無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年08月13日(土) 石井輝男監督、死去/『月館の殺人』上巻(綾辻行人・佐々木倫子)

 映画監督の石井輝男氏が、昨12日、肺がんのため死去。享年81。
 つい先月、『盲獣VS一寸法師』に主演されたリリー・フランキーさんのサイン会で、石井さんの話を伺ったばかりだった。私が「誰が何と言おうと、あれは乱歩の世界を忠実に描いた傑作だと思います」と言ったら、リリーさんは「石井監督も喜ぶと思います。あとで伝えておきます」と仰っておられたが、多分、お伝えする余裕はなかったろう。そのことを残念に思ってはいない。批判の多い映画、キネ旬ベストテンではただの一票も入らなかったが、あの映画の面白さに熱狂したファンは、きっと石井監督の傍にはたくさんいたと信じるからである。
 同じく死の直前まで乱歩に固執した映画監督に深作欣二がいるが、彼の『黒蜥蜴』を見る限り、乱歩への認識は浅薄なものだったと断定せざるを得ない。彼が映画化を模索していた『怪人二十面相』も、完成していたとしても十中八九、駄作になっていただろう。
 石井監督は『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』と『盲獣VS一寸法師』という二本の乱歩映画を残した。他の乱歩映画の大半が乱歩作品を映画のための素材としてしか扱っていないのに対し、石井作品のみが乱歩の幻魔境を深く理解し、映像化することに成功していた。乱歩の世界はとても寂しい。太宰治のような他人に媚び甘えるための「手段としての孤独」ではなく、人間が人間として生まれてきたからには逃れることのできない根源的な孤独である。乱歩小説の犯罪者たちが、犯罪という反社会的な行為を通してしか世界との接点を持つことができないのは、それが人間を二重三重に囲繞する様々な社会文化的虚飾を排したときに浮かび上がってくる最も根源的かつ究極の「孤独の解消法」だからである。
 『奇形人間』の土方巽も、『一寸法師』のリトル・フランキーも、とても寂しそうだった。二人とも既に故人である。
 映画としての破綻は問題にならない。あの破綻は、狂気と混乱と猥雑によって成立している乱歩世界を活写したことによる必然的な破綻だからである。カルト映画作家として、B級映画の雄として(このどちらの評価も私は好きになれないが)『スーパージャイアンツ』シリーズの、『網走番外地』シリーズの、『忘八武士道』ほか異常性愛路線の、『ゲンセンカン主人』『ねじ式』二作のつげ義春の理解者としての石井監督を誉めたたえる人は多い。しかし、『奇形人間』や『一寸法師』をギャグではなく乱歩の忠実な映像化作品として評価する人は少ない。乱歩がこれほど人口に膾炙していながら、真の理解者が少なく、逆に世間から拒絶すらされている現状は悲しむべきことであるが、唯一喜ぶべきことは、石井作品だけが映像化という手段でもって乱歩世界を掬い取っていたことだ。他の傑作群についてはあえて触れない。そのことだけを指摘しておきたいと思う。
 先日、チャンネルNECOで清水宏監督の『慕情』が放映されていたが、これが石井監督の助監督デビュー作だった。


 夕方、父のマンションで母の迎え火。
 五時ごろに店まで父を迎えに行く約束だったのだが、時計が四時を回ってすぐ、父から電話がある。「お前、なんでまだ家におるとや?」
 「ああ、今から出ようかなと思ってたとこだけど」
 「もう俺の方は準備ができたばい」
 「ああ、じゃあ、すぐに行くよ」
 まだ、約束の時間には早いじゃないかと文句は言わない。どうせ、約束の時間なんて忘れてるか思い違いをしているかのどっちかだ。寝こいていたしげを叩き起こして、慌てて飛び出す。
 ウチから店までは車で15分ほどなので、四時半より前に到着した。着く間もなく、椅子に座らされて散髪。
 以前は父が散髪して、洗髪と顔剃りは姉がという仕事分けだったのが、今は父が仕上げまで全部して、姉には触らせようとしない。父と姉の溝はまた少しずつ広がっているように思う。姉は店の片付けを父に任せて足早に帰って行った。
 父は「オレの頭も姉ちゃんはいっちょんしてくれんくなった」とボヤくが、多分、姉に言わせれば「お父さんの方が勝手に別の床屋に行くようになったとよ」と反発することだろう。博多弁で言えば「やおいかん」(どうにもならない)状態で、気休めでもうちょっと仲良くなんて言える感じではない。
 父はこないだから「新しく通帳を作れ」と言っている。微々たるものではあるが、残せる財産は姉にではなく私の名義の通帳に移したいというのである。それはそれで構わないのだが、本来は姉に譲るつもりだった店とか、勝手に売っぱらってその通帳にカネを入れたりしないかと、それが心配だ。私は別に姉とケンカするつもりなんかないのだが、勝手にそんなことをやられた日には、あとで関係がギクシャクするのは目に見えている。そうならないように目を光らせてなきゃならないわけだが、全く爺さんというのは余計な作業ばかり増やしてくれることである。

 店を片付ける父を待つ間、待合で「少年ジャンプ」のバックナンバーなどを浚い読みする。
 『ユート』の最終回などを見るが、全くの尻切れトンボで、ほったゆみさんの無念が偲ばれる。9月、11月に2、3巻が出で、そのときに描き下ろしで完結編が掲載されるようだが、それだけでもとても完結には至るまい。話はいいのに、マンガ家さんの絵にイマイチ花がないのがネックになったと思う。けれど、読者のレベルが“また”低くなっていて、やっぱり「キャラ人気」だけがアンケート評価の判断基準になってんだろうなあ、ジャンプは、と思うと、「サンデー」にでも移った方がほったさんにとっては活躍の場が広がるんじゃないかと、そんなふうにも思う。
 『デスノート』はどんどんセリフが上滑りになって行ってつまらなくなってるけど、まだ人気はあるのかな。ライトのとうちゃん、死んじゃったけど、こういうキャラは最後まで生かしといて、ライトの正体を知ってどう行動するかを描いた方がドラマチックになるはずなのである。作者が物語を展開させるのに倦みつつあるのではないかと、ちょっとばかし心配だ。

 五時を回ったころに、父のマンションまで移動。
 途中、本屋に寄って、マンガなどを物色。車を降りるときにやっぱり父はドアが開けられずにモタモタしてしまうので、しげが予めロックを外すようにした。細かいことをすぐ忘れるようになっているので、会わない時間をできるだけ少なくした方がいいような感じである。とは言え、平日とか覗きに行くのはちょっと難しいし、やはり散髪にかこつけて会いに行く方がいいかもしれない。
 マンションの来客用の駐車場、空いているかどうかが心配だったが、まだ時間が早かったので、余裕で駐車できた。
 迎え火は、父が焚き付けの新聞紙をうっかり全部ゴミ出ししてしまっていたので、仕方なくTVガイドを破って火を付ける。ところがマッチの火が付いてもこれがなかなか燃え広がらない。特殊なインクでも使ってるのか、燃えにくくなっているようで、ちょっと手間がかかってしまった。
 「お母さん、なかなか帰って来よらんなあ」
 父が寂しげに呟いたが、もしそうなら理由は何なんだろうね。
 父からはついでに「万葉の湯」にでも行かないかと誘われていたのだが、昨日から下痢がひどく、湯船でつい脱糞でもしたらエライことになってしまうので、それは遠慮することにする。あそこの食堂では今話題の「こどもびいる」を出しているので、行きたいことは行きたかったのであるが。
 代わりにマンションのはす向かいの「ジョイフル」で安い食事。一緒に外食するとなると、父はすぐに奢ろうとするので、こちらの方が父の財布を痛めずにすむ。「たまには高いものでいいやないか」と父は言うが、盆の時期はその「たま」が「しょっちゅう」になるので、これも父の言をそのまま鵜呑みにはできないところである。
 マンションに戻ったところで駐車場を覗いてみると、もう満杯になっていた。もし駐車できなかったら、今日は泊まらずにいったん自宅に帰ろうと考えていたので、これは父のせっかちのおかげである。
 父はもう居間に布団を用意してくれていた。昔の父ならこれも、「自分で押入れから出して勝手に寝ろ」と言うところだろうが、息子夫婦に妙に気遣いをするようになっているのである。こういうことをされる方がかえって寂しいんだがなあ。

 テレビを見ながら、横になった途端に疲れがどっと出て、先に眠る。
 多分、8時になったかならないかくらいのころで、寝が浅かったのか、2、3時間ほどで目が覚める。『エンタの神様』をやっていたが、波田陽区やレギュラーが既にあまり面白くなく、出演時間もかなり削られている。売れたのがそもそも間違いみたいな芸とも言えない芸ばかりだから、もちっとネタを磨くなり新しい切り口を考えるなりしないと、「世間の予測どおりに」早晩消えちゃうぞ。


 マンガ、綾辻行人原作・佐々木倫子漫画『月館の殺人』上巻(小学館)。
 話題のコラボレーション作品が、既連載分が一冊に達した時点ですぐの単行本化。待ち望まれてたのがよく分かる。
 連載第一回の「IKKI」の表紙を見たときには、その意外な組み合わせにちょっと驚いたものだったが、考えてみれば佐々木さんは、『動物の御医者さん』以前には『ペパミント・スパイ』や『忘却』シリーズの中で、何作もミステリーマンガを描いていたのである。『動物の御医者さん』の中でも、漆原教授が持っていた写真の女は誰かとか、日常の中で起きた「謎」を追う話がいくつかあった。
 のほほんとした作風で、真相も「な〜んだ」という落とし話に近い形の解決が図られることが多かったので、血なまぐさく理屈っぽい印象のミステリとはどうにもイメージが結びつかなかったのだが、紛れもなく佐々木さんはデビューのころから「ミステリマンガ家」であったのである。今回はまさに「原点」に戻った作品と言えるだろう。

 雁ヶ谷空海(かりがや・そらみ)は沖縄に住む17歳の女子高生。
 しかし彼女はこれまで沖縄から一歩も外に出たことがない。修学旅行に行ったこともない。彼女の母が異常なほどの「電車嫌い」で、電車に乗ることを許さなかったからである。
 そんな母が亡くなって2ヶ月、天涯孤独の身となった彼女のもとに、母方の祖父の代理人として、弁護士がやってくる。祖父は「高名な人物」で、財産相続の話をするためにも祖父は空海に会いたがっているというのだ。
 まだ見ぬ祖父に会うために、空海は北海道の地に立った。そして、「月館」行きの夜行列車「幻夜」に乗り込む。それは輸入されたあの「オリエント急行」だった。祖父への思いに心を弾ませる空海。
 しかし、一緒に乗り合わせた乗客たちは「コレクション・テツ」「撮りテツ」「乗りテツ」「時刻表テツ」「模型テツ」「鉄道考古学テツ」……みんな揃って「鉄道オタク」であった!
 そして雪に閉ざされた列車の中で新たな「オリエント急行殺人事件」の幕が上がる……。
 
 冗談みたいな設定が、既にミステリーであるが、まあ、この空海の祖父というのが相当な「鉄ちゃん」であることはまず間違いのないことだろう。空海の母が極端な鉄道嫌いになったのも、「パイロット」である空海の父と駆け落ちしたのも、娘に「空」「海」と、「陸」を外した名前を付けたのも、みんな父親への反発だと思われる。
 けれど見当が付くのはそれくらいで、肝心の「密室殺人事件」、犯人もトリックも全然分からない。いや、素直に考えれば事件の裏には祖父が仕掛け人としているんだろうとか、殺人事件に見せかけてるけど実は死んでないんじゃないかとか、いろいろ考えることはできるのだけれど、どうにも推理をする気になれないのね。あの「佐々木さんののほほんとした雰囲気」のせいで。
 つまり、殺人を描いているにもかかわらず(血まみれの死体すら出てくるというのに)、全然、血なまぐさくないし緊迫感もないのだ。登場人物もみな「佐々木ワールド」の住人で、全く犯罪者には見えない。
 殺人が起こったというのに、乗客のテツどもは自分のシュミのことにしか興味がない。小説ならこれはなかなか非人情の世界で殺伐とした空気が漂うものなのだが、これが佐々木さんの筆にかかると実に場面が和んでしまう。だいたい主人公の空海自身が、「密室」と聞いて、「ひも」を使ったトリックを想像して、そのひもにはなぜかマクラが「意味もなく」結び付けられたりしているのである。これ、『本陣殺人事件』のパロディなんだろうなあ。
 即ち、このマンガの最大のトリックは(って、まだ上巻の段階で決め付けるのも早計かもしれないが)、「佐々木さんの絵では誰も犯人に見えない」「佐々木さんの絵でミステリーを描かれても笑ってしまって犯人探しをする気になれない」というメタトリックであるのだ。これは坂口安吾の『不連続殺人事件』を江戸川乱歩が「安吾氏の文体では全ての人物が犯人にしか見えない」と評したのと正反対の効果を生んでいる。だからこそこのミステリは「マンガ」として描かれなければならなかったのではないか。
 いや、もう私はこのマンガに関してはトリックの解明とか、そういうのは放棄してひたすら佐々木さんのほほんギャグの世界に浸りたいと思う。
 「いきなりぎっくり腰」のお母さんも、「あえてセルシオに乗る」弁護士さんも、「選ばれたのだから」の乗客たちも、「ホームを表定速度60キロで走る」お婆さんも、もちろん「この中から結婚相手を選べってことなのね!」の思い込み空海ちゃんも大好きだ。読んでない人には何のことか分からないだろうが、これ全て本作のお間抜けギャグなのである。
 そして、この笑いの果てにはきっと、我々の予測を見事に凌駕した奇想な真実の解明が行われることをぜひ望みたい。

2004年08月13日(金) 博多人のワルクチ
2003年08月13日(水) でもちょっとだけ長く書きました。/『雨天順延 テレビ消灯時間5』(ナンシー関)
2002年08月13日(火) オタクの血/『アンダンテ』2・3巻(小花美穂)/『魔王ダンテ 神略編』1巻(永井豪)
2001年08月13日(月) 代打日記
2000年08月13日(日) 盆がはよ来りゃはよ戻る/『明治快女伝』(森まゆみ)



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