無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2002年02月14日(木) 夫でも義理チョコ。……夫だから?/アニメ『七人のナナ』第6話/『金田一耕助の帰還』(横溝正史)ほか

 ははは、バレンタインだ、バレンタインだ。
 進駐軍のバレンタイン少佐が、飢えた日本の子供たちにチョコレートを配った日だ(c.ゆうきまさみ)。
 しげからは一応、例の高さ10センチの「円柱」チョコをもらったが、包丁で切ってもカケラが出るばかりで、うまく食えない。
 舐めるしかないのか、こいつは。
 でも其ノ他くんがもらったという、直径20センチの「チョコボール」もらうよりはましかもしれない。……もうそれって既に「バレンタインチョコ」の範疇を越えてるって。
 ともかくその「ボールチョコ」に比べるとちっちゃい「円柱チョコ」、義理チョコのうちの1個なんだけど、「義理」っつーより「量産型」と言ったほうが相応しいような気がしたぞ。
 全く、これだからオタクは(+_+)。


 昨日よりは少しはマシだけどやっぱし眠い。
 薬がホントによく利いてるわ。
 でもだったら血便もそろそろ止まってほしいもんだが。
 相変わらず、出ちゃ止まり、出ちゃ止まりの繰り返しなんである。
 おかげで、トイレの便器、すっかり血塗れで、っつーか、血塊がこびりついていて、取るのにひと苦労するのである。しかも、何度拭いても、次の日にはまた血便が出るので、結局、エンドレスになっちゃうんである。
 今日もしげから「血を拭けよ」と命令されるが、こっちも気がつかないことはあるのだ。それより何より、汚れてたら自分が拭こうって発想はないのか、この女には。


 晩飯はまたまたまたしげの誘いに乗って、「一番カルビ」。
 てっきりまた肉が目当てかと思ったら、「白玉黄な粉ソフトクリームが食べたいとよ」。なんだ、今日はデザートがメインか、と一瞬そう思ったが、でもそれは別に「肉を食べない」という意味ではなかったよな、と気がつく。
 いつもいつも「肉が食いたい、肉が食いたい」だと、ホントの餓鬼のように思われると表現を変えたかな?
 でも「目的物」をカモフラージュした気になってて、実は全くそうはなってないってのが、いかにもしげらしい。
 でも席に座ってみると、しげの目当ての「白玉黄な粉ソフトクリーム」は期間限定商品でもう作っていない。
 今の限定商品は、「いちごソフト」である。
 実は私も「白玉黄な粉」、ちょっとほしいなと思ってたのだが、ないなら仕方がないと、「いちごソフト」を注文。
 ……あとで気付いたが、品がなけりゃないで、別に無理に頼む必要ないんじゃんか。そんなに「白玉黄な粉」に惹かれてたのか、私。
 これじゃしげを笑えんなあ。

 セット頼むより単品の方が安上がり、とロースにホルモン、鶏もも肉といつもの定番を注文。でもこれも定番だが、赤身肉はよっぱりしげ一人が、ほぼその全てを食いつくした。
 しげが食い終わって「おなかキツイ」とうめくのもいつもの定番。
 そりゃ、肉は三人前頼んだしな。で、全部食ったしな。胴回りが2倍になるのも当然だよな。
 精算時にまた2割引券もらったので、そのうちまたしげに誘われるだろう。
 しげの「肉ロード」は永遠に続くのである。


 アニメ『七人のナナ』第6話「受験番号623! 深夜ラジオで大騒動」。
 まあ、623(ムツミ)が326(ミツル)のパロだってことはわかるけど、DJとかやってんのかな? ただのイラストレーターかと思ったけど。
 ともかく6話まで見てきて、今川監督、ありとあらゆる「受験ネタ」をやりたいんだな、ってことが見えてきた。
 受験の時期って、なぜか深夜ラジオにハマるんだよねえ。今の学生がどうかは知らないが、私は「谷山浩子のオールナイトニッポン」と「アニメトピア」がココロの友だった。……なんてオタクの定番(^_^;)。
 今はあまり聞かなくなったよなあ。ラジオまでチェックしてたら、本気で寝る時間がなくなっちまうし。おっと、先にストーリー紹介しとかないと、何のことやらわけがわからんな。

 抜き打ちテストで赤点、教頭先生からイヤミを言われて落ち込んでしまったナナ。
 深夜、気分転換にラジオを聴いていると、人気DJ623の番組の中で、「Y・K」君という男の子からのFAXが紹介される。
 なんとそれは、ナナのことを励ましている内容だった。もしかして「Y・K」って、「優一・神近」?
 嬉しさのあまり、ナナは番組に「Y・K」くんへの感謝の返事を送るが、623がついうっかり「鈴木ナ……」と本名を呼んでしまったために、深夜ラジオを聞いていることが教頭先生に知られてしまい……。

 後半、ナナが「受験生はみんな同じ思いをしながらがんばってるんだ」と切々と語るシーン、今川監督としては感動的なものにしたかったのかもしれないけれど、 残念ながら「泣かせる」演出って、実は今川監督、そんなに得意じゃない(本人がどうやら得意だと思ってるらしいところは勘違いも甚だしいんだけど)。
 演出過剰、ご都合主義、つまりは「やりすぎ」て白けるってことなんだよね。『ジャイアントロボ』も毎回感動の押しつけで、7話も続くと、ちょっとばかし食傷気味になって、泣く気も起こらなくなってた。
 今回も、ナナに「決め」のセリフを喋らせようって意図は判るんだけど、そこまでの展開がいささか強引。さっきまでできなかった数学の問題が、ちょっと「やればできるよ」と言われただけで、ホントにいきなりできるようになるし。
 ……プラシーボ効果ってことなの?
 んな妙ちきりんな展開されても客はついてこれねーって。誰も今川監督に「感動もの」を作ってもらおうなんて考えちゃいないんだから、素直に「アニメ界の島本和彦」を目指してほしいもんである。

 あと、エンディングで623の声優が「?」になってるけど、石田彰じゃないのか。神近くんと二役で。イントネーションがそのまんま「歌はいいねえ」とか言い出しそうだったぞ(^^)。


 CSで『キャプテンウルトラ』『サクラ大戦』『南くんの恋人』『パワーパフガールズバレンタインスペシャル』と立て続けに見るが、これ全部の感想書いてたら字数オーバーしちゃうので省略。
 来週の分に2話まとめて書けたら書こう。
 まったく、毎回どうしてこんなに書きまくってんだろうかね。


 横溝正史『金田一耕助の帰還』(光文社文庫・680円)。
 あああ、横溝の横溝の、金田一の金田一の未読短編を読める日がまさか来ようとは……!
 21世紀万歳!(何のこっちゃ)
 実際、今年は横溝正史生誕100年。ということは亡くなってもう21年も経っちゃったのか。
 横溝正史死去を聞いた途端、
 「おおお、『女の墓を洗え』は!? 『千社札殺人事件』はどうなるの!?」と思ったものだったが、ついに予告されていたそれらの新作は、書かれざるままに終わってしまった(T-T)。
 横溝正史が恐ろしいのは、古稀を迎えてなおその創作意欲が衰えないばかりか、レベル的にも『悪霊島』のような、細部に至るまで目の行き届いた佳作を執筆していたところで、『象は忘れない』みたいな腑抜けたものしか書けなくなっていたクリスティーをはるかに凌駕している。
 まさしく、名実ともに「探偵小説の鬼」だったのである。
 だからこそ、社会派推理全盛の昭和30年代、横溝氏が意気消沈していたことが今更ながら悔やまれる。遺作と言われている『上海氏の蒐集品』だって、この時期に既に書かれていたまま、雑誌掲載のアテがなかったものだ。
 ああ、この時期「探偵小説のロマンは消えていませんよ!」と横溝正史を叱咤激励する編集者がいてくれたら……。
 だから、私はたとえラリってるトンデモ野郎でも、角川春樹は大好きなんである(お近づきになりたくはないが)。
 彼がいなければ、『仮面舞踏会』『迷路荘の惨劇』『病院坂の首縊りの家』『悪霊島』の、晩年の四作、横溝長編の中でも上位に位置する長編群は生まれなかった。
 ギリギリではあるが、なんとか間にあった。
 そして、現在の、横溝ブームを源流とする新本格ブーム、更には『金田一少年の事件簿』以降のマンガのミステリブームも当然、起こりえなかった。
 ……コラ、そこの「コナンくん萌え」のオタオンナ、君のオタクライフは、それくらい横溝正史と角川春樹の恩恵の上に成り立ってんだぞ、「えーっ、でもそんなムカシの作品なんて難しそうだしー」とか言わないで、原作読みなさい。
 『本陣殺人事件』『蝶々殺人事件』『獄門島』『夜歩く』『八つ墓村』『犬神家の一族』『悪魔が来りて笛を吹く』『不死蝶』『女王蜂』『白と黒』『悪魔の手毬歌』、どれ一つとして駄作はない。JETのマンガなんかで代用させるなよ。

 この『帰還』は、一度短編として発表されたものの、後に長編化されたために、全集にも文庫にも収録されていなかったものを探し出して収録したものだ。横溝作品は手に入るものはなんでも、それこそ角川文庫はコンプリート、時代小説・捕物帳に至るまで読みまくった(でもまだ『朝顔金太捕物帳』とかは読んでない)私だが、さすがに原型作品は雑誌を捜すしかなく、2、3篇しか読んでいない。
 こんな企画が通る日がまさか来ようとは、本気で生きててよかった。つくづくそう感じる。
 確かに長編版に比べれば完成度は落ちるのだが、それでも『壺の中の女』(長編版は『壺中美人』)のトリックが違っていたりと見所は多い。
 『毒の矢』『渦の中の女』など、今のネット環境のチェーンメール、迷惑メール
の問題を先取りしている。昭和30年代の作品でありながらモダンなのである。
 金田一耕助シリーズは、一般的には岡山県を舞台にした地方モノの人気が高いが、実は彼の特徴の一つとして、「都会の孤独者」って面が明確にある(そりゃあんな汚らしい和服姿でいちゃ、都会じゃ浮くわな)。
 この短編集に収められたものは殆どが東京ものだ。
 都会の奇を猟る、まさしく初期の明智小五郎にも通ずる金田一耕助の、テレビや映画のイメージとは全く違った「本当」の姿を、堪能してもらいたい。

 解説の書誌もなかなかキチンとしてるのだが、『支那扇の女』は同タイトルの短編が原型、と書いてあるのはちょっと違う。
 もともとは『ペルシャ猫を抱く女』(「キング」昭和21年7月号)という短編があって、それが、
 →『肖像画』(「りべらる増刊」昭和27年7月号)
 →『支那扇の女』(「太陽」昭和32年12月号)
 →『支那扇の女』(東京文芸社刊/昭和35年7月)
 という過程を辿ったものだ。これは既に中島河太郎氏の研究で判明していたことだし、解説の浜田知明氏も先刻承知の事実なのだから、ちゃんと記載しておくべきである。
 ……横溝オタクは多いからな、こういうことにはちゃんとしとけよ、光文社。


 マンガ、久保田眞二『ホームズ』2巻(集英社・620円)。
 あ、考えてみたら、1巻はネットカフェで読んだんで買ってないや。
 しまったなあ、買わなきゃならんかなあ。
 ムードはいいんだけどねえ、ホームズのキャラクターもいかにも「らしい」し。もっともそれは作者の力っつーより、ベースにしてるのがNHK放送のジェレミー・ブレット主演版だからだろうけど。
 とゆーか、この作者、そのテレビ版しか見てない可能性だってあるな。
 今回、ついにあのモリアーティ教授が登場するんだが、彼を「赤毛連盟事件の黒幕」としたのは、そのNHKのグラナダテレビ制作版なんである。その設定をそのまんまこのマンガでも踏襲してるけど、その一点だけでも版権が生じないかなあ。
 ……黙ってりゃわからんか。
 あ、でも巻末の口絵のホームズはピーター・カッシングっぽい。
 いっそのこと、1巻ごとに別俳優のホームズを登場させるってのはどうだ。
 ウィリアム・ジレットのホームズ、ジョン・バリモアのホームズ、ベイジル・ラスボーンのホームズ、クリストファー・リーのホームズ、ピーター・クックのホームズ、クリストファー・プラマーのホームズ、イアン・リチャードソンのホームズ、チャールトン・ヘストンのホームズ、ロバート・スティーヴンスのホームズ、ニコル・ウィリアムソンのホームズ、岸田森(これが言いたかった!)のホームズ。

 ミステリとしては、今回もまあこんなもんかいな、という程度の出来。
 まあ、当時のイギリスの雰囲気をマンガで味わうって考えた方が楽しめるかな。
 けど、喋ってる言葉は英語のはずなのに、“Lucifer”をどうして「ルチフェル」と発音するのだ。敬虔なクリスチャンは日常でもラテン語を使うのか?
 「リュシファー」か「ルシファー」って発音しろよ。

 ……関係ないが、多分、生え抜きのシャーロキアンならば、今、アフガンあたりに取材に行ってるジャーナリストに知り合いがいたら、帰国するのをウズウズとして待っていることだろう。
 もちろん、「君はアフガニスタンに行っていましたね?」と言うためである(言わずもがなだが、ワトスン博士はホームズに会う前に軍医としてカンダハルに着任してるんである)。
 

 マンガ、佐藤マコト『サトラレ』2巻(講談社・530円)。
 きわどいシチュエーションで毎回よく描いてるよなあ、佐藤さん……と思ったが、この話って基本のストーリーラインは「相手にバレないようにことを運ぶ」って昔ながらのシチュエーションコメディなんだよね。
 「自分が魔法の国の王女様であることをバレないようにする」
 「自分の婚約者がニセモノであることをバレないようにする」
 「自分の家がホントは貧乏であることをバレないようにする」
 でも『サトラレ』が面白いのは、その「バレないようにする」ってのが、本人が懸命になってるんじゃなくて、周囲が、しかもその「本人のために」行おうとしてるってことだろう。
 だから物語の印象がとても「優しい」。
 しかしそれはこの物語を成立させる重要な要素であると同時に、物語を根底から破壊してしまう危険すら孕んでいる。

 里見健一も、木村浩も、星野勝美も、大槻翔も、片桐りんも、西山幸夫も、自分がサトラレであることは知らされてはいない。
 もちろんそれは彼らが「天才」であり、社会的に保護される価値があると見なされているからである。
 しかし、それはあくまで「政府」や「自治体」「会社」などの組織の論理なのであって、そういった「天才性」を抜きにして彼らサトラレを守ろう、とする周囲の人々の活躍によって物語は紡がれていくのだ。
 それはまさしく、映画版を見たときにはクサイな、と思った「サトラレだって人間です」というセリフ、彼らにたとえ「天才」という価値がなくたって「人間」という価値がある。そこに物語の論理が依拠しているからにほかならない。
 だからこそ、ここに最大の問題も生じてくるのである。
 「サトラレ」が「人間」ですらなくなったらどうするのか?
 つまり「人間」としての価値すらなくしてしまったら。
 大槻翔が「殺意」を抱く物語、話は随分あっさりと終わってしまったが、これ、そんなに簡単に結末つけられるテーマではないのではないか。
 「サトラレ」が天才ではなく「ただの人」であったら、あるいは「人でなし」であったら、それでも「彼らを守る」物語は作れるのか。
 ……ただのシチュエーションコメディで終わらせるにはちょっとハード過ぎるモチーフを内包している。でもそのことに作者自身、すでに気付いているはずだ。だから、里見健一と木村浩という二人のサトラレをついに「接触」させた。
 果たしてこの結末はどうなるのか。

 木村浩が自分のことをサトラレであると知る物語、あるいは西山幸夫と小松洋子の間に生まれた子がサトラレであった場合、洋子は夫と子供のどちらを選ぶのかという物語。
 その二つの物語のどちらかが、このシリーズの最後になるのだろう。
 単純に考えれば、この物語の結末は悲劇でしかありえない。
 しかし佐藤さんがここまで描いて来たのはすべて彼らサトラレを「守る」物語だった。
 だとすれば、どんなに乗り越えることが困難な設定であっても、決してアンハッピーエンドにはしないという決意をしているはずだ。
 その決意に揺るぎがないことを願う。

2001年02月14日(水) だから初心者なんだってば/『わが師はサタン』(天藤真)



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