無責任賛歌
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2005年05月29日(日) |
だから酒税は今の十倍でも構わないって/『戦国自衛隊1549』Vol.1(半村良・福井晴敏・Ark Performance) |
話題の『エウレカ7』、チラッと見たけど、それほど“引っかかるもの”がない。1話から見たわけじゃないから何とも言えないけど、キャラクターがデザインに凝ってるワリには内面の方が作り込まれてない気がする。もう何話か続けて見てみないとちゃんとした感想は出せないが、ウラの『ゾロリ』とどっちを見るか、迷うところだ。
今日の『仮面ライダー響鬼』は十八之巻「挫けぬ疾風」。 ついに「謎の男」がライダーたちと接触(っつっても会ったのはあきらだけだが)。これがどういう目的だったのかがよく分からない。あきらに「何かした」のか、単なる足止めだったのか。結局オオナマズは倒されちゃったわけだから、足止めだけが目的だったら何の意味もなかったことになる。当然ここは前者であって、あきらの身に今後変化が……って展開になるのが作劇のセオリーってもんなんだけれど、『響鬼』の脚本家陣、あまりそこまで深く考えて脚本書いてない気がしてならないんだよね(笑)。「謎の男」のただの示威行為なんじゃないかな。 しかしここんとこどんどんヒビキの影が薄くなってきてるのはちょっと気になるとこだね。早いとこバイクに乗せたげようよ。
マンガ、半村良原案・福井晴敏原作・Ark Performance漫画『戦国自衛隊1549』Vol.1(角川書店)。 福井晴敏作の小説版も出てたけど、単行本だったので、マンガ版だけを購入。最近はあれこれと出物が多いので、小説は文庫か古本でしか買わなくなってるのだ。映画企画ありきのメディアミックスだから、原作を小説で読もうがマンガで読もうが余り変わらんわな。つか、『亡国のイージス』にしろ『戦場のローレライ』にしろ、福井晴敏の小説って、設定のあざとさと浅薄なイデオロギーが鬱陶しくて、力のある作家さんだってことは分かるんだけど、今一つ好きになれないとこがあるんである。だから思想性なんて皆無の半村良版『戦国自衛隊』(作者本人が「思い付きだけで書いた」とかつて後書きで告白してるんだよな)のリメイクの担当者としては余り相応しいとは思えないんだけど、ほかに角川が頼みにできる作家がいなかったんだろうな。 その福井晴敏の「原作者あとがき」がまたこの人の「眼の低さ」を露呈していて、作画野―の光吉賢司氏を賞賛するのは構わないんだけれども、それがまあやたら「天才」って表現を連発するものだから、かえって「そこまで誉めるほどのものか?」と首を傾げたくなってしまうのである。確かに構成、作画ともに素晴らしいことは認めるんだけれども、「天才」というほどじゃない。そんなこと言いだすなら、マンガ界は天才ばかりがひしめきあってるって。スタッフに関わってる人間が身内をやたら誉めると「誉め殺し」に終わるんで、そういう機微に気がついてないあたりも福井晴敏がイマイチ信用できないことの一因になってるんである。 でも実際、「骨組み」ばかりで小説・映画ともに決して面白いとは言い難かった半村良版に比べると、結構面白くはなっている。 日本各地で発生する謎の虚数空間。このままではこの世界を含む次元空間そのものが無に帰してしまう。その原因は六年前に起きた自衛隊のタイム・スリップにあると判断した技術研究本部の神崎怜は、事件の中心に元陸軍一佐・的場毅が関連していると見抜き、かつて的場の部下であった鹿島勇祐に助力を求める。 ご都合主義的設定や展開は随所にあって、戦国の世での歴史の改変がどうして平成時代にだけ影響を及ぼしているのかとか(「等価交換」ってことだけじゃたいして説得力のある説明にはなっていない)、更に未来からの干渉がないのなら、この事件自体が実は歴史的にたいした影響を及ぼさないってことなんだから、つまんないじゃないかとか(もちろん、宇宙の歴史が平成で終わっちゃったのなら更に未来ってのはありえないわけであるが)、基本的なSF設定がかなり雑なんだが、ともかく『戦国自衛隊』シリーズは「自衛隊が戦国で大暴れする」アイデアの面白さだけを楽しめばいいのだから、SF設定がどうのこうのってのは気にしたってしょうがない面はあるんだよね。 笑っちゃったのは、タイムスリップした的場が、すっかり戦国時代に染まっちゃって、喋り方まで時代劇口調になっちゃってること。「戦国の者共よ、これが我が意の声と知れ」「我が想い、どうやら天も関心事らしい! 事は成った!」「久しいな、鹿島」とか、気取り過ぎである。映画もこんな調子なのかね? まあ、超大作映画かなんかと勘違いしないで、B級SFを楽しみに行くつもりで見に行きゃいいかな、ってな印象なんだよね、これは。
エコ缶さんの練習に参加するので、しげは夕方から外出。 ひとりのんべんだらりとしていたら、父から電話がかかってきた。「明日から入院するぜ」と言うので驚く。 「六月からの予定じゃなかったんね」 「早めたったい。お客さんで、仕事ば続けろって言わっしゃる人もおるけん」 「姉ちゃんは、店はどげんするて?」 「さあ。別にやめるとは言わんごとなったけん、続ける気やなかか?」 なかか、って、ちょいとアンタ。こないだまで店をたたむのなんのと騒いでたのはどうなったんだ、と、ガクッと来たけど、要するに父も姉も仕事は続けたいのである。ちょいとお互いの言葉の“かけがね”が外れかけちゃったんでゴタゴタしたけど、本来、ケンカなんてする必要はなかったのだ。 まだお互いのシコリが解けたわけではないようなので、予断が許される状況ではないのだが、タダで散髪できなくなるのは経済的に結構イタイので、もちっと店は続けていてほしいのである。 ともかく明日の早朝から入院ということなので、荷物運びをしげに手伝わせることを約束して電話を切る。 その直後に、また電話。タイミングよく、今度はしげからだった。今しがたの電話の内容を伝えて、父の入院を明日手伝ってくれないか頼む。 「ああ、それ、ちょっと無理かも」 「どうして?」 「今からよしひと姉さんを北九州まで送っていくことになったから」 「なんでまた?」 「今日、コンサートで博多に来てたんだけど、そのあと飲んでて終電逃したって。帰りは早くても3時は過ぎるから、朝起きるのは無理」 父の手伝いがなくとも、もともと朝起きて私の弁当を作ったりするのは日課だったのだが、それもできそうにないとか。とんだ大迷惑だが、確かによしひと嬢を夜の博多の街にほったらかしとくわけにはいかないから、送ってやらなきゃならないのは仕方がないことではある。しげにしたところで断れる状況ではないことは分かるのだが、どうも釈然としない。いざとなっても何とかなるって甘えた感覚がよしひと嬢に全くなかったと言えるだろうか、ということである。 だから酔っ払いは、といつもの私の言い分を繰り返すことになってしまうのだが、「酒に呑まれる」タイプの人間がなぜ酒を飲むのか、これが私にはどうにも理解できないことなのである。言っとくが私だって昔、大学時代にゼミの宴会で酒を飲んで乱れちまったことはある。しかしそれで自分には酒を飲む資格はないと気づいたから、それ以来、一切酒は飲んでないのだ(挨拶代わりに舐める程度はある)。病気になる以前から、私は禁酒してるんである。 なんかホントに酒飲みの常識は狂ってるよなあと思うのは酒を過剰に摂取すれば中毒症状を起こす薬物と同等のものだという認識に欠けていることだ。飲酒を禁止できないのは、これが既に社会的に廃絶することが不可能なまでに蔓延してしまっているからに過ぎない。ヘタに禁酒した場合、どうなるかはアメリカの「禁酒法」時代、マフィアの暗躍を許してしまった事実が証明している。 適度に血行をよくする効果があるからいいじゃないかとか、そんな言い訳はちゃんと「適度に」飲んでる人間が言わなきゃ説得力はない。「何かあっても責任取れない自分」を作りあげといてそんな言い訳をするのは、「どうせそうそう事故やトラブルなんて起こさないさ」と高を括っているだけで、自らの卑劣さに気づかないかあえてそれに目をつぶっているかのどっちかである。「責任取れない事態」になったあとで悔やんでも遅いが、そういう過ちを犯している人間がどれだけいることか。世の中に確かに宗教は必要だよなあと思うのは、ここまで「罪人」が蔓延していれば、彼らを全て裁くことなど不可能で、結局は「赦す」しかないからである。別に赦したいなんてそもそも「非飲酒派」の誰も思っちゃいないんだが。 それにしてもしっかり者だと思っていたよしひと嬢まで酒に呑まれるタイプだとはなあ。そりゃライブが楽しくて浮かれてたんだろうが、明日の仕事のこともまるで考えてないとは呆れた話である。しげと連絡が付かなかったら、どうするつもりだったのだろうか。道端で寝て過ごすか。どっちかっつーと、ウチに泊まってもらって、朝一番の列車で帰ってもらってた方がこちらは助かってたんだがなあ。 もっとも、その場合、ウチは地震後の片付けがまだ済んでないので、私としげは車で寝なきゃならなくなっていたと思うが、それでもそっちの方がマシなのである。
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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