無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年04月29日(金) 昭和の日。/映画『Shall we Dance? シャル・ウィ・ダンス?』

 えーっと、天皇誕生日……ってんじゃなくて、みどりの日? おクニのほうでは「昭和の日」って変えようって動きがあるようだけれど、その伝でこれからも「平成の日」とかどんどん休日を増やしてくれるつもりなのかね。「Yahoo」の投票でも「みどりの日のままでいいじゃん」という意見が圧倒的に多いようだけれども、こういうことをするから、日本は右傾化してるとか誤解を招くんである。右傾化してるように見えるけれども右傾化してないよというアプローチのつもりかもしれないが、やり方がヘタだ。なんか「なしくずしにやる」って形が多いようだけれども、根回し足りないんじゃないか。まあ私は昭和天皇の誕生日なんだから、昭和の日以外の名称をつけてる現在のほうが欺瞞だよなあとは思うけれども。ついでに「○○節」も復活させたらいかがかな?(笑)
  
 連休の始まりであるが、昨日一日走り回っていたおかげで、今日は体の節々が痛い。一日ほとんど寝てDVD見て本を読んですごす。

 DVD『80デイズ』。
 ジャッキー・チェンのDVDは出るたび買わなければならない宿命になっているので、映画としてはどうか、という批判も多い本作も購入。でも往年のデヴィッド・ニーヴン主演版『80日間世界一周』のような大作を期待するから批判も出るわけで、B級エンタテインメントとして割り切ってみれば、決してつまんなくはない。それにこれ、LIMBのタダ券で購入したから、お金は一銭もかけてないのよ。特典映像と吹き替え音声が付いているだけで満足である。
 未公開シーンの中には、映画冒頭でのジョン・クリーズの出演シーンもあり。これがなけりゃ、ラストでどうしてクリーズが再登場してくるのかが分からないので、このカットは腑に落ちないところである。
 吹き替えは声優陣と、ゲスト役者との演技の落差が激しく、こういう吹き替えがまかり通るのなら「客寄せパンダの役者起用は止めろ!」の声が高まっても仕方がないと思える。フォッグに扮し原田泰造がともかく聞いていられないくらい下手糞。今や封印されて幻となった『スター・ウォーズ』テレビ版初吹き替えに匹敵するくらいの棒読みである。ジャッキー・チェンの石丸博也さん、合わせるのが大変だったろうなあと涙もちょちょぎれる。
 逆に言えば、宮崎駿の役者起用が決して「客寄せ」のためではないということが、まんま客寄せなこういう映画との対比で理解できるのである。世の宮崎駿バッシング、やっぱり「やっかみ」が入りすぎてるよなあ。


DVD『ゴジラ ファイナルボックス』を買ってしまったので、もう何十回見たか分からない『ゴジラ』シリーズを、一作目から順番に見ていくことにする。何度見返しても新しい発見があるのが「名作」たるゆえんだろう。
 とは言え、「第一作以外のゴジラをゴジラとは認めない」というコアなファンの付いている映画『ゴジラ』にも、欠点はいくらでも見受けられる。映画が神格化されてしまうと、良きにつけ悪しきに付け、批判自体がしにくくなるもので、半可通なオタクのちょっとした底の浅い批判などは一蹴されてしまう。「新作のゴジラ映画に比べてテンポが遅い」なんていうのは馬鹿もはなはだしく、若い役者には演技の密度が薄く、観客も演技を見抜く力が衰えているので、早いカット割りで誤魔化すしかなくなっているのである。コメンタリーでは宝田明が「志村喬や平田昭彦の演技プランがいかに綿密であったか」を語っているので、参照していただきたいものである。
 そういう感覚的な批判(印象批評は批評の出発点でしかないのだが、そういう基本も今の評論家やオタクは体得していないのである)ではなくて、映画の構造上のミスを挙げれば、例えば大戸島の「ゴジラ」伝説がネーミング以外にドラマにまるで関わっていないとか、志村喬の語る「ゴジラ保護論」も、言葉で語られるだけで、同じくドラマを盛り上げる葛藤としての役割を果たしていないとか、いろいろあるのである。私がこれまで読んだ『ゴジラ』批判の中で少しは納得できたのは、富野由悠季の「本編の演出が特撮シーンのことを全く考慮していない」というものであった。これは単純に「ゴジラとの目線が合っていない」「怪獣と人間との比率がおかしい」ということだけではなくて、普段の芝居を演出する際に、背景に「怪獣が本当に存在している」という実感を持って演出することができていない、ことを指しているのだろう。もっともそれが出来ている怪獣映画なんて、皆無に等しいのだが。
 瑕瑾はあれども、第一作『ゴジラ』がシリーズ中、唯一の傑作であり、オリジナルとしての価値があることは間違いないことで、「今見るとつまらないですよねえ」なんて言っていっぱしの批評家気取りになっているエセオタクとはもう私は話をしたくもないのである。
 ……とか言いながら、私も今回コメンタリーを聞いていて初めて気づいたことも多く、例えば電車の中でゴジラのニュースを知って、「いやねえ、また疎開しなくちゃいけないのかしら」とか暢気なことを言っていた女性(東静子)、ゴジラが初上陸するときに東京湾の遊覧船上で暢気に踊っていたのである。これはゴジラなどという荒唐無稽なものに対して、一般民衆が実はたいして気にも留めていなかった、という具体的な描写であり、だからこそいざゴジラが上陸してきたときに電車は動いているわ民衆は今更のように逃げ惑うわ、という「何でみんな逃げてないんだよ」という批判に対する答えにもなっているのだ。この第一作に限って言うなら、民衆が逃げ惑う描写は決して不自然ではない。
 あと、クレジットされてないので気がつかなかったが、冒頭の通信室のシーンで、藤木悠がチョイ役出演していた。こんなん気づかんわ(笑)。

 
テレビ民放で、平成3年月曜ドラマスペシャル、古谷一行主演の『八つ墓村』再放送を見る。これは本放映時に見逃していたもので、多治見辰也が鶴見辰吾、要蔵がジョニー大倉、春代が浅田美代子、久野医師が戸浦六宏、森美也子を夏木マリが演じているもの。
 もう何度となく原作の出来の悪さには言及しているので、どう映像化したって面白いものにはならないと分かった上で見てみたのだが、ちょっとびっくりしたのは、他の映像化の際には無視されることの多かった辰也の実父の行く末、それと犯人の最期が原作通りだったことである。これと市川崑版の『八つ墓村』を程よくブレンドすれば、原作の忠実な映像化になるのだが。どっちにしろ、真面目に映像化したら、どうしても四、五時間の大作にはなっちゃうので、今後もそんな映画が生まれることはありえないだろうけれどもね。
 

リニューアルになってから第三回目の『ドラえもん』、前後編30分ぶっ通しでの「どくさいスイッチ」のアニメ化というのは、「『ドラえもん』はのび太の言うままに道具を与えてばかりで教育上よくない」という批判をかわすためか、リニューアルで視聴率を落とすまいという判断から原作の名作をつるべ打ちで行こうという判断からか。来週放送予定作品が「成長した星野スミレ」が登場する「オールマイティーカード」だってことからも、後者じゃないかという気がする。
 職場でも「新声優はだめだ」とか騒いでる若い子がいて、独りよがりなオタクは少しは言葉を慎めよ、とも思うのだが、スタッフはどうせそんな雑音なんぞ気にもしてないだろう。『ドラえもん』も含めて、声優陣に対する「合ってる合ってない」論議に参加する気に私が全くならないのも、そういう雑音は番組が継続さえすれば自然に消えるからである。だいたい、「印象」だけで言うなら、石田国松、初代磯野カツオ、のらくろ、神勝平と大山のぶ代の声に親しんできた身にしてみれば、「ドラえもん=大山のぶ代」というイメージは私には(恐らくは私と同世代の『ドラえもん』第一世代の殆どにも)全くないのである。特に初期の大山のぶ代は、「ドラえもんの皮をかぶった国松」にしか聞こえなかった。
 正直、これまでさほど代表作のない(失礼)水田わさびさんのほうが、「機械だけれども親しみやすい声」という点で、よっぽどドラえもんに合っているように聞こえる。藤子・F・不二雄まんがの主人公は、旧『オバケのQ太郎』の曽我町子以来、代々「ちょっとダミ声」な人が演じるのが伝統になっているが、水田さんの声は新『オバQ』や『チンプイ』を演じた堀絢子さんの声質に近く、ちゃんと伝統を踏まえていると言える。「新声優許せん」の声は、ただの思い込みでしかない。個々人の印象批評がいかにアテにならないか、ということなのである。
 これはもう藤子Fファンとしてはっきり言っておいたほうがいいと思うので言うが、キャラデザイン、脚本、演出を含めて、今回のリニューアル版『ドラえもん』が、原作に最も近い『ドラえもん』であると言える。いや、藤子作品の映像化としても、格段にいい。みんな、新『ドラえもん』を“本気で”応援しよう。


夜、キャナルシティAMC13で、映画『Shall we Dance? シャル・ウィ・ダンス?』。
 周防正行監督によるオリジナル版『Shall we ダンス?』が公開されたのは1996年。もう9年も前になる。ダンス好きのしげと当然のごとくに劇場まで足を運んだのだが、そのときは「俺たちも社交ダンス習おうか?」と二人して盛り上がるほどに感動した。けれど、今回のハリウッドリメイク版では、そこまでの感動は持ち得なかった。これは映画の出来が云々というより、やはり文化の違いであろうと思う。
 もうこれもハッキリ言っちゃうが、オリジナル『Shall we ダンス?』は、社交ダンスにハマッた「オタク映画」であったのだ。確かに役所広司もリチャード・ギアも、ダンスを始めたきっかけはダンス教師であるヒロインの憂い顔であった。しかし、いったんダンスにはまってしまったら、家庭もダンス教師もどうでもよくなって、「自分の趣味に走る」のが役所広司のサラリーマンであったのだ。これを「オタク」と呼ばずして何と言おう。今思うに、オリジナル版は、「全ての日本人の男のオトナにはオタク要素がある」と喝破した作品でもあった。だから女性が「オタクなんて嫌い」と思うことは、「一生、男なんて要らない」というに等しいのである。
 断言しよう、日本人の男は全てオタクかオタク予備陣である。
『オトナ帝国』のチャコとケンに感情移入する人間は確実にオタクであろうが、それと同じ感覚で、我々は杉山正平を応援していたのである。杉山は、「やっぱりおうちが一番」と、薔薇持ってスーザン・サランドンに再プロポーズするような軟弱なナンパ男ではないのだ。
 まあ、リメイク版もそう悪い映画ではないと思う。けれど、オリジナル版を見ずに今度のリメイク版から見ようと仰る方には、「日本映画のほうが面白いよ」と言っておきたいのである。客に言えば、オタク嫌いで表面的なロマンスにだけ惹かれる人は、リメイク版のほうが面白く見えるかもね。

2004年04月29日(木) 旅行前でも駆け込み映画鑑賞&ポエムの日々。
2003年04月29日(火) メモ日記/メモ日記な夜。
2001年04月29日(日) 涙涸れるまで語ろう/DVD『新しき土』



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