千草薫の美しさは目を見張るほどだ。前半はもうただのオボコ娘って感じでアカンベーなんかしてるんだが、段々艶っぽくなっていくんだよなあ、これが。女は男で変わるって表現? あるいは、結局、女は不幸だってことが言いたいのかな? でも、そういう旧弊なところがこの映画の古臭いところなんだけどね。
 この「女は不幸」パターンのドラマが昔はどれだけ作られてきたかってこと、現代では解りにくくなってるけれど、そう考えると、ここ20年ほどの社会情勢の変化がどれだけ激しかったかってことを実感しちゃうんだね。
 チョイ役で平田昭彦、堺左千夫、清水元、柳谷寛など、東宝特撮でお馴染みの面々も出演。平田昭彦の演じているのが思想犯らしいのが時代か。


 しげはいつものように練習に出かけているので、昼は、ピザカリフォルニアでキムチ丼を頼む。
 たいして用事もないのに休日に外に出るのも億劫だし、美味いのでついつい頼んでしまうのだが、1500円以上頼まないと届けてくれないので、ついでにチキンだのアイスクリームだのジュースだのを一緒に頼まなきゃならないのでおカネはかかるのである。それに体重が減らないのもこれじゃ当たり前だ。
 ……って、久しぶりに体重計に乗ったら83キロまで体重が戻ってたんだよん。ヤバいってこれ(ーー;)。
 やはり仕事帰りにスーパーに寄って食材を買い込んでおくのが安上がりだし、栄養コントロールもできるのだが、先週はしげの時間がないということでそれができなかった。
 昼間の買い物ができればなあ、外食も控えられるんだけれど、今の状況じゃ当分は無理だなあ。ウチの職場が閑古鳥が鳴くくらいにヒマになれば昼休みに外出して買い物ぐらいできるかもしれないが、その時には給料自体が出なくなっているであろう(^o^)。……シャレにならんわ。


 マンガ、冨樫義博『HUNTER×HUNTER ハンターハンター』16巻(集英社/ジャンプコミックス・410円)。
 前巻あたりまではまた壊れかけてたんじゃないかって印象だったけれど、少し持ち直して来たかなあ。アニメの打ち切りが随分腹立たしかったようだから、それで切れかけてたつてのはあったのかな。……というような裏事情を読者に想像させるより、マンガを面白くしてほしいと思ってるファンも多いんじゃなかろうか。
 つまりはようやくゴンの父のシンの影が見えてきて、寄り道してるだけに見えていたグリードアイランド編が、重要な意味を持つんじゃないかって感じになって来たのがいい方向に進みそうな気配なんである。
 この作品が『幽遊白書』と似たような構造を持ちながらもなんとか破綻せずにすんでるのは、やっぱりゴンのキャラクターがジャンプマンガの伝統に則って、ただひたすら「真っ直ぐ」だからだと思うのだ。おそらく、『幽遊』の時みたいに、「幽助は実は魔族だった」なんて、思いっきり階段からコケ落ちるような展開にだけはならないだろう。
 ビスケとヒソカの「腹の探り合い」も、疑心暗鬼で病的な印象の方が強かった『レベルE』のときよりは随分「建設的」になっている。このままの調子で横道に逸れないでいてくれたら嬉しいんだけど、ヒソカの○○○○の描写とか、冨樫さんがまだまだアンバランスな精神状態でマンガ描いてるらしい様子はチラホラと見えるのである。
 次巻がどうなるか分らない、というハラハラ感だけはあるか(^_^;)。


 マンガ、石ノ森章太郎原作・村枝賢一漫画『仮面ライダーSPIRITS』4巻(講談社/マガジンZKC・580円)。
 ついに「ゼクロス編」に突入。ファンなら先刻ご承知、早瀬マサト氏による解説にもあるけれど、テレビシリーズとしての『仮面ライダーZX(ゼクロス)』という作品は存在しない。そのあたりの事情は解説を読んでいただくとして、もしこれがテレビシリーズとして作られていたら、当然このマンガも描かれることはなかったわけで、そう考えると「ゼクロス」が幻の作品となってしまったのは、必ずしも悲しむべきことではなかったかも知れない。
 なにより「暗闇大使」の圧倒的な迫力!
 故・潮健児さんも、もしこのマンガを読めば「俺がもっとやりたかった!」と悔しがるんじゃないかってくらいに悪辣でブキミである。1〜3巻まで面白く読んでいながら、もうひと味がほしいな、と思っていたのが「敵の大幹部」だったのだね。さあ、果たして「地獄大使」と「暗闇大使」の関係はこれから先どう描かれるのか。本当にこの二人は「イトコ」なのか(^o^)。


 夜、CS日本映画専門チャンネルで黒澤明監督の『わが青春に悔いなし』を見る。ニュープリントでの放送、というので、ふと、DVDとの比較がしたくなって、DVDをかけながらチャンネルを切り替えてみるということをやってみる。
 結論を言うと、画質はDVDの方が圧倒的によい。
 テレビの方では、大河内伝次郎の洋服がベタッとつぶれて影になっているところが、DVDだと布地の目までハッキリと見える。何より、DVDはフィルムのキズや汚れを極力除去している。これくらいのことをしてくれれば、DVDを買っただけの甲斐はあるというものだ。


 他にも本読んだり、DVD見返したりとかしてたんだけど、量が膨大になるので省略。だから書くこと多すぎるんだってば(自業自得)。

2002年02月09日(土) ほーりつも人が作るもの/映画『まあだだよ』/『仄暗い水の底から』(鈴木光司・MEIMU)ほか
2001年02月09日(金) お姫様を探せ!/アニメ『タッチ・CROSS ROAD 風のゆくえ』ほか



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藤原敬之(ふじわら・けいし)