無責任賛歌
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| 2003年01月06日(月) |
食えないモノを食う話/『名探偵コナン 揺れる警視庁1200万人の人質』/『ジャイアントロボ誕生編』(伊達憲星・冨士原昌幸)ほか |
体調、昨日よりさらに悪化。 仕事しててもヘロヘロなので、有休を取って帰宅する。 毎年ね、「今年こそはバッチリ仕事するぞ」とか考えるんだけどね、気合を入れた途端に風邪引いたりすること多くてさあ。しかも、熱がほとんど出ないもんだから、長引くことったら。 悪い咳が出てるしなあ、今回もチト苦しめられそうな。 せっかく昼どきに帰ってきたのだから、しげと食事を一緒にしようかと思ったら、「先約があるから」と断られる。てっきり鴉丸さんあたりとの約束かと思って「誰と?」と聞いてみたら、「ゴロちゃん(=円谷君)」と言う。 「珍しいな。なんでまた?」 「餃子食いに行くんよ」 「餃子ッて……どこの?」 「あの○○○の○○○○○○の○○の店」 「……あのクソマズの!?」 なにしろ、中の具が全く煮えてなくて半生、皮もベタベタネトネトと脱脂粉乳の皮膜で作ったよう、ゲロマズ、腐ってる、臭い、吐きそう、サイテー、エンガチョ、人間の食いもんじゃねー、どんな言葉を使っても譬えられないほどにマズい餃子で、最初に食ったのはもう何年前か、二度と食いたくないと二人して語り合ったものだったが、それをどうして今更。 「昨日の練習のときにゴロちゃんにその餃子の話したら『食べてみたい』って言うから」 「で、今日食べに行くって約束したん?」 「そう」 「円谷君は、ばかか?」 もちろん、バカなのであろう。 でも、本人が「食いたい」と所望しているものを、わざわざ止めるというのも余計なお世話であろう。まかり間違って、「味がよくなってる」可能性だって、ないとは言えないではないか。 そうしげに伝えたら、「そうなんよ、もし美味しくなってたらどうしようか」 ……そんなに不味い餃子を食わせたいんかい。もしかしてしげ、内心円谷君を嫌ってないか。 なんとなく展開が不安になったので、一緒に付いて行こうかと思ったが、立ち眩みがしたので中止。家でしげの報告を待つことにする。
数時間後、帰宅したしげに顛末を聞いて見る。 「どうだった? 味は」 「あ? 不味かったよ」 「円谷君の反応は?」 「一口目はね、『こんなもんですか?』とか言ってたんだけど、二口目で『しげさんの言う気持ち、分りました』って」 やっぱりわざわざ自分のバカを確認しに行ったようなものである。 これほどにマズいものを売ってる店がよく潰れずに残ってるなあ、とは私も疑問に思わないではない。全部食い切れずに吐いて残す客だって相当いるんじゃないかと思う。 けれどこの店、意外や意外、以前某マンガで「博多の美味い店」として紹介されているのだ。「なんだ、実は美味くって、アンタの舌がおかしいだけじゃないの?」と突っ込まれそうだが、マンガを読む限り、その作者が食べたのはラーメンだけで餃子は食べていないのだ(ラーメンは普通のとんこつ味である。私は嫌いだが、これは好みだろう)。 とにもかくにも、そういう「お墨付き」の与えられた店に対して文句をつけるのには、お客さんたちも抵抗があるのだろう。私だって毒盛られたわけじゃなきゃ黙ってるよ。 味覚は主観に左右されることが多いから、「ホントにそこまでヒドイの?」と仰る向きもあろうが、今のところ、「マズいけど食う?」と忠告したにもかかわらず果敢に挑戦し、「美味かった」はおろか「それほどでもないんじゃない?」と言った人間はただの一人も存在しない。 それでも「食べてみたい」と仰る奇特な方には場所を教えるに吝かではないので、メールでも下さいな。ただしあとの責任は一切負わないし、「やっぱりマズかったやんけ!」なんて言われても、「アホ」のひとことしか返しません。
しげ、それから職場の飲み会があるというので誘われて出かけて行ったが、そのまま朝まで帰ってこない。飲み出したらとまらねえもんな、あいつ。 通常、こういう場合、夫は妻の浮気なんかを心配するもののようにも思うが、そんな気に全くなれないのはなぜなんだろう。やっぱりそれだけ妻を信頼しているからなのだな(^o^)。
テレビで『名探偵コナンスペシャル 揺れる警視庁1200万人の人質』。 佐藤刑事&高木刑事のラブラブ編&連続爆破犯を10年に渡って追い続ける話。 原作付きだけれど、冒頭に「萩原」って刑事が殉職する話を追加。萩原が死んで松田が死んでって……まあ、元ネタは明らかだけれど、カッコつけてるだけで内面のないキャラがいくら死んだって、訴えるものはなにもない。回数が増えた分、くどい印象しか与えない。萩原も松田も、爆弾解体作業中に何をムダ話してやがるかコイツって感じだしなあ。 犯人の「仕掛け」は、爆弾の爆破3秒前に、次の爆破予定地が表示される、というもの。 爆弾の仕掛けられた観覧車に閉じ込められた松田刑事、それを読むまでは爆弾を解体できず、読んで佐藤刑事の携帯に場所を送信している間に3秒は過ぎ、爆死……ってんだけど、まあ、10年も前に携帯が普及してたのかってツッコミは置いといても、爆弾止めてから場所を送信すればいいじゃん? と考えたのは私一人じゃないはず。松田刑事、サルか……と思ってたら、あとでコナンが全くその通りのことをして爆破を回避しちゃうんだものなあ。これじゃ松田刑事、無駄死にどころかただの「バカ死に」である。 今回の事件では、コナンと高木刑事がタワーのエレベーターに閉じ込められるのだけれど、犯人、以前は素直に次回の爆破予告地を教えてたのに、なぜかそれを暗号化。犯人がよりイジワルになっているってことなのかもしれないが、だったらいっそのことウソの予告をすりゃイイんじゃないかね。この犯人、妙なところで正直である。 このときの暗号、原作読んだときにも思ったが、ただのコジツケで暗号なんて言えた代物ではない。“detective(探偵)”をひっくり返して“evit……”で「帝丹高校」を示すってねえ……。いや、話の流れから帝丹高校が狙われてるってのはバレバレだから、その分、暗号のコジツケ具合が目立って興を削がれることおびただしい。
でも、そういう細かいところはまだまだマシなところで、一番情けないのが、犯人の動機に関する描写の中途半端さなんだよなあ。 もともと犯人はただの金目的、動機に同情の余地は一切なかったんだけれど、途中、仲間が警察のダマし打ちで死んだと錯覚して、警察への復讐がメインになってくる。こうなると盗人にも三分の理じゃないが、視聴者の犯人への同情だって少しは生まれてくる。少なくとも、犯人の誤解は解かないとって展開は当然期待されるのだが、これが全くない。 いったいなんのためのネタ振り? と思ってたら、ラスト近くで、松田刑事の復讐の念に駆られた佐藤刑事が思わず犯人を射殺しようとしたのを、高木刑事が止めたときのセリフにそのワケがあったのだね。 「何やってるんですか、佐藤さん。いつも、佐藤さんが言ってるでしょ。誇りと使命感を持って、国家と国民に奉仕し、恐れや憎しみに囚われずにいかなる場合も人権を尊重して公正に警察職務を執行しろって、そう言ってたじゃないですか。そんなんじゃ、松田刑事に怒られちゃいますよ」 つまり「犯人の人権」を尊重しろ、と言いたいわけだ。けれど、リクツではそうでも、描かれる犯人に同情の余地が全くなければ、「なんでこんなやつの人権まで保障してやらなきゃならんのだ」と、いう感情はどうしたって動く。マンガはリクツじゃないんだからさ。そのために「盗人に三分の理」を与えたってワケだ。姑息だねえ。 「こんなやつのために松田君が!」って佐藤刑事の怒りも、犯人の「警察めハメやがったな」も、どちらも両立させようとするからこんな中途半端な描写になる。ミステリという現実の世界に根差したドラマを作ろうってんなら、たとえ子供向けアニメでも、いや、子供向けアニメだからこそ、こういう「正義とは何か?」「罪とは何か?」って命題を適当に扱っちゃマズイでしょ。 「なんで佐藤刑事、犯人を撃たなかったの?」 「どんなに悪い人でも、勝手に殺しちゃいけないんだよ。ちゃんと裁判にかけないと」 「かけたら死刑になるの?」 「なるときもあるし、ならないときもあるね」 「ならなかったら、あの犯人、また同じような事件起こさない?」 「どうかなあ、反省してもうしないんじゃないかなあ」 「……ふーん」 もちろんこの子、は犯人が反省なんてしないだろう、と思っている。でもそれを口に出しはしない。「これ以上、オトナと会話したって意味ない」と悟ってるからである。キャラ萌えのミーハーな客と違ってさ、子供はバカじゃないんだからね(バカなのもいるが)。 子供向けアニメだからこそ、理想を語るのならもうちょっと強い基盤を持ったドラマを作ってほしいんである。『コナン』の諸作がつまらないのは、結局は作り手のオトナの根性が座ってないからにほかならない。
『コミック1971』vol.2(週刊アサヒ芸能増刊1月24日号/徳間書店・390円)。 1970年から数えて1年ごとに、その年の代表マンガを再録していくシリーズの第2弾。昭和で言えば46年、私は小学三年生で8歳だった。 今回の巻頭を飾るのは、石森章太郎『仮面ライダー』の第1話。カラー原稿が4ページ分復刻されているが、本来は16ページであった。どうせなら全ページカラー復刻してほしかったけれど、そうすると390円って値段が維持できないんだろうなあ。 当時の記憶をよみがえらせてみると、石森さんの描線が随分「ザツ」になってしまったことにショックを受けたものだった。もちろんこの後もっともっとザツになっていくのだが、マンガ家としての石森章太郎の頂点はこの前年、昭和45(1970)年だったのだなあ、と今にして思う。作品の完成度、という意味で考えれば、『リュウの道』が最高傑作、ということになるか(『家畜人ヤプー』という説も(^o^))。 それでも原作版『仮面ライダー』はテレビ版よりも圧倒的に面白い。結果的に未完(?)の形で終わってしまったが、二人のライダーにはもっともっと孤独な闘いを続けてほしかったと思う。
他の収録作のうち、注目すべきはあすなひろしの『寒いから早く殺して』や安部慎一の『背中』など。どちらも青年誌に発表されたもので、小学生だった私はリアルタイムで読んではいない。今や入手困難な二人の珠玉の作品が雑誌形式であれ読めるのは喜ばしい。 永井豪の『くずれる』は『少年マガジン』で読んだ。ラストが怖くて、当時は二度読み返せなかった。
1971年。 当時の社会の出来事を年譜で辿ってみても、覚えているのは「左卜全死去」「大鵬引退」「大久保清の逮捕」「イタイイタイ病」「円、変動相場制へ」「黒澤明自殺未遂」ぐらいのものか。でもそういった社会的な「事件」は小学生にとってほとんど対岸の火事だった。左さんの死去と大鵬の引退は悲しかったが。 ともかくこのころ、私にとっての「世界」は全てテレビの中にあった。 ドラマでは『宇宙猿人ゴリ』『天下御免』『おれは男だ!』『なんたって18歳』『大忠臣蔵』『繭子ひとり』『帰ってきたウルトラマン』『仮面ライダー』『好き!好き!!魔女先生』『美しきチャレンジャー』『ぼてじゃこ物語』『つくし誰の子』『刑事くん』『浮世絵・女ねずみ小僧』『シルバー仮面』『ミラーマン』(最後の2本は裏番組どうしで、チャンネル変えまくって見た)。このへんは全部見ていたし、アニメはもっと言わずもがな。 『カバトット』『アンデルセン物語』『さすらいの太陽』『新オバケのQ太郎』『天才バカボン』『ふしぎなメルモ』『さるとびエッちゃん』『国松さまのお通りだい』『アパッチ野球軍』『ゲゲゲの鬼太郎(新)』『スカイヤーズ5』『ルパン三世』『原始少年リュウ』、これでは外で遊ぶヒマなんて全くなかったのは当たり前だ(^_^;)。 昭和ガメラシリーズの最終作、『ガメラ対深海怪獣ジグラ』を“日活の映画館”で見たのもこの年(経営悪化していた大映は、最後には日活と合併していたのである)。大映倒産のニュースは学校の帰り道で友達から聞いた。「来年からもうガメラが見られない……」この年最大のショックな出来事だったかもしれない。 ほかに劇場まで見にいった映画は、『キングコング対ゴジラ』『どうぶつ宝島』『アリババと40匹の盗賊』『ゴジラ対ヘドラ』(教室で「水銀コバルト……と歌って、いやがられたなあ)『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 三大怪獣地上最大の決戦』(ラドンがタイトルにいないじゃん、と怒っていた)。小学三年生だから、一般映画なんか見ない。 けれど、『どうぶつ宝島』から『アリババ』に移行した途端、東映動画の脚本も作画もガクンと下がったのはガキの目にもハッキリ分った。「セル枚数使ってないじゃん!」とか考えてたんだから、8歳のクセに生意気なガキではあった。 後にわかったことだが、この間に宮崎駿を始め、東映動画のベテランがごっそりと退社してたのである。
もう、30年以上も昔だ。しげもこの世に陰も形もなかったころ。 ドラマのタイトルを眺めていると、あのころの感覚が、今でも自分の中に残っていることに我ながら驚きを覚える。オトナの目からは生意気に映ってたかもしれないが、本人は素直にいいものはいい、悪いものは悪い、と判断していたのである。 クラスの担任はサカイケイコ先生。独身で美人で優しくてエコヒイキがなくて、私が今まで出会ってきた先生の中で一番素敵な人だった。二年後にはインケンでイジワルでオバサンなクソタワケが担任になるので、このころが私の一生で一番幸せだったころかもしれない。 「昔に戻りたい」という感覚は私にはあまりないのだが、1971年にならちょっと戻ってみてもいかな、と思う。
『トラマガ』vol.3(インフォレスト・690円)。 雑誌名より新連載の『ジャイアントロボ誕生編』のロゴの方が大きいのは前号と同じ。正直な話、『トラマガ』が潰れずに続くかどうかは、この『ジャイアントロボ』にかかってるかもしれないなあ。ほかの連載、あまりに弱すぎるし。 アニメの続編がポシャッてマンガに、というのは『機動戦士ガンダム クロスボーン・バンガード』という前例がある。まあ完全にお蔵入りになるよりは続編を見られた方がいいに決まっているけれど、やっぱり「アニメで見たかった」という思いは強い。脚本の「伊達憲星」、十中八九、OVA版の監督の今川泰宏の変名だと思うけど、「『地球が静止する日』以外にもアレとコレと、ストーリーはたくさんある」と散々ハッタリかましてくれたんだから、キチンと始末はつけてほしいものだ。 とりあえず誕生編の第1話、派手な展開で見せてはくれる。 気になるのは、草間大作がいきなり記憶喪失だったり、銀鈴がBF団の一員だったり、村雨健次が「ネルソン沢田」という名前で出てきたり、氷室博士のデザインがなぜかOVA版のシズマ博士(『鉄人28号』のドラグネット博士)と同じだったり、OVA版と比較してみると、微妙に設定が違うところ。作者はちゃんと整合性を取るつもりなのか、もう完全な仕切り直しでこれまでの設定は無視するつもりなのか、今のところまだ判別がつかない。 けれどBF団のエージェントNO.5が「衝撃のアルベルト」であることはまず間違いないな。仮面の上からまで葉巻くわえてるのはご愛嬌だけれど(^o^)。 冨士原昌幸さんの作画も、以前のコミック版の水田麻里さんに比べると画面構成に元気があって遥かにいい。デザインの山下明彦さんの「味」がイマイチ出ていないのはちょっと残念だけれど。
今年の流行語対象が早くも「ウェー、ハッハッハ」に決まりそうな気配である(^_^;)。北朝鮮のメディアに出てくる人たちのイッちゃってる様子っつーか、気持ち悪さというのは、戦前の日本を鏡に映してるみたいだなあ、と思ってたんだけれど、時代劇の影響も受けてないか。なんだかあの喋り方に団徳麿あたりをイメージしたのは私だけでしょうか(古すぎだって)。
2002年01月06日(日) 言えない話と男の優しさと英語落語と/『西岸良平名作集 蜃気郎』1巻(西岸良平)ほか 2001年01月06日(土) ああ、今日は土曜か。今気づいた(^_^;)。/映画『ビッグムービー』
| 2003年01月05日(日) |
インド人にビックリ/『膨張する事件』(とり・みき)/『バンパイヤ/ロックの巻/バンパイヤ革命の巻』(完結/手塚治虫)ほか |
体調、夕べより悪化する。 どうにも寒気がしてダルいので、職場に連絡を入れて休もうとしたら、偶然にも積雪のせいで職場自体、休みになっていた。どうも同僚がのきなみ「雪でたどり付けませ〜ん」と泣きの連絡を入れまくったらしい。全く、これだからイナカの職場は(^_^;)。 もともと休日なんだから休んでいいんはずなんである。 ホッとして昼寝。
しげは、10時から芝居の練習に。 台本が上がらなかったのでまたブツブツ文句を言われるが、「来週までには上げる」と約束させられる。 「あと一週間で書けると?」 「書き出したら速いから。一んちあれば充分だよ」 「そう言ってギリギリまで書かんやん。アンタ、夏休みの宿題、最後の2、3日で書くタイプやろ」 いや、それはなかったなあ。夏休みの宿題はどちらかというと早めに仕上げてあとは遊んでたほうだ。最後の2、3日でできる程度のレベルの宿題なら、最初にやっちゃったほうが楽に決まっている。 台本が宿題と一緒にならないのは、アタマの中で寝かせて置けば寝かせておくほど、面白くなるからである。ギリギリになる面があるのも仕方がないと思ってほしい。
練習は3時半には終わるはずである。 けれど、5時を回ってもしげはいっかな帰ってこない。 どうしたのかと思っていたら、ようやく7時を回って帰宅。 練習後、打ち合わせもかねて、其ノ他君、鴉丸嬢と天神の「ナーナック」で食事をしてきたとか。 以前も書いたが、本場のインド料理をむちゃくちゃ愛想のいいインド人が目の前で作ってくれる料理屋である。店内がすげえ狭いんで、インド人ととってもアットホームな雰囲気にになれます(^^)。 「あの二人、『ナーナック』で食事するの初めてかね?」 「だってよ」 「インド人にはビックリしたろう」 「其ノ他君は受けてたけどね」 「鴉丸さんはどうだった?」 「『食えるもんがない』って泣いてた」 「辛いのダメなの?」 「おなかの調子が今悪いんだって。だからカレーじゃなくてスープを頼んだんだけど……」 「辛かったんだろう」 「うん。『甘かった、インドを舐めてた』って言ってた」 結局、味は気に入ったのかどうか。鴉丸嬢もしげに負けず劣らず偏食っぽいから、少しは本格的な料理を食べる習慣、身につけたほうがいいと思うんだけどな。
マンガ、とり・みき『膨張する事件』(筑摩書房・1155円)。 ポール・サイモンはなぜよこたとくおの顔をしているのか? いや、もちろんそれが面白いからなのだけれども、音楽畑には全く疎い私にでさえ、この作品集の中で一番面白かったマンガが、アルドン・ミュージック社のミュージシャンたちを、トキワ荘の面々の自画像キャラで描くという『アルドン荘物語』だったというのは、とりさんにとってはちょっと面白くない事実ではなかろうか。要するにせっかくの面白いネタを、とりさんの絵柄は十全に表現しきれてはいない、ということだからである。 その件について語る前に、このもしかしたらとり・みき最高傑作かもしれない『アルドン荘物語』の「配役」について紹介しておこう。 バリー・マン………………………赤塚不二夫 ドン・カーシュナー………………寺田ヒロオ ハワード・グリーンフィールド…藤本 弘(藤子・F・不二雄) ニール・セダカ……………………安孫子素雄(藤子不二雄A) キャロル・キング…………………水野英子 ゲリー・ゴフィン…………………石森章太郎 テディ・ランダッツィオ…………つげ義春 ポール・サイモン…………………よこたとくお どうです、これだけで笑えてきませんか。 彼らの出会い、修業時代、デビューをわずか2ページで描き切ったのがこの『アルデン荘物語』なのである。名前は出て来ないが、アルドンのもう一人の創立者、アル・ネヴィンスは、当然手塚治虫であろう(^o^)。 実は、この中で私が顔を知ってるミュージシャンといえばニール・セダカとポール・サイモンしかいないのだか(だからホントに音楽には詳しくないんだってば)、言われてみると安孫子さんとよこたさんの二人の似顔絵がピッタリに見えてくるのである(^o^)。いや、錯覚だってことはわかってるけど、そう見えてしまうところがマンガのチカラなんでね。 悔しいのだけれど、私にはあともう一人のキャラクター、シンシア・ウェイルが誰の自画像であるかがわからない。劇画チックな絵柄なので、少女マンガ家ではない気もするが、今村洋子でも里中満智子でも池田理代子でもない。トキワ荘に入ったことのある女性は水野英子だけだし、赤塚不二夫のアシストをしていた土田よしこの自画像は全然違うマンガタッチのものである。 こういうときこそ、ネットでの情報がモノを言うと思って探してみたのだが、こんな細かいネタにまで触れてる記事が全くない。もしかしたら世界で唯一『アルデン荘物語』について詳しくレビューしているのがこの私の記事ではないのか(^_^;)。 誰かご存知の方はいらっしゃいませんか。
『アルデン〜』の話ばかりになってしまったが、この本は『事件の地平線』を始め、実際にちまたで起きた事件をネタにして、ギャグマンガにしたものがほとんどである。 これが面白いかどうかと言うと、なんつーかね、微妙なんである。 例えば1998年8月の技術試験衛星の「おりひめ」「ひこぼし」のドッキング失敗のニュース、これを「おりひめ、ひこぼしという名前がそもそもよくない」と、宇宙開発事業団が名前をほかに考える、というネタなんだけれど、まあ、どういう展開になるか、見当はつきますわな。最初はマトモなものがどんどんヘンになっていく、というのはギャグの定番だけれど、よっぽどのモノを出さないとこれって落ちがつきにくい。ムリが目立って逆に白けてしまう例も出て来てしまう。 「アダムとイブ」「いざなぎ・いざなみ」はまだいいとして、後半は「キングコング対ゴジラ」「キクとイサム」「マダムと女房」「敏いとうとハッピー&ブルー」「パンダコパンダ」と、これで笑えと言うのか、というラインナップになって来るのだ。 いや、微妙につまらないところが面白いと言えなくもないが、それはやっぱりつまらないってことなんだろう。 で、このつまらないネタも、田中圭一の『神罰』のように、手塚キャラでやってたら笑えたかな、と思ったときに、とりさんのキャラクター、マンガとしては「弱い」あるいは「重い」んじゃないか、ということを感じたのである。 とりさんが吾妻ひでおの影響を受けていることはご本人も認めていることだが、では吾妻さんが生み出した様々なキャラクター、例えば三蔵や不気味やナハハや阿素湖素子に匹敵するものって、あまりいないのではないか。いや、全くいないとは言わないが、本作では私の好きな秋田先生も吉田さんも登場しない。とりさんの今の太い描線で彼らの個性を描き出すのはなかなか難しくなっている。あのタキタさんですら、本作ではその個性を『遠くへ行きたい』ほどには表していないのだ。 シリアスなマンガも描くが、とりさんの本質はやはりギャグマンガにあると思う。できれば16ページなら16ページ、まとまった形でのとりギャグを見せてほしいのだけれど、なかなか掲載誌がないのかもなあ。 もしかして、未だに『てりぶる少年団』の失敗が尾を引いてるのかも(^_^;)。
マンガ、手塚治虫『ヒゲオヤジの冒険』(河出文庫・819円)。 世代的に言って、私が初めて出会った「ヒゲオヤジ」は、もちろん『鉄腕アトム』である。モノクロ版のヒゲオヤジの声は矢島正明さんであった。
ここでまた、以前『華麗なるロック・ホーム』のときみたいに、映像化されたヒゲオヤジの歴史を辿る、ということをやってみようかとも思ったんだが、アナタ、ロックのときも持ってるビデオテープを何10本も引っ張り出し(ネットは資料的価値のあるページがほとんどなく、チョイ役までは記載されてないので、結局は現物に当たって確認するしかないのだ)、『アトム』モノクロ版をずっと早送りしながら見るなんてメンドクサイことやりまくって疲労困憊、すっかりいやんなっちゃったので、もう今回はそんなメンドクサイことはしない。 もう記憶だけで簡単に書いちゃうと、矢島さんのほかには、熊倉一雄(『アトム(新)』)、大塚周夫(『火の鳥2772』)、富田耕生(『マリンエクスプレス』)の諸氏が声アテしていたと記憶する。チョイ役を含めるとほかにもいろんな人がやってるだろう。実写版『アトム』や『バンパイヤ』とかはカンベンして。見返して確認する元気なんてない(^_^;)。確か本木雅弘版の『ブラックジャック』ではいかりや長介がヒゲなしでやってたよな。掏りの名人役で。 手塚治虫さんはキャラクターシステムを採用するにあたって、声優さんもできるだけフィックスさせるようにしていた。だからアトムはCMに至るまでいつも清水マリさんがアテていたし、御茶ノ水博士はナーゼンコップ博士の役を演じても声は勝田久さんだったのである。 ところがヒゲオヤジのようにこれだけ数多くの作品に出演しているキャラクターだと、声優さんのスケジュール的にもフィックスは難しくなってくる。結局、「役者」としてのヒゲオヤジのイメージは散漫なものになってしまっているように思う。
手塚治虫のメインキャラクターであるにもかかわらず、恐らくアニメ世代の人間にとって、ヒゲオヤジは、ほかの凡百の脇役と同列の、たいして印象に残らないキャラクターの一人にすぎない、と思われているのではなかろうか。悪役好きの私が珍しく、手塚キャラの「正義派」の中で好きだと言えるのがヒゲオヤジただ一人なので、そのように認識されてしまうのは残念でならないのである。 もっとも、私も最初、アトムやレオやサファイヤといった、ごくフツーの(と言っても手塚さんのヒーローはどこかで「歪んで」いるのだが)ヒーロー、ヒロインたちに目を奪われていたことは否定しない。しかしたとえ脇役であっても「ヒゲオヤジがいなければ」成立しなかった作品も、特に初期作品には数多く見られるのだ。
ヒゲオヤジの当たり役は、「私立探偵・伴俊作」である。ネーミングの由来ははっきりしないが、比佐芳武の「多羅尾“伴”内」と、甲賀三郎の「獅子内“俊”次」あたりからイメージしているのではないか。というのも、探偵とは言ってもこの二人は理知的なホームズや明智小五郎タイプではなく、活劇の主人公としての探偵、ニック・カァタァの系列に連なる探偵であるからだ。 見た目は冴えない爺さんが、柔道の技で悪人どもをなぎ倒す、それはそれでカタルシスはあったのかもしれないが、一般的にはヒーロー然としたキャラクターが活劇の主人公であった方が客受けはよかったのではないか。にもかかわらず手塚さんは初期の作品ほどヒゲオヤジを「便利に」使っていた。これはいったい何を意味するか。 ヒゲオヤジはしばしば「語り部」としての役を担う。『ロストワールド』でも『メトロポリス』でも、主役はあくまでケン一だ。しかし、そういった初期作品の多くで、主役たちはしばしば危難に遭い、作品によっては命を落とす。そして、彼らヒーローの愛や勇気や悲劇を読者に語り伝える役としてヒゲオヤジは配置されていた。
その最たるものは、『ジャングル大帝』でレオの肉を食って生き延びるラスト・シーンだろう。率直に言って、ラストのムーン山のエピソードは、事前に伏線が貼ってあったとは言え、物語の締めくくりとして特に必要な話とは言えない。パンジャ、レオ、ルネとルッキオという「命」の流れを語るだけならば、レオを静かに死なせてもよかったはずである。 しかし、レオは人間の欲望に巻き込まれて死んだ。にもかかわらずレオはそんな人間たちを最期まで助けようとした。結末がいささか唐突であろうと、手塚治虫が描きたかったのは、まさにその、欲望にとりつかれた人間のエゴである。そして人に知られぬ秘境で起こった事件の顛末を、人間たちに伝えるための「告発者」が必要となるのである。 ヒゲオヤジはその役にうってつけだった。 ヒゲオヤジはオトナである。主人公である少年たちのよきサポート役である。しかし実はサポートに徹しなければならないということは、彼自身は物語の中で常に「無力」であることも運命的に担わされている、ということである。 しかし、「無力」だからこそ、彼は世俗的な人間の欲望に引きずられることも少ない。ヒゲオヤジが「正義派」に見えるのは、実は彼が物語を左右するキャラクターではないからなのであって、一つ間違えれば彼が「悪」に転ぶ危険性も常に孕んではいたのである。
本巻収録の『太平洋Xポイント』は、ヒゲオヤジに少し物語に関わる「力」が加わった作品である。必然、彼は「正義派」にはなれなくなる。そして最後に、これまでの作品では圧倒的に生き伸びることの多かった彼が、ついに死ぬのである。 私はヒゲオヤジが死ぬ作品をこれの外には『ブラックジャック』の数編くらいしか知らない。キャラクターに仮託したようなモノイイはいささか感傷的に過ぎるかもしれないが、私はもう随分前からヒゲオヤジは「死にたかった」のではないかと思うのだ。 『Xポイント』のラストシーンのヒゲオヤジの顔は、まるで永遠に死ねない者がようやく終焉を得た満足感に満ち溢れているように見える。 『ポーの一族』のオリジナルは実は「ヒゲオヤジ」だった、と言ったら、怒る人いるかな。でも私にとってのヒゲオヤジは、そういうキャラなんですよ。
マンガ、手塚治虫『バンパイヤ/ロックの巻』『バンパイヤ/バンパイヤ革命の巻』(完結/秋田書店/秋田トップコミックス・各300円)。 ホントは完結してないんだけれど、第2部は雑誌の休刊で結局未完のままだから、特に手塚マニアでない人はここで読むのをやめるのがちょうどいいと思う。 もともとテレビドラマ化で再開された第2部だし、生前の作者は「必ず続きを描きます」とか言ってたけど、それが本気ならいつだって再開できたはずだし、作家のこういうセリフはほとんど眉唾なのである。 作品の発表は1966年から1969年にかけてで、手塚治虫が少年マンガから青年マンガに移行していく直前にあたる。そのせいなのか、『少年サンデー』に連載されていた作品であるにもかかわらず、青年誌的なダークな雰囲気が漂っている(この雰囲気は『どろろ』にも共通するもの)。 さて、たしか夏目房之介氏も指摘していたと思うが、当時の手塚作品、昔のマンガチックな表現と、リアルな劇画的表現がせめぎあっていて、今の目で見るとなんとも珍妙に映る部分が多いのだ。 手塚ファンには名シーンとして捉えられることの多い「ロックのミュージカル」シーン、冷静に見たら笑えないかね。いや、昔見た時には笑うというより「なんじゃこりゃ?」だったんだけど。 政府の要人をバンパイヤを利用して次々に暗殺していくロックが、自分の悪魔的行為に酔いしれて、ホテルの一室で踊り出すのである。手塚治虫はそれまでにもマンガの中によくこういう音楽シーンを挿入することが多かったのだが、『バンパイヤ』ではその手のたぐいの「おふざけ」をずっと控えていたので、いかにも唐突な印象を与える。 しかもその歌詞が「しきたりなんかクそっくらえ!! ゴミすてるな? 花おるべからず? 動物をかわいがれ? 信号は赤でとまれ? へん チャンチャラおかしいや」である。殺人まで行ったロックにしちゃ、歌の内容、かわいらしすぎないか。これじゃまるで「悪人のクセにたいしたことができない」アメーバボーイズである(その他このギャグのサンプル極めて多し)。 続編が描けなかったのは、かつてのファンの要望に合わせれば当時のこんな「いびつさ」までも再現せねばならず、かと言ってそんなことをすれば現代の読者から失笑を買うことを覚悟せねばならず、にっちもさっちも行かなくなっちゃったからではないか。 『バンパイヤ』のラスト、自分が殺してきた人間たちの亡霊に悩まされるロックの姿は『四谷怪談』の民谷伊右衛門の引き移しだが、果たしてそれはホンモノの亡霊かロックの狂気が見せた幻か。それが判然としないところに、マンガとも劇画とも断定しえぬ『バンパイヤ』の作品としての不安定さが見て取れるのである。 単独で別作品に出演するようになったロックは、この後、踊ったりはしなくなる。普通のヒーローやコメディリリーフの役割は、別のキャラクターに託されて行くのだ。 どんな作品も「時代」との関わりを無視して語ることはできない。作者がどんなに普遍性を持たせようとしても、文化や風俗、思潮は時々刻々と変化していく。寺田ヒロオの断筆に端的に表れている古きよき少年マンガの消滅、安保闘争の終焉、高度経済成長とオイルショックに象徴されるような狂乱の70年代は、もうすぐ目の前だった。
2002年01月05日(土) 食って寝て食って歌って/ドラマ『エスパー魔美』第1話/『ピグマリオ』7巻(和田慎二) 2001年01月05日(金) やっぱウチはカカア天下か
| 2003年01月04日(土) |
めかなんて、こどもだからわかんないや/『眠狂四郎』6巻(柴田錬三郎・柳川喜弘)/『ああ探偵事務所』2巻(関崎俊三) |
天気予報で雪が降るとは聞いていたが、ホントに降るとは思わなかった。 それくらい、「雪」なんてのは福岡じゃ珍しくなっている。一昨年の豪雪なんて、ここ10年では稀有な例だ。 昨日一日は休めたが、今日はまた仕事である。時間も特に早出というわけではなく、午前中のみ。正月の、しかも休日にわざわざ出勤させてるんだから、働くにしてもせめてこれくらいにしてくれないとなあ。 しげはもう朝は起きられないもの、と覚悟して(実際に起きてこなかったのだが)、速めにタクシーを拾いにいく。
タクシーの運ちゃんとの会話。 「降りましたねえ。昨日から冷えこんでましたからねえ」 「最近じゃ珍しいですね。30年くらい前は毎年のように降っちゃ積もりしてたもんですけどね。やっぱり地球は温暖化してるんですかね」 「じゃないですか?」 「今日のは積もりますかね?」 「積もるでしょう、これだけ降ってますからねえ」 「車はたいへんでしょう? 山道なんか進めないでしょう」 「そこまでは……どうですかね」 「一昨年なんかこの坂道、全然進みませんでしたよ。すべって。今はみんなチェーン捲かないみたいですからね」 「チェーン捲かなくても、ちゃんと雪用のタイヤがあるんですよ」 「チェーンより滑らないんですか?」 「滑らんです」 「でも、一昨年は滑ってましたからねえ。限度はあるんでしょう」 「そりゃ限度はね」 「文明の利器も自然にゃ勝てないってことですかね」 「全くそうですねえ」
全く、他愛のない会話である。 しげと会話するときも「オマエとの会話で何かが生み出されることってないな」と常日頃言っているのだが、実のところ、人間の会話で実のある話などそうそうできるものではないのではなかろうか。 昔、私は、タクシーの運ちゃんはおろか、家族や友人とでもこういう「他愛のない会話」をするのがむちゃくちゃ苦手だった。それこそ天気の話一つできなかったのである。 「雪が降ったから、それが何?」 ってなもんで、その先、会話がどう転んでいくかわからぬ言葉を口にすることに、異常に抵抗感を感じていたのだ。 それが自分自身の傲慢に過ぎないことに気づくのには随分時間がかかった。要するに、心のどこかで、「どうせ一過性の外交辞令じゃないか」「実のない言葉を話し掛けてくるなんて、こいつは内心、オレのことバカにしてやがるのだ」なんて被害妄想に陥っていたのである。バカはオマエじゃ。 ……そういう感覚が小学生のころから大学のころまで続いたのだから、その間の自意識過剰ぶりというか、人間としての成長のなさを思うと、慙愧の念に耐えない。 頑なになっていた時期が長かった後遺症で、今でも挨拶だの会釈だの、決して上手くはないのだが、とりあえず、こういう他愛のない会話をやりとりできるくらいに私もオトナにはなったんだなあ、と思う。
買ったばかりのDVD‐RW、どの程度の機能かと何度か試し録画。 記録フォーマットに「VR(Video Recording)モード」と「ビデオモード」の二種類あるってところからして、キカイ音痴の私には閉口ものなのだが、VRモードってのはRW対応機種での録画編集を何度も繰り返して行える、というものらしい。ビデオモードというのは、録画した映像をファイナライズ処理(いわゆる保存処理ってことだな)することで、市販のDVDプレーヤーでも再生できるようにしたもの。 こないだ紅白を録画したときは、その違いがよくわからずに、VRモードで撮っちゃったのだが、そうなるとRW対応機を持っていない人にこのDVDは貸し出せないことになる。 となれば、知り合いや友人にDVDを貸せるように、というのも目的の一つだから、設定を常に「ビデオモード」にしておけばいいかな、と考えて、今日はCSスーパーチャンネルの『新刑事コロンボ・死を呼ぶジグゾー』をビデオモードで録画してみる(この映画は以前に見てるので詳しい感想は書かない。コロンボとしては駄作である)。 録り終わって、早速パナソニックのLD‐DVDコンパチプレイヤーにかけてみると、なかなかの画質である。音もクリアーで、さて、副音声の方はどんなもんだろう、とオーディオ切り替えのボタンを押してみるが、いっかな、英語が聞こえてこない。ボタン操作を間違えたのかと、設定表示を調べてみるが、やっぱり原因は解らない。 説明書をもう一度読み返してみると、なんとビデオモードでは二カ国語録音が出来ないのであった。 ……えーっと、つまり二カ国語録音するためにはVRモードで録画しなければならず、そうするとDVDの貸し出しは不可能で、ビデオモードで録画すると人に貸すことは出来るけれども、主音声しか聞けない、とそういうワケ? 中途半端な性能だなあ。これが「出たばかり」のDVDレコーダーの限界なんだろうなあ。もうしばらくすれば、もっと改善された機能のブツが出回ることになるんだろうけれど、今はこれでガマンするしかないなあ。
気を取りなおして、同じくCSスーパーチャンネルの『サタデー・ナイト・ライブ』vol.20を録画。 録画時間モードが四種類(60分から360分まで)あるのだが、60分番組(実際は正味45分)なので、「高画質映像で録画可能」と説明書にある「FINE」モード(60分)で録画してみる。 確かに画質はいいかもしれないが、ビデオテープよりかなり割高になる計算。デッキが壊れたんで仕方なくDVDに移行したのだけれど、今んとこ一般的にはDVDレコーダーをあえて買わなきゃならないメリットはないんじゃないかな。
『サタデー・ナイト・ライブ』と番組欄にも表記されてるが、放映初期のものなので、タイトルはまだ“NBC’S SATURDAY NIGHT”。恐らくこれは1975年の放送分。ジョン・ベルーシもダン・エイクロイドも20代でド新人だったころである。 ホストのリリー・トムリンがオープニングで出演者たちの名前を間違えまくる、というギャグは当然、当時だから成り立つもの。けれどその「間違え方」にも「工夫」があるのが楽しい。 チェビー・チェスを“ジェリー”・チェイスと言い間違えるのは念頭に「ジェリー・ルイス」があるからだろう。「ウィークエンド・アップデイト」のスケッチにもディーン・マーティンとジェリー・ルイスの“底抜けコンビ”の「和解」が紹介されているから、当時ちょうど「時の人」扱いされていたらしいことがわかる。小林信彦の『世界の喜劇人』を読むとホントにただの「芸ナシ」にしか思えないジェリー・ルイスだけれど、それでもある世代のアメリカ人にとっては強烈な印象を残していたのだろう。ルイスが『底抜け再就職も楽じゃない』や『ジェリー・ルイスの双子の鶏フン騒動』(原作はカート・ヴォネガットの『スラップスティック』!)で本格的に「復活」するのは数年後のことである。 ギルダ・ラドナーをゴールディ・ゴールディと言い間違えるのはゴールディ・ホーンとの混同。これも当時のゴールディ・ホーンが『シャンプー』などでコメディエンヌとして高く評価されていたからだと思われる。 偶然にもチェビー・チェイスはこの後、ゴールディ・ホーンと『ファール・プレイ』で共演することになる。 しかし、やはり全てのギャグを理解するのは難しい。 「再結成ブーム」で、デビー・レイノルズとエディ・フィッシャーが再びコンビを、というネタはわかるのだが(この二人の間の娘が「レイア姫」ことキャリー・フィッシャーである)、これにジミー・ホッファが絡むってのはどんな意味があるのかなあ。私はジャック・ニコルソン主演の『ホッファ』もチラッとしか見ちゃいないので、よくわからないのである。やっぱりマフィアがらみでみんなつるんでたのだろうか。
マンガ、柴田錬三郎原作・柳川喜弘作画『眠狂四郎』6巻(新潮社/バンチコミックス・530円)。 ついに出ました白鳥主膳。原作では華々しく登場したわりに、あっさり死んじゃった不遇のキャラであるけれど、マンガ版ではちゃんと眠狂四郎のライバルとしてキャラ立ちできるものかどうか。もっとも眠狂四郎自体がまだまだマンガのキャラクターとしてし「雰囲気だけ」でまるで内面が描けてないから、ドラマの展開自体は全然面白くなっていかないのである。 もう6巻にもなるのに、絵が全然上達してないように見えるのも(なんたって男も女もみんな表情同じだもんなあ)、原作を読みこめてないから、キャラクターが一律化しちゃってるんである。眠狂四郎を桃太郎侍みたいに描くんじゃねえや。
マンガ、関崎俊三『ああ探偵事務所』2巻(白泉社/ジェッツコミックス・530円)。 探偵もの、とは言っても本格ミステリでもハードボイルドでもなくて、市井の「探偵事務所もの」なんだけど、ほどよいギャグが楽しい(けれどマイナー)なシリーズの第2弾。いかにも売れてそうにないんだけれど、ドラマとしては意外に骨格がしっかりしてるから、もっと人に知られてほしいんだよなあ。 主役は事務所所長で推理とコスプレと少女マンガが好きな妻木氏なのだけれど、表紙絵は助手の井上涼子嬢のちょっとえっちなポーズ。商売としてはけだし、正解であろう(^o^)。 収録されてる7話のうち、失踪中の少女マンガ家を探し出す「Case10/11」と、盗聴ノイローゼの女性の依頼を受ける「Case12〜14」が特に面白い。 1巻でアニメ業界を描いた時にも、「アニメ関係者の顔ってヘン」と、一部に反感抱かれやしないかとヒヤヒヤもののネタを出してきてたけど、今巻の「少女マンガ編」でも、人気少女マンガ家・鈴木杏子(どこから取った名前かな〜)のアシスタントの顔がみんなとてつもなくイタイんである。いやもう、どいつもこいつも○○、○○、○○○のオンパレード。で、実際にこういう顔の人間っていそうだから怖い(^_^;)。 少女マンガ家に対するヒドイ偏見として、ずっと昔、「少女マンガ家はみんな○○な自分から現実逃避するためにマンガ描いてる」というのがあったが、あえてその偏見を助長させたがってるような描きかたなんである。 作者の関崎さん、女性だけをムチャクチャ描いちゃ悪いと考えたのか、編集部の男どももみんな人間の基準からちょっと外れてる面相のやつばかり描いてるんだけれど、世間の人々の心が海よりも広く深いことを祈るばかりである。 それはそれとして、この「全国のどこに失踪したかわからないマンガ家」をわずか二日で探し出すテクニック、結構リアルなんじゃないか。「よそ者がいても目立たない程度に人口のある都市」を探せってのは納得できるし、昔はいざ知らず、乳母日傘でないと生活できない現代の少女マンガ家に野宿はムリであろう(←これも偏見)。 で、盗聴ノイローゼのご令嬢、遥ちゃんであるが、自分を覗いてる犯人はN■Kだそうである。なんとなればN■Kの集金のおじさんがニヤニヤしてたかららしい(^_^;)。そのあと遥ちゃんは考えを改めて、犯人はN■Kではないと気づくのだが、では誰が犯人かというと、CIAだったそうで。 ……私、遥ちゃんと全く同じ主張してた人を、以前実際に知ってたんですけど、なんですか、盗聴ノイローゼの人って、つまるところ自分の存在を「盗聴・監視されるくらいの重要人物」だと認識してほしいんですかね。マンガの中ではなんだかんだあって、遥ちゃんのノイローゼは最終的に治るんだけれど、現実のノイローゼの方の場合はなかなか治らないもののようであります。 だいたいCIAに監視されるような重要人物が、そうそうそのへんに転がってるわけないじゃないですか。そんなのはドイツ統一にもソ連邦崩壊にもウラで関わった私くらいのものです。
夕方くらいから咳が激しくなる。ヤバいなあ。
2002年01月04日(金) 消えた眼鏡と毒ガスと入浴シーンと/『テレビ「水戸黄門」のすべて』(齋藤憲彦・井筒清次) 2001年01月04日(木) ああ、つい映画見てると作業が進まん/『快傑ライオン丸』1巻(一峰大二)ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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