無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年07月31日(日) 政治を笑えば政治に利用されるということ/映画『チーム★アメリカ ワールドポリス』

 昨日、本当は朝から映画を見に行くつもりだったのだが、体調がすぐれず控えていた。
 今日は昨晩の(つか朝までの)花火とカラオケで昼までくたばる結果になったので、その判断は正しかったと言えよう。
 夕方になってようやく体が動くようになって、シネ・リーブル博多駅に映画『チーム★アメリカ ワールドポリス』を見に行く。世間は『亡国のイージス』の方に群がっているのだろうが、優先順位はやっぱりこっちが先になるよな(笑)。

 『サウス・パーク』のトレイ・パーカー&マット・ストーンによる懐かしの「スーパーマリオネーション」映画であるが、まず内容紹介以前に、気になってる方も多かったであろう「果たして天皇皇后両陛下の出演シーンは上映されるかどうか」について報告しておく。ハイ、見事にカットされておりました。『チンポコモン』と同じ憂き目ですな。日本のどこが自由の国だと悪態の一つも吐きたくなる方も多かろう。別に私は天皇制反対論者ではないが、こういうつまらんタブーが現実に存在している以上は(右翼が実際に過激な行動に出る可能性が常にある以上は)、「日本は絶対に右傾化なんかしない」という主張に説得力がなくなってしまうのである。自主規制なんかするな。
 多分、このシーンはDVD発売の際も日本版ではカットされることはまず間違いのないところだろうから(しかも何の説明もなく)、完全版を見ようと思ったら、本国版のDVDを取り寄せるしかない。お金の余裕がない人は、日本版を見てどこにどんな形でそのシーンがあったかを想像してみよう。
 公開二日目であるにもかかわらず、ガラスケースの中にパンフレットが見当たらなかったので、もしやと思ってカウンターで「パンフレットは売ってないんですか?」と聞いてみたところ、「制作されてないんですよ」とのことだった。本当かあ? なんかマズイこと書いたライターがいて、急遽回収されたとか、そういう可能性もありそうな気がする。映画の詳しい内容を文字で確かめたい人は洋泉社発行の『チーム★アメリカ/ワールドポリス インサイダー』を買うしかなさそうである。

平和を乱すテロリストに対抗すべく結成された国際警備組織「チーム・アメリカ」。世界警察を自認する彼らは、今日も今日とてパリで自爆テロを目論むアラブゲリラを見事に殲滅した。その過程でエッフェル塔やルーヴル美術館が全壊するなど、ちょっとした被害はあったが、世界の平和のためには微々たる犠牲である。たとえアレック・ボールドウィン率いる全米俳優協会から「救済と称して破壊を繰り返しているだけ」と非難されようと、チームは全くどこ吹く風だ。
 今日もエジプトはカイロで、憎きテロリストたちが大量破壊兵器を隠し持っているという情報を探り出したリーダーのスポッツウッドは、スパイを送り込むことにする。そのためにスカウトされたのは、なんとミュージカル俳優のゲイリーだった。果たして彼の「演技力」はテロリストたちの目を見事欺くことができるのか。そのころ、テロリストたちの背後に潜む黒幕・北朝鮮の金正日は、全面戦争を画策し、俳優協会を利用しようとしていた……。

 さて、本作については「ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記」にて、何度となく町山さんが制作レポートや実際に観劇したときの批評やアメリカでの反響などを紹介している。
 内容をかいつまんでまとめちゃうと、「トレイとマットの二人は自分たちではノンポリのつもりで、右も左もブッシュも反ブッシュもまとめてバカにしているつもりかもしれないが、出来上がった映画は政治的発言を繰り返す俳優たちへの嫌悪が勝ったせいで、『親ブッシュ』と捉えられかねない映画になっている」とのこと。あちらでの映画公開がまさしくブッシュ再選の直前だったせいで、実際に「政治的に利用された」と、彼らの「うかつさ」を痛烈に非難しているのだ。
 確かに、最終的にはチーム・アメリカたちは俳優協会の役者たちを殲滅し、実はエイリアンの尖兵(トレイとマットは絶対に『ゴジラ対ガイガン』を見ているに違いない!)だった金正日も宇宙に追い払うことに成功するのである。だから、町山さんのように、「チーム・アメリカはバカだけどバカなりに一所懸命正義を行っているのであって、戦争に反対する側が売国奴である、という展開になり、後半はチーム・アメリカを全然バカにしないで賞賛したまま終わってしまう」という見方をすることも充分可能だ。
 しかし、チーム・アメリカ(つかアメリカそのものだわな)が自らをDICK(ちん○こ)に例えたのは、まさにあの国の本質がそういう男根的暴力によって支配されていることを喝破しているのであり、決して褒め称えているわけではない。少なくとも日本人で「オレたちみんな、ちん○こ野郎だよな」と言われて感激して同意する人間はそうそういないだろう。なのにアメリカ人の間ではそれが「賞賛」のように錯覚させられてしまうのは、アメリカ人たち自身、自分たちがちん○こであることを「自覚」しているからである。いや、自覚どころか、ちん○こであることに、誇りすら持ってしまっているからである。「ヘイ、オレたちクールでイカしたちん○こ兄弟だぜ、おま○こもケ○の穴もみんなおいらたちがヤッてやるぜ!」って感覚なのだ。
 つまりそれくらいアメリカ人の大半は低脳でイカレた糞ったれどもばかりなのだが、自分がバカであることを誇りにしているバカに向かって「バカ」と言ったところで、堪えるはずがないのである。
 トレイとマットの二人は決して馬鹿ではないが、彼らの誤算は二つあったと思う。一つは、「親ブッシュ派」を「チーム・アメリカ」という架空のキャラクターに抽象化させたのとは対照的に、「反ブッシュ派」の連中を実在の俳優協会の面々に代表させたために、より「反ブッシュ」の色合いの方が濃く出てしまったこと(殺される俳優たちは以下の錚々たる面々。アレック・ボールドウィン、ジョージ・クルーニー、ダニー・グローバー、イーサン・ホーク、ティム・ロビンス、ショーン・ペン、サミュエル・L・ジャクソン、スーザン・サランドン、リブ・タイラー、ヘレン・ハント。一番バカにされているのはマット・デイモンで、自分の名前しか喋れない)。
 もう一つは、「親ブッシュ派」の連中が「チン○コ野郎」とからかわれた程度では屁でもないほどにバカだったとは思いも寄らなかったということだ。「親ブッシュ派」の主流になってるのは反ホモのファンダメンダリストどもだが、実は他人のちん○こくらい喜んで舐める連中で、そのことを映画の中で指摘されても気づかないくらいに脳が腐れているのだ(そういうシーンがあるのである)。やつらを怒らせるくらいに馬鹿にするためには、「チーム・アメリカ」という衣装は“アメリカでは”まだまだカッコよすぎるのだろう。
 まあ、我々日本人であれば、チーム・アメリカを見てかっこいいなんて思うことはまずない。アメリカに在住している町山さんから見ればこの映画は「親ブッシュ」に傾いて見えるのだろうが、我々から見れば「親ブッシュ」も「反ブッシュ」も「所詮はみんな同じアメ公」であり、「こいつらみんなただの既知外じゃねえか」なのである。
 だからこの映画は、「アメリカ以外の人間にとっては」、既知外と既知外が互いを罵倒し中傷しFUCKし殺戮しあうとんでもなくアナーキーでスラップスティックな映画なのであり、この世界の警察を任じているやつらが本質的に狂っているという、笑えない冗談のような現実がまかり通っている恐怖を描いている作品なのである。
 いや、映画見ている最中には大いに笑ったけどね。エロでグロで不謹慎なギャグは大好きだ。マジメな人は「やりすぎで笑えない」なんて言って鼻白むだろうが、人形たちは実に大らかにSEXを謳歌し、単純に殺戮されていて、そこにギャグとしてのひねりは殆どないに等しい。大人向けではあってもギャグのレベルそのものはザ・ドリフターズの「うんこち○ちん」と同程度の幼稚なものなのである。しかしその「幼稚さ」は逆にトレイとマットの「武器」になっていて、戯画化された人物はどんなにその特徴を誇張されて造詣されていても、みな溌剌としていて愛らしく(恐らくはパロられた本人以外の人にとっては)魅力的なのである。
 ちょうど小林よしのりが薬害エイズ訴訟被告の安部英を戯画化したときに「思い切り憎たらしく描いたつもりなのにかえって可愛くなってしまった」と慨嘆したように、カリカチュアは差別化であると同時に対象をアイドル化してしまう効果もある。町山さんは「金日正だけが可愛く描かれている」とか日記に書いているが、決してそんなことはない。頭でっかちアレック・ボールドウィンもスーザン・サランドンおばさんも知恵遅れのマット・デイモンも自爆テロリストのマイケル・ムーアも全然可愛いのだ。
 場内はなぜか若い女の子のお客さんのほうが多かったが、彼女たちもけらけら笑いっぱなしだった。特に受けていたのは、マイケル・ムーアの自爆シーンと人形セックスのシーンと、「マイケル・ベイはどうして映画監督が続けられるの? 『パールハーバー』は糞だ♪」の歌のシーンであった。私も、これが聞けただけでも大満足だ。


 帰宅して、先日入手した舞台DVD『AGAPE store♯8 しかたがない穴』を見る。
 去年、福岡公演もあったのだが、つい見に行き損ねていたので、DVDででも見られるのは嬉しい。
 脚本はペンギンプルペイルパイルズの倉持裕の書き下ろしで、演出はもちろん我らがG2氏である。コメディが多いG2演出作品であるが、今回はホラー・コメディあるいはブラック・コメディ、あるいは不条理ギャグホラーとでも言うべきもの。笑って見ているうちにどういうわけかだんだんとこちらの神経の方が妙に敏感になるような不安になるような背筋に怖気が走るような、あるいはちょっとばかしトリップしてしまうような、そういうフシギな気分にさせられてしまう芝居である。

 南米にある架空の国「ガルガル」がこの物語の舞台。
 そこには大昔に陥没した巨大な穴があり、研究所がその穴の底に建設されていた。 その不思議な生態系を調査するために、調査団が派遣された。しかし、ヘリコプターでやってきた調査団は、骨折し意識を失った一人のガルガル人を残して、全員なぜか引き返してしまう。
 現地に取り残されたのは、調査とは直接関係のない四人。通訳の蜂賀(松尾貴史)、ノンフィクションライターの恵美(秋本奈緒美)、恵美の付き添いでカメラマンの天川(山内圭哉)、女医の留里子(松永玲子)。研究所に常駐していた所員の佐藤(小林高鹿)は、二重の六角形から成る奇妙な宿泊施設に彼らを案内する。
 その閉ざされた空間の中で調査団が再来するのを当てもなく待つうちに、5人の神経は少しずつおかしな方向へ傾いていく。
 蜂賀は自分の持ち物が全て「微妙に違うもの」に変わっていると主張する。 留里子は新しい病気の創作にふけるようになる。天川は「この世にあるとは思えない動植物」を執拗に追いかける。彼らの生態を取材し「記録」しはじめる恵美。しかし彼女は一本のペンも持ってはいなかったのだ……。
 そして穴の秘密を知っているらしい佐藤は狂気を帯びはじめた彼らを見ながら沈黙を守り続けていた……。

 穴の底の物語、と聞くと安部公房の『砂の女』が思い出されるが、あれが一軒家の男女だったのに対して、倉持裕が描く「穴」は更に複雑化し、「穴の底の迷宮」での五人の男女の絡み合いが繰り広げられる……と言っても、ベースはコメディなので、男女のモツレとか、現実の男女であれば起こり得るようなドロドロまでは描かれない。
 台形の同じ形の部屋が八つ組み合わさって、二重の部屋を作っているというややこしい構造は何のためか、というのは後で一応、そのわけが説明されるのだが、物理的原因は解き明かされても心理的原因まで作者は解説しようとはしない。そのあたりの観客を突き放した印象は、そのトリックの類似性とも相俟って、森博嗣の某小説を想起させるが、この劇にはミステリ風味はあっても本格ミステリを目指しているわけではないから、謎がやたら残るのは、それはそれで構いはしない。登場人物たちが「穴の謎」に振り回されるおかげで、男女の営みにすら一切頓着しないのも芝居を見ている間はさほど気にならず、一応納得できる流れにはなっているからである。
 しかし冷静に考えてみれば、誰かを閉じ込める目的であるわけでもない研究施設に交通手段がヘリコプター以外にないというのもおかしいし、そもそもこの四人が、調査団が引き返したのに自分たちだけ降り立ったというのも理由がよく分からないのである。普通、一緒に帰るって。やはり最初の時点で「穴の毒気」にやられてでもいたものか。
 即ち、この物語もまたリアルな現実劇ではなく、連綿と続く“何者かを待ち続ける”ベケットの『ゴドーを待ちながら』の末裔である不条理劇・抽象としての物語であるのだ。彼らは調査団の再来を待っている。怪我をして失神しているガルガル人の意識が回復するのを待っている。しかし、「調査団」は本当に存在しているのか? それは彼らの証言で語られているだけである。先述した通り、彼らがこの地に降り立ったこと自体、不自然なのだ。
 しかも、ギャグのように語られはするが、彼らはこの穴に降りて以来、本来の職種をいっかなまっとうできていない。通訳は本当にガルガル語を話せるのかどうか怪しげである。ライターは全くレポートを書こうとしない。カメラマンはろくな写真が撮れない。医者はまともな治療ができない。「穴」という特殊空間にいるために、それはいたしかたのない緊急事態として説明がされるが、そもそも彼らは本当に通訳で、ライターで、カメラマンで、医者なのだろうか? 疑い出せばキリがないくらいで、そもそも本当に「ガルガル」なんて国が実在しているのだろうか?(いや、架空なんだけど)。
 意識不明のままの「ガルガル人の学者」は本当に存在しているのか? 「演劇」が「見立て」によって成立する芸術である性格上、その学者はあたかも「そこにいるように見立てられて」演じられているのだが、もしかすると「彼」は「本当にいない」のではないか? 「彼」の正体は最後になってようやく明かされるのだが、たいていの観客は意味が分からずに困惑すると思う。もちろん意味なんて分からなくても構わないのだが、この芝居がまたしても「ゴドーの末裔」であることに気がつけば、その「意味不明」こそが作者の意図したことであることに思いが至るはずなのである。
 これは演劇関係者であるならば基本中の基本として知っていなければならないことであるが、『ゴドー』の本質は、ゴドーの正体が誰であるかということよりも、そのゴドーを待ち続けるウラジミールとエストラゴンの二人もまた「正体不明」であることにあるということだ。
 「人間とは何か?」「自分とは誰か?」そんな「答えが出るはずもない疑問」を持たされていることがまさしく人間存在の悲劇であり喜劇なのである。我々観客は彼ら五人の右往左往を笑ってなどいられない。彼らが狂気の徒であるならば我々もまた「この芝居を見る以前から」狂っている。我々は生まれついての狂人なのだ。その人間の本質を突きつけているのがこの芝居の最も恐ろしい、「ホラー」としての要素なのである。
 ある意味、「またゴドーかよ」という謗りを受ける覚悟も作者にはあったかと思うが(まあ意識しないで『ゴドー』になっていたという可能性もあるが)、舞台設定の見事さと役者陣の熱演で、二番煎じ三番煎じの印象を持たれることをうまく避けている。松尾貴史の操るいかにも胡散臭い「ガルガル語」(よく聞いてみると「愛があれば年の差なんて」「リンガーハットなぜ遅い」とか、日本語を外国語っぽく言ってるだけなのである)も、物語全体を通して見れば、ただのギャグではなく、「本当にガルガル語など話せないのではないか?」という彼のアイデンティティを疑う要素として機能している。全ての「実在」が疑わしくなったとき、そこから立ち上がるべき「人間」というものはありえるのかどうか。
 不条理劇の究極はデカルトへの挑戦である。それが笑いと恐怖の表裏一体のドラマとして描かれることの必然をこの芝居は明示しているように思う。
 一つだけガックリしちゃったのは、まあ、分かりやすくはあるのだけれど、六角形の部屋の上面図をわざわざ物語の冒頭から舞台に投影していた演出である。そんなの説明しないでいたほうがより舞台が「ややこしく」感じられてよかったんじゃないかと思うのだが。
 ついでだけど、天川を演じている山内圭哉、今まさに奥菜恵の浮気相手ではないかと巷のスズメが喧しい人だが、今回はトレードマークのスキンヘッド(後頭部のひとふさだけ残している)をキャップなどで隠しての出演。普通の人っぽく演じてるんだろうけれど、やっぱりどこかコワモテの雰囲気が漂うのは隠し切れない(笑)。でも本当に奥菜恵の相談とかに乗ってあげてたのなら、優しいところもある人なのかもね。


 テレビで映画『サトラレ』を放送していたが、久しぶりに見返してみると本広克行の演出が以前にも増して幼稚に見えてきた。一番よくないのは主人公たちを背後で支えているはずの「サトラレ対策委員会」の様子の描写で、委員たちのキャラクターがいかにもコトナカレな連中に戯画化されてしまっているので、それが物語全体に波及して全体的にチャチな印象を与えてしまっているのである。マンガだとサトラレにサトラレないようにする大騒動の様子などを描いても違和感ないのに、実写だとやっぱりどうしても「ありえねー」感じの方が先行してしまうので、それをどうにか処理しなきゃなんないのだが、その工夫が全くないのが本広監督の才能の限界である。
 まあ映画全体がつまんなく感じられる原因は、主演の安藤政信 の演技がまたシロウトに毛が生えた程度で見るに耐えないってのもあるね。でもやっぱり八千草薫は年取ってもすっげえいいわ♪

2004年07月31日(土) ドラキュラ×の味
2003年07月31日(木) 女の子がいっぱい/『恋愛自由市場主義宣言! 確実に「ラブ」と「セックス」を手に入れる鉄則」(岡田斗司夫)
2002年07月31日(水) しげ、肉離れ?/『けろけろ 緑の誓い』(矢島さら)/『風雲児たち 幕末編』1巻(みなもと太郎)ほか
2001年07月31日(火) 山田風太郎死す/『新・トンデモ超常現象56の真相』(皆神龍太郎・志水一夫・加門正一)ほか



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