無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年05月01日(日) 深まる溝(ずっとヒビキ風タイトルで行こうか)/映画『コックリさん』

 一応、日曜の朝は『かいけつゾロリ』から一通りアニメは見てるんですが、まあハマッてるのは『仮面ライダー響鬼』だけですんで、感想もこれだけ(別に『マジレンジャー』や『プリキュア マックスハート』が嫌いってわけではないです。誰に言い訳してるんだ、オレ)。
気がついたら、オフィシャルサイトを覗いて、「今週の魔化魍は何かな?」とかチェック入れ始めたから、かなり病気は進行しつつあるのである。『ニュータイプ ザ・ライブ』も買うのやめてたけど、また買うかなあ。
 十四之巻「喰らう童子」。サブタイトルは毎回「動詞連体形+名詞」の形を取っているのだが、一話一話だと大して気にもならないが、ズラッと並べていくと、付け方に何だか無理があるような印象。そう感じる理由の一つに、自動詞と他動詞が入り混じってるせいもあると思う。「叩く魂」「呑み込む壁」「喰らう童子」なんて、特に気にならん人もいるかもしれんが、私は気になる(笑)。目的語がねーぞ、目的語が。「叩く魂」とか、「魂が(何かを)叩く」のか、「魂を叩く」のか、迷った。いや、そもそも各話を象徴する「動詞」を探さなきゃならないこと自体、毎回しっくり行くとは限らないわけで、スタッフの苦悩がしのばれることである。
 前回、仲間のヤマビコを喰らってパワーアップした「乱れ童子」。威吹鬼(渋江譲二)の攻撃も物ともせず、あきら(秋山奈々)に襲いかかろうとするが、なぜか鼻先で匂いをかいだだけで立ち去ってしまう。あきらはこないだから“どういうわけだか”この「襲いかかられ」シーンが増えてきてるんですけど、メインのヒロインの座がひとみ(森絵梨佳)からあきらに移りつつありませんか? ヒビキ(細川茂樹)から魔化魍退治にかけずりまわされている学校のことを心配されて、こりゃ大きなお友達の反響、さぞや大きいことでしょうねえ(笑)。なんつーか、こういうおいしいシチュエーションの前には、そろそろ顕在化し始めたストーリー上の様々な疑問が置いてきぼりされている。「こないだまで、平気で人間喰らってた童子が、急に人間に見向きもしなくなったのはなぜなんだよ」とか、どうしても感じちゃうものなあ。いや、裏設定はいろいろあるんだろうが、同じ魔化魍を喰らってくれて人間は食わないんなら、「人間の味方じゃん、倒す必要ねーよ」と、画面を見ている限りでは納得できないものを感じてしまうのだ。
 今回は、入院した明日夢(栩原楽人)と以前、名前だけ登場していたザンキ(斬鬼/松田賢二)が邂逅する新たな展開も(鬼たちは変身前はカタカナで、変身後は漢字で表記して区別しているみたいだ)。彼もまた明日夢のよきアドバイザーとなっていくのだろうか? 「外堀」が少しずつ埋められている感じで、日菜佳(神戸みゆき)もヒビキに「明日夢君なんか弟子にどうっスか?」なんて言ってるし、3クール目に入るころには「修行」を始める明日夢の健気な姿が見られるかも、という期待も高まる。
 逆に、今ひとつ煮え切らないヒビキの情けなさが一話ごとに際立ってきている気も。明日夢が入院していると聞いたときのヒビキの「少年があ?」という声の元気のなさというか、間抜けっぽさというか、まあそれがいかにもヒビキらしくてヨイのである。
 次回は斬鬼も含めて、ひとみのいとこの戸田山(川口真五)も変身するらしい。弦楽器を使うことだけは決定しているようだが、名前から察するに、「音で斬る」パターンになるような気配。最終回は巨大大首領相手にオーケストラかな(笑)。


「映画の日」で、市内の映画館はたいてい千円興行。キャナルシティに出かけたら、AMCの前に長蛇の列が出来ていて驚いた。ゴールデンウィークと重なったとは言え、ざっと見ただけでも200人くらいは並んでいる。しかもエスカレーターを上ってきた人の殆どみんながその後ろに付いていくので、列が途切れる気配がない。館員さんが「『名探偵コナン』は完売でーす」と叫んでいる。親子連れが目立つから、目当てはやはり『コナン』や『プリキュア』なんだろう(『クレしん』はキャナルでは上映していない)。
我々の目当ては『レモニー・スニケットの世にも不幸な物語』だったのだが、今日から公開予定だったはずなのに、3日公開に延期されていた。多分、『コナン』あたりがヒットしているので、同じファミリー映画ということで競合を避けたものだろうか。仕方なく、『コックリさん』を見ることにする。

 映画『コックリさん』。
 『友引忌』『ボイス』に続く、韓国のアン・ビョンギ監督によるホラーシリーズ三部作の完結編、前作の『ボイス』のときも感じたことだけれども、ワンシーンごとの恐怖描写はそう悪くもないが、一本通した幹となるストーリーが今ひとつ説得力に欠けていて、「面白い」と感じるまでには至らない。そのホラー描写も和製ホラーの模倣臭くて、世評と違って私が見る韓国映画はどれもこれもハズレが多い。今や映画は韓国映画のほうがパワーがある、という煽りも、どこまで本当なんだか。
 日本から伝わって流行したとされる「コックリさん」(韓国ではそのバリエーションの一つである「分身様」がなまって「分身娑婆(ブンシンサバ)」と呼ばれる)、日本ではコインを使うのが主流だったと思うが、映画を見る限りでは、韓国では鉛筆をみんなで握る形式が多いみたいである。私も小学生のころ、友達とやったことがあるが、男子が三、四人でこれをやると、必ずイタズラモノがわざと動かしたりしてわやくちゃになるので(「○○はむっつりスケベエである」と言うと、○○以外のやつが一斉に「イエス」にしようとするのだ)つまんなくなるのである。かといって、何も動かさないでいると、当然コインは動かないままなのでやっぱりつまらない。これもただのお遊びでやってただけでマジで信じるやつなんていやしなかったから、あっという間に廃れた。オカルト好きなやつでも、コックリさんに信憑性を感じる人間は、あまりいなかったように記憶している。
 けれども韓国じゃ「ブンシンサバ」は長いブームになっていたようで、パンフレットを見てみても主演陣がこぞって「やってたし当たるのが不思議」とか言っている。だから誰かがわざと動かしてるんだってば(笑)。「遊びの文化」はそれぞれの地域の民俗を探るための原点であるので、感覚的な差異はそのまま基本的なところでの「文化の違い」を象徴することになる。この映画になかなか入り込めないのも、「こんな幼稚な遊びに熱中してること自体、そもそもヘンだし、実際に呪いが発動しちゃうのも映画を成立させるための無理やりな展開で、乗るに乗れない」という感覚が生じるせいなのだが、結局これは「お国が違うから」と納得することしかないことで、文句をつけたって仕方がないことでもある。鉛筆が勝手に○や×を描くシーンが少しも怖くないどころか、笑っちゃいたくなる感覚は、韓国人には薄くて、結構みんな真剣に見入ってしまっているのだろう。
 『ボイス』のあの子を、ああいう形で出すというのも何がやりたいんだかよくわかんないんだけどねえ。ヒロインはみんな美人なんだけど、「女子高生」役者が軒並み二十歳過ぎってのは、いくらなんでもちょっとなあ。コスプレだ、あれじゃ。


 日本映画専門チャンネルで映画『大誘拐』。岡本喜八特集の一本である。
 大ヒットもし、後期の岡本監督の代表作のように言われつつも、往年の脂の乗り切ったころの傑作郡に比べると見劣りするとも批判されている本作。私も、公開当時に見に行って、「虹の童子」の車の出現シーンが全然かっこよく撮れていないところや、ラストでお山を見つめるとし子刀自をどうしてアップにしないのかとか、往年の岡本演出を考えれば、明らかに年齢による衰えを感じて寂しく思ったものであった。しかし、今回見返してみてもう一つ思ったのは、この映画に対する「イマイチ」感は、やはり「役者の違い」によって生まれている、ということである。同じカット割り、同じギャグであっても、これが60年代東宝映画の役者陣で演じられていたら何倍、何十倍面白かったろう、と思わせるものが多いのである。
 井狩警部役の緒形拳、これを『殺人狂時代』のころの仲代達矢が演じていたらどうであったか。緒形拳に風格がないとまでは言わないが、仲代達矢が演じておれば、その茫洋とした演技がかえって見えない犯人との間に緊迫感を醸し出しえたのではなかろうか。健次役の風間トオル、これを『肉弾』のころの寺田農に演じさせられたら、若いというだけでは収まりきれない命のほとばしりのようなものを感じさせて、役にもっとハマっていたのではないだろうか。ヘリの操縦士の高野、本田博太郎の演技はわざとらしすぎやしないか、同じ演技をさせたとしても、『独立愚連隊』のころの佐藤允だったら、「粋」に演じてくれたのではないか。橋本功の刑事も「フガシね!」と繰り返すあたりは力みすぎだ、これが堺左千夫か大木正司だったらもっとサラリと演じてもっと笑いが取れるはずだぞ、などと、いちいちどうしても考えてしまうのだ。嶋田久作の「東京」など、こういう下っ端のコメディ・リリーフならば、『ああ爆弾』の砂塚秀夫が演じるべき役だろう、と言えば、納得してくれる喜八ファンも多いはずである。
 主演の北林谷栄ですら、ハマリ役ではあるのだが、撮影時は年を取りすぎている、と感じていた。企画が立てられていた十年前に“ちゃんと”この映画が撮られていたら、もっと台詞にも演技にも切れあっただろうと思わざるをえないのである。正直、岡本映画のリズムを体現していて安心して見られたのは、くーちゃん役の樹木希林くらいであった。
 「もしもあの人が……」という仮定は、いずれももはや望むべくもない夢の話であり、日本映画の力が一番低かったころにこの映画が作られたことを考えれば、映画が完成したこと自体を慰めとして、その出来如何については諦めるしかない。つくづく岡本監督に映画を“撮らせないでいた”当時の日本映画界を恨みに思うことである。
 こんなことばかり言ってると、『大誘拐』がすごくつまんない作品のように聞こえるかもしれないけれど、岡本監督リスペクトを公言している庵野秀明監督の『キューティーハニー』、樋口真嗣監督の『ローレライ』に比べりゃ、はるかに面白いのである。エンタテインメント映画としての岡本作品は、一等劣るものであっても充分に面白い、そのことを強く指摘しておきたいのである。
 

 夕方に父から電話。急に食事に誘われる。
 本当はシネリーブルで『獣人雪男』を見に行く予定だったのだが、仕事を続けるか店をたたむかで姉とモメてる最中なので、無碍に断るわけにもいかない。東宝特撮映画で見損ねている映画はもうこの『獣人雪男』一本になってしまったが、また見る機会を逸してしまった。もしやと思って念のために父を誘ってみたが、やっぱり断られた。
 もっとも、昨年、私が入院したときには、父に博多座の「北島三郎ショー」のチケットを無駄にさせてしまった経緯があるので、文句も言えないのである。
 「ビッグ・ボーイ」で父、私、しげの三人でミックスグリル。本当は姉も交えて話が出来ればとちょっと期待していたのだが、父は私と姉を合わせようとはしなかった。姉は店の片づけで置いてきぼりである。これは姉に気を悪くしろ、と言っているようなものだ。
 父は「会っても話をしてくれる状態じゃない」と言うのだが、本当なのかどうか。父の話だけを聞いていると、姉がすっかり仕事をする気が失せてしまったように聞こえるのだが、そこまで姉が無責任だとも思いにくい。だいたい父は自分では首尾一貫したものの考え方をしているように思い込んでいるけれども、結構その場限りの適当なことを言い散らすことも多いのである。どうせ、「それを言っちゃおしまいよ」的な暴言を吐いて、そこから姉との溝が深くなっていったってことだろうな、と見当はつくのだが、だからと言って父が会わせようとしていないのを私がこっそり会うようなことをすれば、父がまた拗ねることも分かりきっているのである。おおまんなくせに細かいところにこだわる癖があって、そこが生前の母にも「お父さんは何であんなにしつこいかね」と非難されていたところなのである。
 散々愚痴を聞かされたあと、マンションまで父を送って帰宅。全く、姉が来ないのなら映画に行きゃあよかった。ぶつぶつ。

 夜中に地震。震度3。だから寝られないって(涙)。.

2004年05月01日(土) 東京の夜は更けて(2)/小鹿番さんの死去と、またまたテンパる妻。
2003年05月01日(木) メモ日記/淡白なメールの夜。
2002年05月01日(水) 疲労度の爪/『コミック伝説マガジン』No.6ほか
2001年05月01日(火) 実は某大学推理研OBです/『チーズはどこへ消えた?』(スペンサー・ジョンソン)ほか



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