無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年07月21日(木) 「演出家 鐘下辰男氏を囲んでの夕べ」/『クロザクロ』4巻(夏目義徳)

 仕事が終わって、しげと細川嬢とアクロス福岡で待ち合わせ。
円形ホールで「NPOこども文化コミュニティ」の主催になる「演出家 鐘下辰男氏を囲んでの夕べ」に参加するためである。
開始時刻は7時からだが、1時間ほど早く着く。けれどせっかちなしげは、更にその30分前に来ていて、私はまだ博多駅にも着いていないというのに「地下のロッテリアで待ってるよ」というメールが届いた。こちらも遅れたわけでもないのにあわてて現地に向かうのも癪だったので、「福家書店」に回って新刊マンガをいくつか買っていく。
6時10分にロッテリアに着くと、細川嬢も来ていた。ようやく書き始めた次の芝居の脚本の冒頭を「読みたい」と仰るので、数ページを見せたが、私の字を見て、いかにも困惑されたような顔で「読めない」と言われてしまう。つっても、私ゃもう字を書こうとすると指先が震えるようになっているので、キレイな字はかなりゆっくりと丁寧にしないと書けないのである。まあ、どうせパソコンで清書しますんで、そのときまでお待ちください。

 30分前に会場の円形ホールに上がって、ざっと見渡して見るとお客さんは六、七十人と言ったところ。あまり多くはない、というよりは「どうしてこんなに少ないんだ!?」という憤慨が沸々と涌いてくる。
 最近は地元劇団の人たちの顔も少しずつ覚えてきているので、見知った顔がいるかどうか探してみたのだが、意外なくらいに少ない。あの「鐘下さん」が来てるのに? 地方劇団というものは往々にして自己充足してしまって、中央の芝居を見ようとしない、海外演劇事情も全然知らない、演劇の歴史も現状も何も知らない、ともかく勉強を怠りがちなものであるが、福岡の演劇人もそういう連中が多いのだろうか。
 ふと客席で目が合った方が、なんと本職の方での知り合い。この方も演劇に関わりのある方で見識も深く(あまり詳しく書くと本職がバレるので省くが)、さすがこういうイベントはちゃんとチェックしているのだなあと心の中でウンウンと頷く。実はこの方、例のホモオタさんの大学の先輩で、さらにトンガリさんとも関係の深い方である。あんなイカレた連中と付き合っていれば、ゴタゴタにいろいろ巻き込まれるのも自然の流れなのだが、それでも全く意に介した風もなく、いつも泰然自若としていらっしゃるのだからものすごい。私んとこの業界、人間がウンカのようにいるってのにやたら横の繋がりはあって、狭いのである。
 
 第1部は「演劇を語る」。
 FPAP(NPO法人福岡パフォーミングアーツプロジェクト)の高崎大志さんを聞き手に、かなりの本音トーク。固有名詞がかなり出てくるので、そのあたりは「ネットに書かないで下さいね」とクギを刺されているので省こう(笑)。それ以外でも、印象に残るお話はたくさんあったのだ。
 「100人演出家がいれば100通りの演出がある」と前置きをして、「自分はうまい役者が見たいわけではない。すごい役者が見たいんだ」と仰る。昔、ワークショップでも言われていたことであるが、鐘下さんは役者にあまり細かい「演技指導」はしない。それがすなわち役者の「上手さ」よりも「すごさ」を喜ぶということに繋がるのだろうが、「すごさ」を役者の「持ち味」とか「個性」と言い換えれば、そういうものは演技指導などから生まれるものではなく、役者を自由に開放することから生まれるのだと言えるだろう。「俳優は、公演中は演出家と飲むな。俳優同士で飲め」とユーモラスに仰るのも、演技プランを演出家に求めるな、自分で考えろ」ということなのだろう。
 昔、溝口健二が田中絹代から演技について問われたときに、「演技について考えるのが役者の仕事でしょう?」と言って突っぱねた、というエピソードを思い出す。もっとも鐘下さんは、溝口健二が田中絹代に参考資料を何十冊も与えたようなやり方はあまり好みではないらしい。「役の履歴書を作ると、それで終わりになっちゃうことが多いからね。そこから考えるための履歴書じゃないと」いう意見には全く同感である。
 ただねえ、イマドキの若い役者って、ホントに考える力をなくしてるから、いちいち具体的にここはこれこれこういうことでね、と解説してやらなきゃ台本も読めねえことも多いのである。更に言えば、説明したらしたで「難しくてわかんない」とか言われたりするのだ。
 会場に高校生の姿もあったので、高校演劇についても語られた。「高校演劇のスターって、プロになったら使えないんだよね」といきなりのカウンターパンチであるが、私も知り合いに高校生がいたりして、たまに高校演劇大会などを覗くことがあるので分かるのだが、これも全くの事実であると言っていい。「クセが付いてるんだよね」と仰って、それが具体的にどういうクセなのかは言葉を濁しておられたが、私なりにそれを補足すれば、思想的にはサヨク、表現としてはアジテート、これが高校演劇出身者の「クセ」だと思う。
 「自分が一番楽しかったのは高校の演劇部にいたころ。高校演劇には顧問主導型と生徒主導型の2パターンがあって、自分の高校は生徒主導型だった。あのころ演劇について先輩たちと自由に語り合えたことが人生の中で一番楽しくて、その経験が今の自分を創っている」
 ここで言われている前者の「顧問主導型」の演劇部にいる連中が特に「クセ」が強いのだ。しかも厄介なことに、センセイ方のオボエがよくって入賞しやすいのがまさしくこういう学校の生徒だったりするので、生徒主導型の学校の生徒もあえてこの「クセ」を研究して(せんでいいのに)マネをしてしまったりする。おかげで、どの学校も同じ色、という非常につまんない現象が起きるのだ。
 カッコつけたことを言わせていただければ、演劇とはまさに既成概念への挑戦であり、権威への反逆であり、自由への飛翔である。それゆえに歴史上、ともすれば左翼に傾く嫌いもありはしたが、本質的に全ての思想から演劇は「自由」なのである。顧問主導型の演劇部なんて、そもそも演劇部とは言えないのではないか。私の高校時代の部活も生徒は完全に自由に芝居を作ることができて、顧問が誰だったか全く記憶にないくらいだが、そうでない演劇部は不幸だとしか言えない。顧問の言うなりになっている限り、たとえ生徒たち自身がそのことを納得していようとそれは「洗脳」されているだけだからである。

 第2部は、ついに初来福する(本当にそうなのである!)鐘下さんの新作について。「『弟の戦争』をテーマに語る」。
原作はロバート・ウェストールの児童文学だが、戯曲化に至った経緯は、上演劇団の「劇団うりんこ」からの依頼を受けてとのこと。「戦争もの」はこれまでにも鐘下さんの作品の中で重要な位置を占めているが、児童劇団である「うりんこ」の依頼をなぜ受けたかについては、「現実に日本が戦争に加担している現在、逆に戦争について見えなくなっている部分があるのではないか。それをこの小説は描いているのではないか」ということであった。
この点については、本公演に関しての鐘下さん自身の文章を引用しておきたい。

〉 『知恵と経験−弟の戦争から』 脚本・演出=鐘下 辰男
〉 なぜ戦争は人間を残虐に変えてしまうのか?そもそもいかなる人間も残虐行為に走らせてしまうというところに戦争の真の恐ろしさはあるわけです。今こうして、日々のニュースなどで戦争の悲惨さに胸を痛めている私たちでも、その場にいってしまえばしっかり残虐行為を起こしかねない、そこにこそ本当の意味での戦争の悲惨があるのではないでしょうか。そもそもの悲惨は決して物の善悪を語っただけでは知ることはできないものだと私は思います。
〉 この「弟の戦争」という作品がすぐれているのは、そうしたところをうまくドラマ化している点にあります。私たちは今でもどこかで戦争が行われていることを日々のニュースで知っています。そこでどういう悲惨なことが行われているのかということも知っています。そして心を痛めたりはしています。しかし、これはあくまで知識として有しているというだけで決して戦争を「経験」しているだけではありません。経験なき知識がいかに脆弱なものであるか、私たちは日々の暮らしでそれを実感することが多々あるわけですが、それは戦争も同じ事です。
〉 この作品の主人公は、戦争のない平和な国で暮らしているにもかかわらず、日々変貌していく弟と接しながら、直に戦争を経験していく物語です。知識としての戦争を理解するドラマでではなく、経験として戦争を実感していくドラマです。
〉 こうしたドラマ性を実現できるのは演劇でしかできません。映像は結局知識でしかないからです。自分たちが普段生活している空間に、突然変貌していく人間を目の当たりにすることができる演劇だからこそ、観客は戦争を経験し、実感できるわけです。この作品の主人公が、日常生活の中で変貌していく弟を目の当たりにしながら戦争を経験し、実感したように・・・。

 「児童文学」を戯曲化するときには、「手加減」をする作家も多いと思う。「子供向けだからできるだけわかりやすく簡単に」とか、いろいろ言い訳をする作家も多いが、悪く言えばそれはただ子供を馬鹿にしているだけで、「手抜き」でしかない。
 しかし鐘下さんは、「子供はウソをすぐに見抜く」と断言されていた。「自分も高校時代、一番多感な時期には大人のウソにはすぐに気づいた。だから、『ウソをつかない』ことには一番気を遣って書いた」と。要するに「奇麗事は書かない」ということだろう。私自身。児童文学を専攻していた経験から鑑みて言えることなのだが、こういう基本的な創作の姿勢について「分かっていない」作家って、名前は挙げないがやたら多いのだ。児童文学が、あるいは児童演劇が、「普通の」文学や演劇に比べて一等低いもののように蔑まれてしまう原因は、一般人の無理解ばかりに原因があるのではない。創作する人間のこうした「意識の低さ」にも起因していることなのである。
 鐘下さんが「信頼できる作家」である一番の理由は、まさに「子供向けだからって手を抜かない」点にあると私は感じている。 

 会場からの「もっとエンタテインメントな、商業演劇を作られる気はないのか?」の質問に対して、「自分はこれまでの人生で苦労をしたことがないし、これまで楽しく生きてきた。だからあえてエンタテインメントを作る必要はない」と答えておられたのが実にカッコよかった。苦労をウリモノにしたり、不幸を語ることで同情を乞おうとするヤカラは多いが、こういうところを見習ってほしいものである。私の見る限り、鐘下さんの作品は充分「エンタテインメント」なんだけどね。理屈抜きで面白いって意味で。

 そのあと懇親会が設けられているというので、続けて参加。
 相変わらずミーハーなことで恥ずかしい限りだが、『テアトロ』の最新号に掲載されている鐘下さんの新作、島尾敏雄原作の戯曲『死の棘』にサインをしていただく。
 不躾にも(いつものことだ)いくつか質問をしたのだが、『死の棘』執筆の動機について、島尾敏雄がなぜこの小説を書いたのか、そのこと自体に興味があり、長年暖められていた企画であったとのこと。別に最近のサイコな風潮に合わせたわけではないということである。水の中に舞台が浮かんでいるような不思議な美術については、やはり能舞台を意識したとのこと。
 「表現の自主規制」の問題についても、やや失礼な質問をしてしまったが、これにも明快に答えていただいた。「テレビで放送されることがあっても、自分で自分の脚本に規制をかけることは一切ありません」と。この発言が、いかに「創作する者」にとって強みになることか。分かる人には分かることであろう。
 参加数は少なかったが、地元の劇団の方々とも歓談できて、なんかもう、これだけ有意義な集まりにどうしてもっと演劇人が集まらなかったかと腹立たしくなるほどであった。


 11時を回ってなお、会がお開きになる様子もないので、名残惜しくはあったが先に引ける。遠慮する細川嬢を「バス停までは」と無理やり付いていって見送ったが、それは彼女から「最近、道端でAV嬢にならないかって誘われちゃったんですよ」と聞いたからだ。
 いやもう、言葉を選ぶのに苦労するのだが、細川嬢はともかく魅力的な方なので、目を付けられるのも仕方がないというか、そりゃご本人にとってはメイワクなことだろうからあまり何がどうとは言いにくいのだが、世の男ども、それだけに注目してんじゃねえよと腹立たしくなるというか、まあ、そういうことなのである。いや、私はと言えばもちろん細川嬢はもう素晴らしい女性であって、どこがどうと問われればそれはもちろん心身両面にわたってであって、誓ってそれだけに注目してしているわけではないのだが、それにも注目してるのかと問い詰められたならば、注目してると言うのもしてないと言うのもどちらであっても失礼な気がしてうまく答えられないのである(何のことやら分からん人は無視してください)。


 マンガ、夏目義徳『クロザクロ』4巻(小学館)。
 スグリとの戦いで、ついにザクロが実体化。これでやや停滞気味だった展開がよい方向に展開していくのかなあと期待していたのだが、またもやハンター同志の内輪もめで、主人公の幹人君は置いてきぼりになってしまった。
 なんだかねえ、幹人の「人間に戻りたい」って意志があまり強く感じられなくなってるって言うか、もうこのまま傀牙(オーガ)になったって別に構わないんじゃない? みたいなどうでもいい感じになってるからねえ。それくらいすっかり影が薄くなっちゃってるんである。
 脇キャラをたくさん出して人気を取ろうってことなんだろうけれど、あまり魅力のないキャラをポンポン出したって、話が散漫になるばかりである。ゴスロリキャラを二人も出してどうするかね。物語の展開上は御行と萩が入れば充分なのである。
そもそも夏目さんは絵に華があるほうではない。つか、ハッキリと「地味」なのである。同じように絵に華のないマンガ家と言えば、『寄生獣』の岩明均が思い浮かぶが、岩明さんみたいに、絵はまあアレでも、ドラマの面白さがあれば読者を引っ張っていくことは可能なだ。つか、そうしていかないと、お客さんはすぐに飽きてしまうだろう。
 そのことは多分作者自身、痛感してることだと思うのだけれど、3巻、4巻の迷走ぶりは、作者がどんどんドツボにはまっていきつつあるように見えて、不安なのである。
 ハンターたちの「白爪」グループと「黒棘」グループのネーミングが、それぞれ春の七草と秋の七草になってるので、今の「ハンター内輪もめ編」ではキャラがいきなり14人も出て来る計算になるのだが(黒棘は今巻ではまだ三人)、いくらなんでもこんな短期間にそれだけキャラを出すのはちょっとやりすぎである。本当は、霞谷七人衆とか八犬士とか009とか、そのへんの数がいいとこだろう。本筋の話じゃないんだから。
一巻目のころの面白さが急速に落ちてってるのはちょっと残念。

2004年07月21日(水) 座敷わらしの末裔
2003年07月21日(月) うらんでやるわああああっ(^o^)/映画『星空のマリオネット』/『花の高2トリオ 初恋時代』
2002年07月21日(日) アニソンしか歌えないわけじゃないけど/DVD『千と千尋の神隠し』/『吼えろペン』5巻(島本和彦)ほか
2001年07月21日(土) やたら長長文になっちゃいました。すみません/『裏モノ見聞録』(唐沢俊一)ほか



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