無責任賛歌
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2005年05月19日(木) |
寝たい眠たい眠りたい/『アタックNo.1』第六話 |
なんか寝不足がかなり酷くなってる。いや、これは地震のPTSDではなくて、原因はまたまたしげである。最近、しげの「ドメスティック・バイオレンス」、いや、「ドメスティック・スリーピング・バイオレンス」が酷いのだ。 ともかく夜中にいきなり寝言を言ったかと思うと、隣に寝ている私をいきなり殴ってくる。今朝も午前2時ごろに「どうせ『欽ちゃんの仮装大賞』に出るっちゃろ!?」と叫んで、パンチで鼻を殴られた。もちろん、その直後にしげはイビキをかきだす。横じゃたまらんと下にさがると足でカニバサミをされて首を締められる。起きてるときに文句を言っても「眠ってるんだから知らんよ」と言われる。ホントか? ホントに寝てるのか!? おかげで職場のイネムリも酷くなってきていて、まずいんだけど。会議中にどうもイビキかいたらしくてよ。周囲の笑い声で起きちまったよ。 誰か私に安眠をください。
昨日の日記で書こうと思ってたけど疲れて寝て書けなかったテレビ番組の話。 『確立10000000分の1!? 世にも不思議な超偶然事件簿!! あれは奇跡? 奇跡じゃないってば!! 世界の奇跡を藤井隆が暴きます』と、タイトル写すだけでいやになるほど長い。番組自体は世界で起こった「奇跡的な事件」が、本当に「奇跡」と呼ぶに値するものなのかどうかを専門家の意見を聞いたり実験したりして検証しようというもの。別に藤井隆自身が何かするわけではない。唐沢俊一さんもチラッと出てたがたいしたコメントはなし。つか編集でかなりカットされてるんだろう。 「奇跡」と言っても、キリスト教国家における「神の奇跡(「奇蹟」と書く場合も多い)」って感覚は日本人には殆どなかろうから、「めったにない出来事」くらいの意味合いでしか使われてないんじゃないか。事故で命が助かっても「奇跡」と簡単に使われちゃうくらいである。私も頭蓋骨骨折の事故で意識不明の重態に陥ったが、「奇跡」的に生還したことがあるが、これだって「運がよかった」「偶然だろう」と言われてもその通りなんで、「いいえ奇跡です」なんて強弁するつもりは毛頭ない。 番組内で伊東四朗も「私と君が出会ったのがそもそも奇跡」となんか恋人を口説く定番な台詞を藤井隆に向かって言ってたが(笑)、つまりは「奇跡」と「偶然」の違いなんてその言葉に込められた「思い」以外には実質的な差異はないのだ。「ただの偶然」だと分かっちゃいても、危機的な状況から身内が生還したりすれば「奇跡」と呼びたくなるのは人情というものだろう。 だから「奇跡じゃないってば」というアプローチの仕方にはどこか粋じゃないっつーか、野暮っつーか、別にどっちだっていいものをムキになって否定しようとする神経症的なニュアンスがあるっつーか、番組製作者の性格の悪さがそこはかとなく感じられてちーとばかしやな印象なのである。まあ泡沫番組にいちいち目くじら立てるのだって粋じゃないけどな。 しかしこういう番組が成立してしまっている、というのは、逆に「奇跡」の概念が若い人たちの間では我々の世代よりも過剰な形で捉えられ、それこそ「信仰」的なものにまで昇華させられているせいもあるかもしれない、という気もしてくる。なんかオカルティックなものを無条件で信じて力説するヒトも決して少なくはないから、いっぺん神秘的な思考に偏りがちな人たちに対してはハッキリと「幽霊もUFOもUMAも永久機関も神様もいないんだよ」って否定してあげといたほうがいいんじゃないか。その意味ではこういう番組のほうが検証なき『ふしぎだがほんとうだ』みたいな『奇跡アンビリーバボー』よりは面白い。欠陥は多々あるけど。 番組で取り上げられてる事件は、オーストラリアで起きたカンガルーの人命救助や、海に落とした指輪がタラの腹の中から見つかった出来事、別れ別れになった恋人が50年ぶりに再開したりとか、このへんは「奇跡」といってもそうたいしたことはない。 けれど、第2次大戦中に5500メートルの高さからパラシュートなしで落下し、ほぼ無傷で生還したイギリス空軍パイロットのエピソードなどは確かに「めったにない」程度の出来事ではなく、こりゃ人々が「奇跡」と驚いたのも納得できはする。もっとも銃撃を受けて墜落している飛行機の中から脱出したとしてもそれが「5500メートル」の高さだったとどうして分かったのか、実際にはもうちょっと低空で飛び降りたんじゃないかって疑問はあるけど。それが確率的に起こりうるのかどうか検証することもさることながら、「その話が本当かどうか」って検証を先にしたほうがいいんじゃないかという気がするんだけどね。「奇跡」を躍起になって否定しようとすると、超自然現象を全て「プラズマ」のせいにしたがる某教授みたいにかえっておかしな事になりかねないと思うんだけどね。
開催中のカンヌ映画祭で、北野武監督の新作『TAKESHIS’』のポスターが話題を呼んでいる。タイトル内容ともに未定で、主演、監督がたけしであることしか分からないが、それでも既にフランス、英国、イタリア、ロシアなど欧州各国のオファーが相次いでおり、 映像を見ないと買わない欧米のバイヤーたちの常識からすると極めて異例なのだそうな。そこまで「TAKESHI」の名前を信頼していいのかって思うけど、実際のところは「ある程度のヒットを見込める作品にはツバつけとけ」って程度のもんではないのかな。 一説には北野監督の次回作は『座頭市2』とのウワサもまことしやかに流れてはいるが、現在、たけしが髪を金髪にしているところからも信憑性がないわけでもない。観客に北野武のどんな映画が見たいか、と問えば大半は『座頭市2』と答えるだろう。でもそういう「守り」の姿勢に北野武が入るものかどうか、いや、入っちゃったらかえってつまんなくなるんじゃないか、ともかくこれまで「タイトルだけ先行していて公開まで情報が抑制されている」作品が必ずしも出来がいいものばかりとは限らない、というジンクスを考えると、過剰な期待は禁物かなって思うのである。なんかいつのまにか「巨匠」扱いされてるけど、映画の出来不出来は結構激しいと思うんだけどなあ。
今日も残業で、帰宅は八時過ぎ。何とか仕事を切り上げたのは『アタックNo.1』第六話を見るためである。 前回からの「富士見学院存続の危機編」が一区切りで、これで取り澄ました校長役の小林幸子も見ずにすむかと思うとようやくホッとできるかな。世の中にはもっと面白いドラマやアニメも放映してるんじゃないか、落語好きなら『タイガー&ドラゴン』のほうをもっと重点的に見るべきじゃないかとか、だんだん見るのが苦痛になってきているけれども、なんとか半分まで付き合ったし、いよいよ来週からインターハイだから。 40年近く前のマンガを現代に蘇らせるったって、どうせキャラクター名以外はオリジナルでやらなきゃ通用するものでもなし、と思っていたのに、鬼コーチと化した本郷の「富士見学院のメンバーに自信をつけさせるために、実業団と練習試合をさせて、わざと負けてもらう」っていう作戦は何なんだろうね。「手加減する」程度ならまだしも、そんな依頼、本物の実業団だったら、ふざけんなって怒るぞ。なのに、事の真相を知ったこずえ以下の富士見の連中、出ていこうとする本郷に向かって「本郷コーチ、私たちが間違ってました!」って涙を流して謝っちゃうんだから、もうこの古臭さというかくだらなさは何なんだろうと思う。 こうなると猪野熊監督には実はやっぱりバレーボールの未来のためを考えていた、なんて道義的な人間としてオチをつけるのではなくて、極めて個人的な、自分の欲望を満たすだけに選手たちを苛める悪辣なサド野郎でいてほしいと思ってしまうんだけど、むずかしいかなあ。
2004年05月19日(水) 鬱陶しい雨の日の、鬱陶しい話。 2003年05月19日(月) すっ飛ばし日記/あるものが見えない女 2002年05月19日(日) 今日は一日寝て本・ビデオ……っていつもや/『Sink』1巻(いがらしみきお)ほか 2001年05月19日(土) 地上の星々/『狼には気をつけて』2巻(遠藤淑子)
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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