無責任賛歌
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2006年01月09日(月) |
続ける理由/ドラマ『西遊記』第一回/『名探偵ポワロ ナイルに死す』 |
入院中にも、カウンターは回り続けて、つい一週間前に17万ヒットを記録したと思ったら、更に2000人近くもお客さんが訪れている。 これまで、ヒットが増えるたびに感謝の言葉を述べてきたのだが、実態はキーワード検索で覗きに来る人が殆どなので、私の日記を読んで喜んでいるのか笑っているのか怒っているのか意味も分からず当惑しているのか(笑)、見当も付かない。正直、最近は嬉しいというよりも「疑問」の方が先に立つ状態だ。 更新を休んでいると、たまに掲示板の方に「いつも読んでます」旨の書き込みがあったりして、ああ、細々ながらも読者の方がいらっしゃるんだなあ、あまりサボッちゃいけないなあ、という気分になりもするのだが、もともと劇団の宣伝の一環で始めた日記であるから、メンバーの反応が全くなかったり、向こうも更新をサボっていたりすると、どうしてもやる気が失せてしまうのである。演劇について何か意見を書いても反応がなくて、雑談に反応があれば、気持ちが萎えたって仕方がないというものだ。 それに、先日、しげが勝手に今度の公演を中止勧告して、練習場もキャンセルしてくれたので、いい加減で愛想が尽きて劇団も辞めてしまった。「集まった面子が気に入らなくて公演するのがイヤなら、私が跡を引き継ぐから」とまで言ったのに、しげは今度は「妨害」にまで走ったのである。今まで何度もしげの言行不一致に悩まされてきたものの、それでも「芝居がやりたいから」の言葉を信じて付き合ってきたが、こんなことまでされたのではとても一緒に物を作るなんてことはできない。どうせメンバーにも芝居が好きなやつなんてたいしていやしないのだから、苦労のし甲斐もない。私は芝居が好きでもないやつと芝居を通して関わっていたくはないのである。 そういう事情で、この日記も劇団からのリンクを外したし、あえて継続しなければならない理由もなくなってしまったので、放置か消去してしまおうかとも一時期考えはしたのだが、「ミクシィやはてなより無責任の方が面白い」と仰ってくださる方も少数ながらいらっしゃる。そこでまたどうしたものかと悩まなきゃならない羽目になってしまったのだ。 読者がいるからと言って、嬉しいばかりとは限らない。誰かからたまに、面と向かって「理路整然としてますねえ」なんて言って誉められることもあるのだが、好き勝手に書きなぐっているだけのことで、理路整然なんてしちゃいないことは本人が一番よく分かっている(苦笑)。この人はこういう見え透いたおべんちゃらで人が喜ぶと思っているのか、それともただの馬鹿なのか、正直、理解に苦しんでしまう。そして、「別にこんなヤツラのために書いてるわけじゃないんだよなあ」となんとも陰鬱な気持ちにさせられてしまうのである。 それでもまあ、こうして日記を書きつづっているのには、最初に日記を書き始めた時に思ったことが大きく作用している。何度かこれまでの日記にも書いていることではあるが、最初、私は日記を書いて、それをネットに載せようなんて気持ちはサラサラなかった。「自分のつまらない文章なんて、いくら書いても誰も面白がってはくれないし、読んでももらえないだろう」なんてヒガんでいたのだが、あるとき、そんな根性が、実は「誰かに読んでもらえるほどの立派な文章を書きたいのだ」という倣岸な意識の裏返しであることに気付いたのだ。だから、「誰かに読んでもらいたいなんてヨコシマな気持ちは捨てよう」と思ことにした。自省のためでもなければ啓蒙のためでもなく、ひたすら「意味もなく、ただ表現したいという自分の欲求にのみ突き動かされて書く」ことが、本来の「表現」ということなのではないだろうか? 「表現することはそれだけで誰かに何かを伝えようとする行為だ」という浅薄な意見にも私は組しない。表現というものは人間の根源的な欲求であって、たとえ全人類が滅亡してただ一人残されたとしても、人は何かを表現しないではいられない動物なのである。 だから、劇団のメンバーが読んでいようが読んでいまいが関係ないよなあ、と思って以来、逆に「中断」もあまり気にならなくなった。書こうと思うことはその都度やたらとあるが、どうせ全部は書ききれない。書きたい時に書けることを適当に書くのでいいや、とタイトル通り、はなはだ無責任にこの日記は続いたり続かなかったりするようになったのである。
更新がないのに、ヒット数が増えていたのには理由があって、評論家で『オタクの遺伝子』の著者の稲葉振一郎氏が、私の駄文の一節を引用してリンクしていたからだった。引用のみで、どういう意図でそんなことをしたのかが分からないのだが、単に自著の感想を集めているだけなのかもしれない(笑)。 たまにこういうことがあって、ヒット数が増えるのも、何をどう判断したらいいのか、悩んでしまうのである。
携帯を使い始めてまる2年になる。ちょうど2年前は日記をサボっていた時期で、どういう事情で携帯を買うハメになったのかはもはや茫漠たる記憶の彼方に消え去ってしまっているのだが、多分、「いい加減で連絡が付け難いから、携帯を持ってくれ」という懇願に負けたのだろうと思う。 私の同業者には携帯を持たない人間も多い。「必要ないから」というのが最大の理由で、確かに、そんなにしょっちゅう携帯を使わなければならない用事なんて、我々の業界にはないのである。私も、しげの要求にかなり長い間抵抗していたのは、「待ち合わせとか、携帯があると簡単に連絡が付くので、平気で遅れたりするから」ということだったのだが、まあ、携帯があろうとなかろうと、時間にルーズなやつはもとからそうだし、これでは私自身が「携帯を持ったら平気で遅刻するようになる」と言っているようなものなので、あまり説得力を持たなかった。 それでも携帯への不信感は、今なお漠然とした形で私の心の中に残っている。自分でやっていて言うのもなんなのだが、携帯からミクシィにしょっちゅうアクセスしていると、これはやはり「中毒」なのではないかという思いを捨てきれない。使用者に「いつでも連絡が付かなければ気がすまない」強迫観念を与えている点で、これもまた一種の社会病理だろうと思う。携帯が普及したおかげで公衆電話の数が減ってしまったこともかなり迷惑だ。携帯使用者だって、電池切れや圏外の時には公衆電話がなかったら困るだろうと思うのだが。 実際、2年も使用し続けているとバッテリーが一日も持たなくなっていて、電話を10分もしていればもうバッテリー切れを起こしてしまう。しかもミクシィに接続するようになって、電話代も一気に跳ね上がってしまった。入院中は携帯からしかネットにアクセスできなかったから、当然そうなることは予測できたのだが、歯止めが効かなかった。まさしく「中毒」である。 しげが「機種換えしたら? 新機種だとパケット通信の料金がもっと安くなるよ」と何度も言うので、ついに決心して、近くのauまで出かけていくことにした(そこで実は自分の携帯が使い始めてもう2年を越えることを知ったのである)。 これも初めて知ったことだったが、携帯を26ヶ月以上使用すると、機種替えの料金が一番安くなるということだった。逆に7ヶ月未満だと一番高い。六千円と六万円の違いだから、新機種が出るたびに買い換えていたら(そういう人もいるからこの値段なのだろうが)、全くの丸損である。 しげは私があげた「お年玉」で、私に携帯をプレゼントしてくれるつもりだったようだが、割引券もあって、すっかり安くついてしまった。新機種にどんな機能が付いているのかまだよく分からないのだが、多分、またよく分からないまま、2年が経過すると思う(笑)。
夜は、しげと『人生ゲームM&A』で遊んだあと、テレビで新番組『西遊記』の第一回を見る。 新年の新番組の期待度はナンバーワンだそうだが、キャストを聞いただけで、これまでの『西遊記』映像化と違って「イロモノ」であることは歴然としていると思うのだが(笑)。 香取慎吾の孫悟空は、いいアイデアだな、とは思った。SMAPのメンバーは、ジャニーズ系アイドルだあるがゆえに役者としては色眼鏡で見られてしまいかねないのだが、ダンスレッスンを長年受けて来ているだけに体技のキレはいい。冒頭の孫悟空対幻翼大王(木村拓哉)の決闘も、尻切れトンボで終わりはしたが見応えがあった。 ただ、どうしても堺正章版『西遊記』ほか、既成の番組のイメージを後続のテレビ版は全て引きずってしまっているので、キャストは代われど、大同小異の印象を拭えない。いい加減で三蔵法師を女に演じさせるのはやめないかと、私は『西遊記』がテレビ化されるたびに思っている。本気で三蔵法師が女だと思ってるやつ、かなりの数いるんだから(誤解のないように言っておくが、深津絵里が嫌いなわけではない)。『T.P.ぼん』(藤子・F・不二雄)や『西遊少女隊』(山本貴嗣)に描かれているように(笑)、そもそも玄奘三蔵というおっさんは、天竺までの大冒険をやらかした屈強な坊さんであったのだ。 猪八戒(伊藤淳史)が子ブタっぽくなってしまったのは、もしかしたら『ドラゴンボール』のウーロンからの連想だろうか。凛凛(水川あさみ)なんて一行を翻弄するキャラクターは、アニメ『悟空の大冒険』の竜子を連想させる。沙悟浄(内村光良)が計算高い、というのも、同じく『悟空の大冒険』あたりから強調されてきた性格で、これだけ既視感があると、ようするにこいつら「ステロタイプ」の寄せ集めなんだな、という気がして、出来の悪い特撮戦隊モノを見せられているようで、素直に楽しめなくなるのである。 実際、脚本のフォーマットもオリジナルの『西遊記』と比べると、ハコは同じでも精神がまるで違っている。まさしく戦隊モノの脚本にそのまま移行しても構わないような造りになっていて、「仲間とは何か」「信頼とは」「友情とは」という、青臭い日本風のモチーフがくどいくらいに繰り返されるが、視聴者が求めている『西遊記』とは、そういうものなのだろうか? だから、本格的な冒険ファンタジーとか、そういうのを期待するんじゃなくて、お子様向け『アイドル戦隊西遊ファイブ』を楽しむつもりで見るんならそれなりに面白かろう、という印象なのだね。 ……しかしこれ、中国からも放送のオファーがあるって言うけど、放送できるんかよ。老子(大倉孝二)なんか、ただのボケたジイサンだけど、またまた反発買うんじゃないか。
NHK総合で、深夜『名探偵ポワロ/ナイルに死す』の再放送。つか本放送では見逃してたやつ。 デヴィッド・スーシェのポワロはこれまでのポワロ役者の中でも最高だと思ってはいるのだが、テレビサイズの放送では長編物はどうしても原作がダイジェストされてしまうのと、予算的な関係もあるのだろう、ゲストキャストに二流役者が多いのが困ったところである(日本版は更に時間枠に合わせて本編がカットされていると)。 原作は「容疑者の誰もが犯人になり得る」ように描くつもりが、舞台をエジプトにしたり、特定人物にスポットを当てすぎて物語をドラマチックに仕立て過ぎた嫌いがあり、犯人もトリックもバレバレになってしまったという、クリスティー作品の中ではあまり評価が高くないものである。 評価が低いと言っても、クリスティーの諸作は全体を通して見ればそこそこの水準には達しているので、決してつまんなくはないのだが、やっぱりテレビ版は時間の短さのせいもあるのだろう、「ドラマ」を優先してしまっていて、ミステリーとしては凡庸な印象を拭えなくなってしまっている。脚本が長らくシリーズを担当してきたベテランのクライヴ・エクストンに代わって、ケビン・エリオットという人になっているが、同船した人々を、ポワロに「あれは誰、彼は誰」と十把一絡げにざっと説明させる雑な書き方にちょっと閉口してしまった。そんなんじゃ一人一人のキャラクターが視聴者にも印象に残らないし、容疑者リストに入っていても所詮はサブキャラに過ぎないって丸分かりではないか。 もっとも、1978年のジョン・ギラーミン監督の映画版『ナイル殺人事件』でも、そこのところは失敗していて、豪華キャストを集めているわりには殆どのキャラクターが点景でしかなく、前作『オリエント急行殺人事件』のシドニー・ルメット監督と比較して、その演出力のあまりの落差に落胆したことを覚えている。 今回のテレビ版、サロメ・オッタボーン夫人を演じたフランセス・デ・ラ・チュアの怪演はなかなかの見物だったが、ヘイスティングスに代わってポワロの相方を務めるレイス大佐(ジェームズ・フォックス)の影が薄かったのも残念である。『茶色の服の男』にも登場する準レギュラーキャラなのに。 レギュラーと言えば、『ナイル』も含めた今回のシリーズには、これまでのレギュラーだったヘイスティングス、ミス・レモン、ジャップ警部は全く登場しない。彼らが登場する原作はほぼ使いきってしまっているし、尺の関係もあるから、もうお呼びもかからないということなのだろう。昨年制作された新作4本でも未登場のようであるが、彼らもまた絶妙なキャストだっただけに、もう再登場がかなわないとなればシリーズの魅力が低下してしまうことは否めない。原作を全て映像化するにはあと二、三シリーズは必要になるのだが、最終作『カーテン』までが映像化されるかどうかは微妙な気がする。……あと続いて三年なんだから、もうちょっと頑張ってほしいんだけどね。
ついでながら、これまでなぜかDVD化がなされなかった先述の『オリエント急行殺人事件(1974版)』もようやく二月に発売が決まった。更にはアルフレッド・モリーナがポワロを演じる新作『オリエント急行殺人事件(2001版)』も今月DVD化である。巷では最近、やたらクリスティーが目立って来ているが、なんとなくマスコミ先導って感じが強くて、本当に読まれているのかどうか、疑問なのである。
2005年01月09日(日) 今年も毎月芝居が見たい/舞台『大騒動の小さな家』ほか 2003年01月09日(木) 革命児の帰還/『ヒカルの碁』20巻(ほったゆみ・小畑健)/『ななか6/17』9巻(八神健)/『パタリロ西遊記』5巻(魔夜峰央) 2002年01月09日(水) 多分初雪/映画『大菩薩峠』(岡本喜八監督版)ほか 2001年01月09日(火) 仕事初め
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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