無責任賛歌
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2005年11月01日(火) |
いつか親を殺す日/ドラマ『火垂るの墓』/『光車よ、まわれ!』(天沢退二郎) |
月初めの映画の日なので、しげと「何か映画を見に行こうか?」と話をする。 「いいね、行こう」と返事をもらったので、そのつもりで仕事をさくさく進める。 11時ごろ、しげからメールが入る。予定では父の退院を手伝って、荷物をマンションまで運んだ頃合だったから、てっきりその報告だと思って開いてみると、全然、違っていた。 「父ちゃんが、六時に迎えに来いって」 何の迎えか、と、問い返すと、「ごはん」との返事。 ああ、と思い出したのは、先日、退院が決まった時に、父から「退院祝いに飯でも食わんや」と誘われていたのだが、「退院したばかりで飲み食いとかしなさんな」と断ったことがあったのだった。断っていたのだけれど、断られて、はいそうです、と納得する父ではなかったということである。まあ、分かっちゃいたんだけど。 しげに、またメールを送って、父はもう退院したのかを聞いてみる。 もう別れて、父は天神に遊びに行ったそうな。それじゃあ直接、父に事情を聞くしかない、と、電話をかけてみる。 「どげんしたとね。具合はいいとね」 「具合は変わらんたい」 「なら、無理せんと、今日はゆっくりしとったらどうね」 「心配せんでよか。今も天神でご飯食べたとこや」 「それでまた夜に外食じゃ、体によくなかろうもん」 「いいと。俺はもう、先がないんやけん、好きにさせんや」 「先がないんやなくて、先をなくしようっちゃろうもん。ばってん、止めたって止まらんもんね。お父さんは」 結局、押し切られて食事をする約束をした。しげには今日の映画はチャラで、と連絡を入れる。どこに迎えに行けばいいのか父に聞き忘れていたので、しげに確認を取ると、「店」だと言う。あの親父は、退院直後にもう仕事をする気でいるのだ。なんでこう、あの世代というのは自分の命を削ってまで働こうって気になれるのかね。死にゃあそれでシマイだって感覚がないのか、つまらんヒロイズムに浸っているのか。多分、後者だろう。でなきゃ、感覚異常が起こった時にオタオタして病院に飛び込んだりはしていないはずである。喉元過ぎればだなあ、って、愚痴ったって、どうしようもないことではあるのだが。
博多駅でしげと待ち合わせをして、店に向かう。 父はもう準備万端整えていて、「どこで食おうか」と問いかけてくる。下手をしたら「焼肉」とか「しゃぶしゃぶ」とか言い出しかねないので、父のマンションの近所の、セルフサービス形式の食堂に行く。おかずが予めカウンターに並べられていて、自由にお盆に取っていけるので、カロリーの調節がしやすい。 私があまりうるさく言うものだから、少しは自重したのか、父のおかずは一品だけ。あとはヒジキに味噌汁、漬物程度である。 「ご飯も『小』にしたけん、文句はなかろうが」と威張って言うので、「でもおかずの魚は天ぷらやん」と言い返すと、「焼き魚の方がいいかいなと思ったばってん、俺は天ぷらが好きやけんな」と笑って言う。笑うなよ。
久しぶりの「シャバ」なので、いつも以上に父は饒舌である。相変わらず姉の悪口ばかりで、「(世間に)人情がなくなった」を繰り返す。人情なんて、昔からなかったと思うが。なかったからこそ、我々日本人は、人から親切にされたときに「有り難い」と答えてきたのである。 父も昔はそれほど「人情幻想」に捉われちゃいなかったように思うんだが、そういうものにすがりたくなってしまっているというのは、それだけ心が老化してしまっているということなのであろう。 「昨日も、ひどい事件が起こっとったろうが」 「ああ、高校生の女の子が、お母さんに毒盛ったってやつ」 「信じられんな。子供が親を殺すとか」 「親が子供を殺す場合もあるやん」 「そうたい。世の中もうおかしゅうなっとるな」 父は、昔、酔っ払って私を殺しかけたことがあることなど、とっくに忘れているのである。これは比喩でも私の妄想でもなくて、私の態度が生意気だという理由で(泥酔した親を前にして、小学生がいい顔ができるわけがない)、鉄製の盆で頭をめちゃくちゃ殴られたのだ。血まみれになった私を、母が間に入って助けてくれなかったら、本当に死んでいたかもしれない。当時の私には児童相談所に虐待の事実を報告して何とかしてもらうなんて知恵はなかったから、私はひたすら毎日を怯えて過ごすしかなかった。我慢が何とかできたのは、三十年くらい前までは、そんな目にあっても親には逆らえないと我慢している子供が私のほかにもいくらでもいて、それも「しつけ」の範囲内だと考えられていたからである。時代は本当に変わったよなあ、親が子供を虐待した程度のことがニュースになるんだから。 子供のころ、父からぶたれなかった日は一日もなかったくらいなので、私の父への親子の情愛などというものはとっくになくなっている。 それでも今、父を見捨てないでいるのは、反発するには父があまりに年を取り過ぎてしまったせいだろう。ここにいる父はもう昔の父ではない。バットを振り回して逃げる私を追い回し、何度も殴りつけた父はもういないのである(これはしょっちゅうやってたので、さすがに父にも記憶は残っているらしく、こないだも姉に「そのくらい子供はしつけないといけない」と威張って言ってたそうだ)。恨みを忘れたわけではないが、恨める対象がいなければ諦めるしかないのである。
その、母親にタリウムを飲ませたとかいう静岡県伊豆の女子高生も(容疑を否認し続けているそうだが)、母親になにかの恨みがあったのかなあ、と漠然と思う。ニュースを見ていると、「ブログに毒殺日記を付けていた」とか、「グレアム・ヤングのファンだった」とか報道されているから、単なる快楽殺人者だったのかもしれないが。 逆説的なモノイイになってしまうが、恨みや憎しみがあった方が、人と人との関係は「人間らしい」ように思う。思いが報われないから人は人を憎むのである。つまりはそれだけ相手への思いが強いということだ。こう言っちゃなんだが、しげは私と結婚していなかったら、私のストーカーになっていただろう。ホモオタさんが未だに私に執着してストーカーになっているのは、私に相手にされなかったからである。善悪の問題は別として、その思いは人間のものとして理解がしやすい。 毒殺未遂少女にとっても、その手段は、彼女なりの親へのアプローチだったのかもしれない。けれどもそれは、我々の常識では到底図り得ない領域のものである。どうせそのうち、「人権派」の弁護士やら識者やらが、「未成年の少女には更生の機会を」とか言い出すんだろうけれど、常識の埒外のメンタリティの犯罪者を、どのように更生させられるのか、その具体的な方法をきちんと提示してくれてる例って少ないよね。
ドラマ『火垂るの墓』。 高畑勲監督の傑作アニメーション、これを最初に見た時には、「これをどうしてアニメーションにしなきゃならないのか」という疑問を抱いたものだった。「こんなふうにリアルに描くんだったら、実写でいいじゃん」というのが理由である。 けれど同時に「でも、もう戦争の惨禍や、当時の日本人らしさを描こうと思ったら、もう実写では再現不可能になっているのかもなあ」とも考えていた。 結果は、本作が証明してくれた。もう、現代の日本人に太平洋戦争を描く映画を作ることは無理である。
井上由美子の脚本のデタラメさはもう、いちいち突っ込んでいつたらキリがない。もともとの原作にも雑なところはあるんだが(野坂昭如は締め切りに追われて数時間で書き殴ったとかいう話である)、ひと様から預かった子を、それも海軍将校の子をあんなに虐待したら、隣組の中で非国民扱いされるのはオバサンの方だろう。戦時中の隣組は、民衆の相互監視の意味があったんだから。オバサンは、自分の子供を犠牲にしても預かった子の方を優遇しないと何を言われるか分からないのである。アニメの方はあそこまで苛められる前に引け目を感じた清太と節子が出ていったから、そう不自然でもなかったんだけどね。 あのオバサン、自分の夫がいくら戦死したからって、特高に聞かれたら逮捕されかねない「軍人は国を守ってなんかいないわ。大切な人を死に追いやってるだけよ」なんてセリフを口にするのは、その時代の人間としてはどう考えてもおかしい。どうも脚本の井上由美子、思想的にかなり左がかってんじゃないかって匂いがプンプンするのである。 オバサンが、盗みを働いた清太の引き取り人になっておきながら、再び「あなたに食べさせるものは何もないの。これが戦争なのよ」と言って突き放すに至っては、何をか言わんやだ。警官に保証人として指名されておきながらそれを反故にすることなど絶対にあり得ないことだし、「これが戦争だ」なんてセリフは、戦時中なら、戦争に批判的なアカしか言わない。庶民が言っていたのは「今は戦時なんだから」で、これも、「だからワガママ言わずに我慢して」と「協力し合う」ためのセリフであったのである。 ここまでくれば、「歴史の捏造」と言ってもいい。この脚本家は明らかに思想的に偏っている。いや、偏っていたとしてもそれはその人の思想の自由だから文句をつけるわけにはいかないのだが、歴史的に現実には絶対にありえないセリフを書いて、視聴者を誘導しようというのは、戦時中の「大本営発表」と同じである。そのことに脚本家が気付いているのかいないのか。気付いていたとしたらこいつはとんでもない卑劣漢だし、意図的でないなら底抜けのバカである。
でも脚本はねえ、バカに書かせなきゃまだ改定の余地があるんだが、どうにもならないのは、戦時中で食料もないのにふくよかなオバサン役の松嶋菜々子かな(笑)。芝居もなんでこの人はこう、気取るばかりで、リアルな演技ってものができないかね。『リング』と同じ演技を『火垂る』でやるなよ。
唯一よかったのが、子役の二人で、特に佐々木麻緒ちゃんの演技にはもう舌を巻く。やっぱりこの子は日本のダコタ・ファニングだよ。 単に、アニメ版の節子がそのまま抜け出てきたと錯覚するくらいに似ている、というだけではない。『ウルトラマンマックス/第三番惑星の奇跡』の時にも思ったことだが、この子はわずか六歳にして、直観的にスタニスラフスキー式の演技を体得しているのである。ラストなんて本当に死んだようにしか見えん。 そう言えばこの子、『妖怪大戦争』でもスネコスリ役だったんだよな。あの映画は神木隆之介君、佐々木麻緒ちゃんという、日本に大天才子役の共演映画だったわけだ。
でも、清太と節子のシーン、特に蛍を防空壕に放つあたりのシークエンスは、構図からカット割りまで殆どアニメ版の模倣なのだった。……実写にする意味ねえよ、この映画。 えーっと、「はてな」の方では誉めてるような書き方をしましたが、あくまで麻緒ちゃんの演技についてだけです。あっちは基本的に「いいとこ探そう」というスタンスで書いてますから、こっちとはどうしても感想変わっちゃうんでね。
天沢退二郎『光車よ、まわれ!』(ブッキング)。 西に『ナルニア国ものがたり』『指輪物語』があれば、東には『オレンジ党』シリーズありと、日本ファンタジー史上の金字塔と言ってもいい傑作シリーズの「露払い」である本作が、昨年、17年ぶりに復刊。いや、私、てっきりこの本は持っていると思っていたのだけれど、図書館で借りて読んだから買ってはいなかったのだということに気がついた。また絶版にならないうちに、他のシリーズも買わねばな。 児童文学やファンタジーに詳しい人なら、今更本作の価値を説明する必要もないのだけれど、長らく絶版だったということは、そんな基本的な常識もすっかり失われているということである。 本格ファンタジーの要素である、光と闇の対立、闇と戦うために集まった少年少女戦士たち、闇に打ち勝つための魔法のアイテム、少年たちを導く古代の伝承とその導師、そしてこの世界の成り立ちが明かされ、別れと出会いが示される感動のラスト。一見、西洋的と思われるこれらの要素を、見事に日本化し、舞台を異世界ばかりでなく、日常において展開してみせたのが、本作の特徴なのである。初刊行から32年の月日が流れているが、その価値はいささかも色あせてはいない。富士見ファンタジア文庫とか読んでファンタジーに触れた気になってる若い読者には、まずこの「原典」を読めよ、と言いたいのである。 今回の復刊に際しては、なんと唐十郎がオビに推薦文を寄せている。対象読者である小学校高学年・中高生に「唐十郎」のネームが何の意味があるかとも思うのだが、「思春期の黙示録的行脚がここにある」というのは実に的確な批評だ。初刊当時、天沢氏は宮沢賢治研究家としては知られていたが、児童文学の書き手としては全くの新人で、その筋の専門家、評論家の視野には全くと言っていいほど入っていなかった。それが、どんどん版を重ねていくことになったのは、ひとえにその「思春期」の少年少女たちの心を本作と次に続く『オレンジ党』シリーズががっちりと捕まえたからである。
小学五年生の川岡一郎は、ある雨の朝、クラスメートの何人かが、一瞬だけ「黒い、ぐっしょり濡れた化け物」に見えてしまって驚く。ところが一郎のその動揺を察したクラスメートたちは、次第に一郎をつけ狙うようになる。闇に引きこまれようとした一郎を救ったのは神秘的な美少女・戸ノ本龍子だった。彼女は、「闇」の正体が「水の悪魔」であることを告げ、共に立ち向かう仲間たちに一郎を引き合わせる。そして、敵を倒すためには、この町に隠されている三つの「光車」を探し出す必要があると言うのだ。古代の「地霊文字」が導くという「光車」は、いったいどこにあるのか。光車を狙う「第三の勢力」も登場し、戦いの中で、一郎たちは一人、また一人と仲間を失っていく……。
我々が生きる上で必要不可欠な「水」が敵となる。 鈴木光司の『仄暗い水の底から』の三十年近くも前に、既に「水」の恐怖を描いている点をまず高く評価したい。マンガでは水木しげるが『水神さまがやってきた』で、「生きている水」を発想しているが、小説で、しかも児童文学でそれを描いたのはこの『光車』が嚆矢ではなかろうか。雨の日は特に恐ろしい。外に出ればいつ何時、水に襲われるか分からない。 蓮池に少女の死体が浮かんだ。それを食い止めることは誰にもできなかった。ひと思いに全員を殺せるのに、「水」は「光車」の仲間たちを「泳がす」。この「闇」の恐怖は、思春期の少年少女たちにとっては、いつか自分たちが出会うかもしれない「見えない敵」の寓意として心に留まる。 唐さんが「黙示録的行脚」と呼ぶのはまさにこの部分あるだろう。善と悪との究極の戦いとしてこの「光車」を巡る戦いは認知され、少年たちの進むべき道を預言しているのである。 一郎はこの戦いの終わりに、一人の少女を失う。しかし、もう一人の少女を手に入れる。自分を導いてくれたものを失い、新たにともに歩むべきものと出会ったのだ。それもまた『源氏物語』以来のファンタジーの伝統であり、「少年」が必ず通過しなければならないイニシエーションでもある。そして読者である少年少女たちもまた、いつか、あるいは今まさに、同じ経験をする、あるいはしていることに気がつくのだ。 中高生の時に、この「ファンタジーの必読書」を読み損なった大きなお友達は、自分が辿ってきた「悲しい道」をもう一度思い出すつもりで本書を読まれてはいかがだろう。司修の版画、挿画も、この光と闇の世界を実に神秘的に描いていて最高である。
2004年11月01日(月) とりあえずの再開。でも本の感想まではとても(^_^;)。 2002年11月01日(金) そう言えば「丹」ってのも何だか知らない/舞台『空飛ぶ雲の上団五郎一座 アチャラカ再誕生』/『聞く猿』(ナンシー関)ほか 2001年11月01日(木) ヒミツな情報/アニメ『ナジカ電撃作戦』4話/『クラダルマ』5・6巻(柴田昌弘) 2000年11月01日(水) 夢で他の女と会うのも浮気なんて言うなよ/『文鳥』(夏目漱石)ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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