無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年08月13日(水) でもちょっとだけ長く書きました。/『雨天順延 テレビ消灯時間5』(ナンシー関)

 12日午後、『西部警察2003』の名古屋市内でのロケ中に、池田努運転のスポーツカーがスピンして見物人の列に突っ込み、男女計5人が重軽傷を負う事件あり。
 テレビの映像を見ると、別段、危険な撮影中というわけでもなく、どうやらただの運転ミスらしい。観客も随分間近で見ていたようだけれど、特に危険な撮影でもなければそれも至極当然だろう。なんだか随分不運な話だけれど、かと言って今後撮影を続行すれば世間の非難は必至だろう。いったんは製作中止もやむを得ないのもわかるが、なんか釈然としないものも残る。
 やっぱ芝居やってると心のどこかで「人死にが出ようが幕を降ろしちゃなんねえ」って外道な感覚があるからかな。
 

 福岡市中央区の私立高2年の少年が、昨年8月から今年5月にかけて起こった31件の婦女暴行事件の容疑者として逮捕。本人は「アダルトビデオや漫画を見て自分もやりたくなった」と話しているとか。
 校名隠してるけど、地元だと自然とどこのことかわかっちゃうんだよな。こういう場合、マスコミも「中央区」とか「私立高」とか、記事から外すくらいの配慮はできんものか。「福岡市の少年(17)」で情報としては充分だろ?
 なんかねえ、いかにも人権守ってますって顔しててさ、ネットに情報流すためのヒントを与えようとしてるってのが見え見えだしさあ、あまりいい気持ちはせんのだわ。犯行の原因を「ビデオやマンガ」のせいにするって図式もすっかり犯人たちの意識に擦りこまれてるし、ああ、いったいいつまで犯罪推奨キャンペーンを続けりゃ気がすむんだ。


 夕方から父のマンションで、例年通りに亡母を迎え火。
 毎年、父のマンションの来客用の駐車場はいっぱいになってしまうのだが、今年はうまい具合に何ヶ所か空いている。それどころか住人の駐車場もガラガラだ。と言うことは、ここの住人、地元の人間がすごく少なくなっちゃったということか。
 父の部屋に入ると、いきなり小向美奈子のポスターが貼ってあるのに出くわして、思わず引く。よく見ると、去年のカレンダーで、店に貼ってあったやつだ。わざわざウチまで持って帰って貼るかい。父、「よかろうが」とか言ってくれるが、どう返事すりゃいいんだか(-_-;)。
 まずは母の位牌に焼香。もうそろそろ母との年齢差も二十歳になる。仏壇の母の写真は若々しくて、もしこのころの母と今の私が一緒に並んで歩いていたら、夫婦に見られるかも知れない。生前は父と私が兄弟で、母だけが年上に見られて随分憤慨してたものだったが、案外早死にしたのはもうこれ以上老けたくないとか考えたのかもなどと漠然と考える。
 部屋を見回すと、テレビの横のケースに、石原裕次郎のDVDボックスが置いてある。「DVDを見る時間なんてない」とか言ってたわりにはほしいものはやっぱり買っているのだ。裕次郎は昭和9年生まれ。7年生まれの母や10年生まれの父にとっては全くの同世代である。映画は多分、二人とも殆ど見ているのだろう。デートで一緒に見たというものも少なくないに違いない。両親にとってはまさしく青春の1ページを象徴している大スターのである。親には悪いが、太ってからの裕次郎しか知らぬ私は、裕次郎映画を見るたびに「カッコ付け過ぎ」と貶してたものだったが、そのたびに「ばかたれ」と小突かれていたものだった。うちでは長谷川一夫と石原裕次郎の悪口はタブーだったのである。
 その反動で、一時期私は石原裕次郎をケチョンケチョンに貶してたものだったが、今見返してみると、どれもこれもすげえ名作揃いなのだ、これが。昔は「カッコつけ」としか見えなかった裕次郎の「フリ」が、今にも弾け飛び、踊り出しそうな「若さ」だったのだということに気がつく。一時代を築いたのも頷けるのだ。
 でもよく見ると、まだ買ったばかりらしく、封を切ってない。ちゃんと見る気あるのかなあ。一緒に見ようと誘ったほうがいいのかも。

 迎え火だってのに、いきなり「どこの川に行くんだっけ?」とボケをカマしてしまい、父から「それは送り火」と突っ込まれる。
 ベランダで火をつけるとき、ふと気づいて、「昔は茄子の馬かなんか一緒に置いとかなかったっけ?」と聞いたが、「いろいろやり方あるからなあ」と気のない返事。「最近は盆もせん家も多いっちゃないや」とやや淋しげである。
 そのあと近所のステーキ屋で分厚い肉をウェルダンで。父も生ビールを頼む。二人とも糖尿なのに何も考えていない(^_^;)。
 ふと父に「昔、外から帰ってきたときに、砂糖水を飲む習慣ってあった?」と聞く。こないだ見た映画『山の音』で、山村聰が原節子に砂糖水を頼むシーンがあったからだ(原作にもこの描写はある)。
 「さあ、知らんな」
 「映画の舞台は鎌倉なんだけど」
 「あれやないか。病院で点滴打つのと同じやないか? アレの中身がほら、あの」
 「ブドウ糖?」
 「それ。栄養つけようとやろ」
 リクツは通るようだけれど、「習慣」として、どの程度の地域でどの程度浸透していたのか、というのはよくわからない。シティボーイズのライブ『丈夫な足場』でも中村有志さんが「砂糖水を飲む」というコントがあったので、現在でもそういう人はいるのかも知れないが。

 ゆっくりしていけと言われたので、そのまま三人で漫然とテレビを見て過ごす。
 『トリビアの泉』、福岡の柳川と言えば、名物は鰻のせいろ蒸しだが、「イソギンチャクの唐揚げを売ってる店」もあるそうな。柳川に行ったことはあったけれども、そりゃ食べたことなかったな。ゲテモノはまあまあ食べられる方なので、そのうち行ってみよう。
 「中国ではパンダに性教育ビデオを見せている」っての、確かゴリラにそれやってた動物園もなかったか。あれはストレス解消のためだったかな。人間に飼われるうちに野性を無くしてしまった動物も多いから、これやってるとこって少なくはないと思うけど。
 「ハンガリー語で塩が足りないことを『シオタラン』と言う」っての、日本語との意外な類似ネタだけど(イタリア語の「タベルナ」とかな)、わざわざハンガリーまで行って撮影して来るって、なんか無駄なカネ使ってるなあ、という気が先に立ってしまって、どうもノレない。
 何度も書いてるが、ネタが薄いのは知識が基本的に偏在するものであることを考えれば特に気にはならないのである。不特定多数を相手にするテレビでは、そもそも「こんなの常識だろう」なんてのは有り得ない。自分には周知のネタでも他人には「へぇ」ってことも、またその逆もよくあることだ。要は薄いネタでもそれをどう見せるかって点なのだが、演出まで薄いんじゃどうもね。
 その点、興味を引いたのは、「ルソーは露出狂」というネタ。「ジャン・ジャック・ルソー」の名はもちろん有名だけれども、何をした人か、なんてことまで含めたら、認知してる人は少なかろう。私はかろうじて『エミール』を読んでたんで、まあ大雑把な経歴は知ってたが、露出狂かどうかまでは知らなんだ。その点も一応「へぇ」なんだが、どっちかと言うと「ルソー」がトリビアのネタに使われたことの方がずっと「へぇ」であった。
 だってMEGUMIにビビる大木、あからさまに「誰それ?」って顔してるんだもん。あのね、この人が『告白』書いてなかったら、それに影響受けた島崎藤村が『春』とか『家』とか私小説を書くことも無くって、日本に私小説の伝統もできなくて、引いては飯島愛の『プラトニック・セックス』も生まれなかったかもしれないんだよ。なんてことしてくれたんだルソー(←牽強付会を承知の上で書いてるので突っ込まないよーに)。
 なんかまたネタに突っ込み入れるだけで行数かかっちゃうのでこのへんで省略するけど、親父が見てて一番大笑いしてたのは、「秘密戦隊ゴレンジャーは鶏がらスープで敵を倒したことがある」であった。いや、これトリビアじゃないでしょ、そもそもそういうオチャラケな設定の番組なんだから。「ウルトラマンは怪獣の腋の下をくすぐって隙を作り倒したことがある」ってんなら、ウルトラマンはもともとそんなことするキャラじゃないから「へぇ」にもなろうが、ゴレンジャーでそれやっちゃ、番組自体をバカにしてるのと変わらん。こんなのネタにされてたら、特撮ファンはもっと怒んなきゃいけないんじゃないのか。

 父がイネムリし始めたので、十時過ぎに辞去。帰り際に父が「(来てくれて)ありがとね」と言うが、息子が盆に帰ってくるのが感謝されることかい。なんか日頃よっぽど親不孝してると思われてるな(-_-;)。


 ナンシー関『雨天順延 テレビ消灯時間5』(文春文庫・420円)。
 本文よりも興味を引いたのは、巻末の大月隆寛の解説である。
 故ナンシーさんへの感情過多で、自分の書いた追悼文に勝るものはないと断言し、他の追悼者たちを全て「わけのわかんねえ追悼文垂れ流してたひと山いくらのボンクラ共!」と罵倒する、その過激さだ。
 これを読んで、その傲慢さにムッとする人も多分いるだろうし、またかえってナンシーさんの評判を落とすことになりはしないかと懸念される方もいらっしゃるだろう。実際、いとうせいこうさんの追悼文の方が、はるかにナンシーさんの喪失の事実をこちらにヒシヒシと伝えてくれる。それに比べれは大月さんのはナンシーさんを私物化しようとしているだけのただの駄文だ。
 にもかかわらず、ナンシーさんに関してはこういう「駄文」こそがもっともっと書かれねばならないと思う。
 「自分だけがこの人のことを本当にわかっている」というのはもちろんただの思い込みだ。妄想と言ってもいい。しかし、そんな思いを持つファンが誰もいないような作家に、いったい何の価値があろう? 「自分こそが一番のファン」と自負する思いを持つ人間が多いことがすなわち、その作家にとっての最大の勲章なのだ(作家本人にとっては迷惑な場合が往々にしてあったとしても)。
 大月さんの言に腹を立てた人は、「いいや、大月、おまえこそナンシーさんのことがなにもわかっちゃいない。真のファンはオレだ」と声高に宣言すればいいのだ。静かに追悼するばかりが能じゃあるまい。作家は、作品は、読まれ、語られてこそその命脈を保つのである。

2002年08月13日(火) オタクの血/『アンダンテ』2・3巻(小花美穂)/『魔王ダンテ 神略編』1巻(永井豪)
2001年08月13日(月) 代打日記
2000年08月13日(日) 盆がはよ来りゃはよ戻る/『明治快女伝』(森まゆみ)



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