無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2007年01月07日(日) いつでも時代は狂っている/舞台『みんな昔はリーだった 〜EXIT FROM THE DRAGON〜』

 情痴事件を話題にすると、軒並みキーワード検索してくる人が増えるのはどう感想を述べればいいものやら(苦笑)。
 私としては、なんでこんなくだらん事件を話題にしているかと言うと、事件の分析は前提に過ぎず、その程度の基本的分析すらできない、あるいはしようとしないマスコミや「世間」の偽善性を問題にしているのである。
 事件の本質を見抜けない、あるいは見ようとしない人間は、いじめを傍観してるのと同じく、婉曲的な犯罪の加担者、協力者なんだよ、ということを告発してるの。
 何度も書いてる通り、馬鹿は馬鹿であるだけで罪悪である。ただ、馬鹿は死ななきゃ治らねえから、その罪を引き受ける覚悟だきゃしとかなきゃなんねえだろ、その程度の自覚は持てよ、自分だけが例外でマトモだなんて傲慢な態度を取ってんじゃねえ、みんな馬鹿野郎様なんだよ、と言ってるの。
 こんな「分かりきった」ありふれた犯罪自体に、私ゃたいして興味はありません。

 だから、そこの妹に劣情を催しててどうしたらいいのか困ってる君、そんなこたあ私の知ったこっちゃないから、妹を犯すなり、その前に首くくって死ぬなり、自由にしてちょうだいね。



 福岡市民会館で、舞台『みんな昔はリーだった 〜EXIT FROM THE DRAGON〜』を見る。

 作・演出 後藤ひろひと
 出演 堀内 健 池田成志 京野ことみ 伊藤正之 後藤ひろひと 竹下宏太郎 瀬川 亮 熊井幸平 松角洋平 板尾創路

 ストーリー
 少年が一人、公園のベンチに座り、空を仰いでいる。
 そこに現れる一人の男。遠慮がちにベンチの隣に座り、少年に話しかける。彼は少年の叔父だった。
 甥の中学生の龍彦(熊井幸平)は、彼女に髪型がみっともないという理由で振られ、むしゃくしゃして母親に怒鳴り散らして、家を飛び出してしまったのだ。
 フツーの人とはちょっと違っていて、かなりうざったい叔父さん(板尾創路)は、弱気になっている龍彦に絡んできて、根掘り葉掘り母親を怒鳴った理由を聞きだそうとする。
 龍彦は思わず、「僕の髪型かっこ悪い?」と言ってしまう。
 その問いをきっかけに、叔父さんの長い長い話が始まった。

 そんなにも昔でもない昔、天狗は出ないけれども、「龍」が出てくる話を。
 男のかっこよさは男が決めていた時代のことを。

 1970年代、ブルース・リーの全てをなぞり、彼になりきることで、男の生き方の美学を学ぼうとしていた4人の中学生、よっと(堀内 健)・河田(池田成志)・たっけさん(竹下宏太郎)・桑島(伊藤正之)。
 ブルース・リー映画に欠かせないヒロイン、ノラ・ミャオの名前で呼ばれる少女・佐々木(京野ことみ)もいる。
 そこへ、海外から一人の少年が転校して来た。ブルース・リーを知らない男、ひろゆき(瀬川 亮)。

 「だめゆき」と仇名されることになる彼の存在が、5人を思わぬ事態へと巻き込んでいく……。


 前説で、本編中に鬼警部・百目鬼國彦役で登場する松角洋平さんが現れて、携帯電話の電源を切ってください、と挨拶をするのだが、毎回、他の出演者から、「何か芸をしながら挨拶せよ」との「指令」が出されるのだそうな。
 もちろん、その指令は封書で渡されるので、松角さん当人には舞台に立つまでその内容は知らされない。
 今日は池田成志君の「駄々っ子になれ」との指令。松角さん、「はっきり言っていじめです」と言いながら、「電源切ってくださーい!」と地団太を踏む。
 仰々しく「百目鬼」なんて役名が付いているけれども、この刑事、本編中には1シーンしか登場しないセリフのない役である。チラシに名前も載ってないチョイ役の人にこういう前説をさせるのは、脚本演出の後藤さんのイタズラであり優しさだろう。
 実際、このあとにアナウンスで観劇の注意は流れるので、前説は特に要らないのである。

 観劇の注意もなかなか笑かしてもらえた。この芝居、観劇中は「ジャッキー・チェンのことは思い出さないで下さい」とのことである。思い出していいのは、「ジミー・ウォン、ノラ・ミャオ、ブルース・リャン、倉田保昭、ホイ三兄弟」とからしい。劇場では小さな笑いが起こっていたが、このあたりの名前に反応できる客はあまり多くはなかったようだ(苦笑)。
 ノラ・ミャオは本編中にもヒロインの仇名として登場する。言うまでもなく、『ドラゴン怒りの鉄拳』『ドラゴンへの道』などのヒロインだが、演じた京野ことみに似ているかと言われれば、藤原紀香よりは似ている、という程度である。ノラ・ミャオをリアルタイムで記憶している世代も今は40半ばだろう。脚本の後藤さんにしたところで、お兄さんがリーファンではなかったら、ノラ・ミャオへの思い入れを描けたかどうか。

 けれども芝居が面白かったのは実はこの前説までである(笑)。

 作品自体は「みんな昔はリーだった」というよりは「みんな昔はすわしんじだった」とでも言えばいいような怪作である(すわしんじも誰だか知らない人、多いだろうがもう説明はしない)。
 ともかく、当時のあの「異常」と言うしかないブルース・リー・ブームを知らない人にとっては、意味不明に見えてしまうのではないか。

 「みんな」と題されてはいるが、1973、4年ごろ、ブルース・リーにかぶれた少年たちは、軒並み馬鹿か不良だった。
 本編中でも、まともに「武道家」としてのリーを尊敬し、カンフー(実際には截拳道<ジークンドー>)を学ぼうとする少年は一人しかいない。あとは、リーの怪鳥音やポーズを表面だけなぞって、リーを知らない少年を相手に暴力を振るい、いじめを行っていたどうしようもないやつばかりであった。

 リーのカッコよさが、それを真似ることで、少年たちに心理的ないじめを正当化させてしまっていたのがあの時代である。
 現代、いじめ自殺を教育機関が手をこまねいて放置しているのと同様、あの時代も全国に巻き起こったいじめの嵐に対して、学校は何一つ有効な手立てを取ることができないでいた。

 物語はあの時代の「現実」を見事に活写する。
 劇中でもそうしていじめられる「だめゆき」という少年が登場する。
 周囲のリー・ブームに乗ろうとし、リーを知らないがゆえに乗り切れず、ヒロインの少女と仲がいいために友達からいじめられ続けるだめゆき。
 彼は「ブルース・リーって、力が強ければ弱い者いじめをしてもいいって教えてるの!?」。と泣き叫ぶが、あの当時、いじめに逢っていた少年たちはみな、そう思っていたことだろう。私もそうだ(笑)。

 もちろん、ブルース・リーの映画は普通のヒーローものであり、いじめ助長の意図などは何もないのだが、月光仮面のマネをして高所から飛び降りて怪我をする子どもが続出した(とされるが本当かどうかは疑わしい)昔から、精神的に未熟な少年たちにとっては、ドラマの背景に流れるテーマとか思想とかいうものは自分に無関係な夾雑物に過ぎないのだ。それが「現実」というものである。

 この物語が「甘い」のは、そうしたいじめの冷徹な現実を描いていながら、それでもだめゆきにリーへの憧れを捨てさせなかった点である。
 ブルース・リーの時代を知らない世代にとっては、だめゆきがそこまで心情を吐露していながら、なぜリーのあとを継ぐような行動を取ろうとするのか、ピンと来ないのではなかろうか。それを納得させるだけの描写が不十分なのは、脚本がその時代のアイテムやキーワードを並べ立てるだけに終始し、だめゆきの精神的葛藤と時代との関わりを描ききれていないせいである。

 ブームというものは、「なぜそれがそのときそこまで流行ってしまったのか」、後の時代の人間には全く理解できないほどに「断絶」を生み出してしまうものである。天地真理がなぜ白雪姫とまで呼ばれ、一世を風靡できたのか、現代人に説明ができる人間がいるだろうか。
 ブルース・リーも同じである。通り一遍の説明では、あの大ブームの理由をとても納得はさせられないだろう。そのブームの陰で、さっさとこんなくだらんブームは過ぎ去ってほしいと願っていた少年たちもまた多数いたという事実も。

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