無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年02月05日(土) 『九州発言者塾 第一回シンポジウム 日本国に自立・自尊は可能か』/ドラマ『古都』

 だーかーらー、「眞野裕子」「ヌード」で検索して来ても、何の情報もないっつーてんの!(+_+) ……やっぱさー、これだけパソコンが普及してネット人口が増えたのって、そりゃ、ビジネス上の理由とかもあるんだろうけれど、アダルト系が目当てってのも相当高い率であるんだろうねえ。小学生のパソコン普及率も高くなってるけど、「とりあえずパソコンさせときゃ時間潰してくれるから」なんて放任するんじゃなくて、「親が必ず一緒に使う」ってのを最低条件にしないとイカンと思うよ、古臭い道徳観かもしれないけどさ。


 昼から天神・アクロス福岡へ。
 『九州発言者塾第一回シンポジウム 日本国に自立・自尊は可能か“防衛・外交そして教育”―講演と討論―』を聞きに行く。しげも誘ったんだけれど、「他人のお喋りずっと聞かされ続けるのはイヤだ」と断わられた。いや、それが「講演」なんだけど(^_^;)。
 出席者は九州大学教授の清水昭比古氏、月刊『発言者』主幹の西部邁氏、漫画家の小林よしのり氏、作家の佐藤洋二郎氏。
 いろいろ物議を醸しまくっていらっしゃる方々ばかりですが(^o^)。こういう講演を聞きに行ったとなると、すわ「こいつ信者か」とか「コヴァか」とか白い目で見られてしまうのだけれど、別に私ゃ右でも左でもござんせん。つかもう、今の時代、右か左かって区分け事態があまり意味なくなってきてるなあと実感するんで。いるのはもう、キチガイかそうでないか、その違いだけだ。でも実体験としてメイワクかけられてきたのは圧倒的にヒダリの方々ばかりだわね。人の話ってまるで聞かないんだ、あいつら。
 庶民の力など微々たるもんで、歴史だの政治だのは個人の思いがいくらあったって変わるこっちゃないし、また変わっちゃマズイ面もあるだろうと思ってるもんで、政治的なことをこの日記で書くことは控えるようにしてはいるのだけれども、世の中見ているとなんだかなあ、シロウト考えでもこれはヘンだよなあ、と思うことはいろいろあるんである。だから、こりゃさすがに無視はできないなあって大事件が起こったときに、「これはオカシイ」と書くことはあるんだけれど、そうするとこれが西部さんや小林さんの言ってることと一致することもちょくちょくあって、アイタタとなっちまうのである(もちろん違う部分もたくさんありますよ)。
 そうすると、自分が漠然と考えているモノの考え方の基盤に何があるのか、自分が何に拠って立ってモノを言っているのか、自分と意見の違う人たちは何に拠って立ってあんなにヒステリックになれるのか(^o^)、そういうことが気になりだしてしまうので、本を読んでるだけでは飽きたらなくなって、直接その人たちの話を聞いてみたいという衝動にも駈られてくるのである。そういうわけなんで、会場でやたらウンウン頷いたり拍手したりするヤカラと意識は違うので、あまり誤解されないようにお願いします(^_^;)。このシンポジウムには、某協会も背後で絡んでるとかいう話もありますが、そっち方面との繋がりも私は全くありませんので。

 講演のタイトルは以下の通り。
 1「福岡から日本国の自立・自尊を問う」清水昭比古
 2「米中のはざまで日本国の自立をめざす」西部邁
 3「戦後外交史と国家戦略」小林よしのり
 4「教育、自立への道」佐藤洋二郎
 でも殆どタイトルに縛られないざっくばらんな話ばかり。つかみんな「自分史」を語るんだね。全部の内容を細かく書いてるととても書ききれないのですごく乱暴に纏めてしまうと、以下のようになろうか。
 清水氏 「城山三郎の『落日燃ゆ』を読んでください」
 西部氏 「東大辞めたあと好き勝手したけど、そういうことも大事」
 小林氏 「庶民感覚だとやっぱ『反米』のポーズ取るしかないじゃない」
 佐藤氏 「歴史は言葉でしか遡れない」
 あまりポイント突いてないかなあとは思うが、日頃ぼんやりした生き方しかしてない人間が他人の言葉を捉えるときはこんなもんである。
 実のところ、みなさんのお話はこれまで著書に書かれていたことを繰り返しているのが多くて新味はあまりなかったのね。けれどやはりナマで話を聞くと、ああ、この人のこういうところに「共感」してるんだなあ、ということは感じるから、一応、聞きにきて損したとは思わないようにしよう(^o^)。
 小林さんの「庶民感覚」という言葉に納得するのは結局は私も自分が庶民でしかありえないことを自覚しているからだ。政治的にはアメリカ・ブッシュに追随しなければならないことは理解していても、原爆落として人道上の罪を犯したとは思っていないアメ公に対して感情的に信頼を寄せる気にはどうしてもなれない。イラクへの自衛隊派遣だって喜んじゃいない。そこで石油がどうとか北朝鮮がどうとか言い出すヤツがいるのだが、そういう「現実主義」の「正論」聞かされたって、納得できないのが「庶民感情」というものなのである。日頃「人間は感情の動物ですから」とか言ってるヤツに限ってそういうときだけ道学者みたく「理性」を持ち出して来るのはちと卑怯に感じるんだけどね、私は。
 もちろん、小林さんの意見にだって諸手をあげて賛成というわけにはいかない場合もある。「北朝鮮がミサイル撃ちこんでくるんだったら、こっちも報復できるようにしなきゃだめでしょ」という意見には「それが口実にされて本気でミサイル撃ちこんできたらどうすんの」と思わないでもない。でもあの国のデタラメさを思えば、「経済制裁は慎重に」という姿勢だけじゃ何も進展しはしないのも事実なのである。結局はどこかで何かを「覚悟」しなければならなくなるのだ。小林さんはそこで「核武装」まで考えているらしく、それは確かに一つの答えではあるのだけれども、私はそこまで踏み切っていいかどうかということになると「やめたがいい」ということにどうしてもなってしまうのである。なぜかって、私は基本的に日本人を、人間を信用していないからなのだ。つか、“全ての人間を信用できる”楽天家でないと、「核武装が戦争抑止に繋がる」とは言えないのではないか。
 人間は弱い動物である。それは肉体的にも精神的にもそうだ。プロメテウスが火をもたらしたことは、人間に「知恵」を与えもしたが、同時に「戦争」をも与えた。どんなに平和を望もうと、いったん与えられた「技術」を冷静にコントロールできるメンタリティを人間は持ちえない。諸刃の剣が使われなかった例がどれだけあるか。「専守防衛」は既に拡大解釈されて「イラク派兵」という形で行使されている。「イラク派兵反対」を唱えるなら、「核武装」も否定しなければならないんじゃないか。小林さんだって、「武器を持ってるだけで使わずにすむ」と思っちゃいないと思うんだけれどもねえ。

 講演後はパネル討論。
 清水氏がまず口火を切ってこう語る。
 「今、学校では弁論大会をやらなくなった。その代わりにディベート大会なるものをやる。『原発についてどう思うか』というテーマで、賛成か反対かを討論させるのだが、自分の意見を言わせるのではなくて、予め賛成か反対かの立場をクジで決めて、ネットで情報・根拠を集めて討論させるだけだ。しかも、トーナメントで勝ち進んで行くと、さっき賛成だった生徒が反対の立場で意見を言わされることもある。こんなアメリカ追随の、定見を持たせない教育があっていいのか」
 西部氏が補足して説明する。
 「アメリカは徹底した個人主義の国だから、ともかく自分の意見を押しつけようとする。だから『他人の立場に立ってみる』という形のディベートもそれはそれで意味があった。しかし、日本がそれをそのまま導入しても意味はない。なぜそんな無意味なことが行われるかというと、結局は日本人からコモンセンス(常識)が失われているからだ。しかしそのことで学校教育に期待しても限界がある。教育は『知育』と『徳育』に分かれるが、今失われているのは『徳育』の方で、それは家庭において、地域においてなされるべきで、その復活が必要だ」
 そこで小林氏が場を盛り上げようと極論を言う。
 「知識はマンガ読んでれば手に入る。わしは学校で習う前に『影』の字が書けたけど、『伊賀の影丸』のおかげだ」
 最後に佐藤氏が「何事にも中庸が必要で」とまとめる。
 つか、まとまったのかどうかはよく分からないけれども、要するに「伝統の基盤は家庭にある」という論調はみなさん共通していることなのだ。

 しかしそこでやはり疑問に思うのは、これから先、どれだけ「家庭」とか「地域」に期待ができるか、ということなのである。
 ちょうどパネル討論のときに学校のセンセイとやらが、「ゆとり教育に反対している親をどう思うか」と質問していたが、そりゃあもう、バカ親だとしか言いようがあるまい。小林さんがこの質問に答えて、「知識をムリヤリ詰めこむことも大事で、学校は必要だと思う。けれど、仕事が忙しいからとかいう理由で、朝の飯も味噌汁も作ってやらないような親をわしは許さん」と仰っていた。まさしくその通りだと思う。その通りだとは思うが、小林さんがいくら「許さん」と仰ろうと、そんなバカ親ばかりがどんどん増えているのである。
 子供の「学力低下」をどうするのか、文科省が押し進めてきた「ゆとり教育」に文句をつけ、路線変更を求める声は多いが、これがつまりは「学校以外の教育機関がこの日本には存在していない」ということ、「家庭には教育能力が殆どなくなっている」ことの逆証明だってことに気付いてる親がどれだけいるのだろう。知育も徳育も、今の親は子供に対してできなくなっているのだ。その最悪な状況が、果たして一朝一夕に改善できるものだろうか。
 西部さんは、「詰めこみ教育が効果を挙げた例はギリシャの昔以来、歴史上一度もない」と断言されたが、家庭は、「ゆとり」と「詰めこみ」のどちらの教育も、知育と徳育のできない、ただの「他人どうし」がなぜか一緒にいるだけの空間に成り果てているのである。
 ウソだというのなら、子供をお持ちのご家庭の親御さん、自分に対してこう問いかけてみて頂きたい。あなたは自分の子供の勉強を何年生まで見ていられるのか。「そんなのは学校の仕事だ」と言い訳した時点であなたは負けである。昔の親は、いろはも漢字も算数も、学校があってもみんな「家庭で」教えていたのだ。教科書を読む力があれば、家庭教師を雇わなくても親が子供を教えられるはずである。
 また、子供に「ウソをついてはいけない」といつまで本気で教えていられるか。「大人はみんなウソをついているのに、どうして子供だけついちゃいけないの?」と子供から問われたときに、「うるさい」とかなんとか適当なことを言って突き放してはいないか。たとえ世の中がウソだらけでも、そんなに簡単にウソをついていいわけではないと、なぜ自信をもって言えないか。それはアナタがウソまみれの人生を送っているからではないのか。
 その程度のことにも答えられない「親」と称するただの「他人」が、「ゆとり教育」に異を唱えて人口の7割を占めているのが現状なのである。そんな国家のどこに未来があると言えよう。
 その流れを止めようというのが「ゆとり教育」の本来の目的だった。「学力低下」も当初からの予測通りで、落ちこぼれていくやつにムリヤリ勉強させて表面的な学力だけを底上げしてみせても社会で通用する「実力」のある人間は育たなかったという「現実」を踏まえて、「余裕の時間を本当に有効に使える人間を育てよう」というのが目的だったのである。だから、今「学力低下」だの何だのと騒いでるバカ親どもは、「自分の子供が余暇を有効に利用できなかった」連中ばかりで、そんなバカ親の子供は、たとえ「詰めこみ」されたって、やっぱりバカな人間にしか育たないのである。それはまさに「詰めこみ教育」されてきた今の親たちの姿そのものではないか。
 文科省も腰砕けというか、やっぱり中にいるのは「自分の子供だけは違うだろう」と楽観していたバカ親ばかりだったので、路線変更をやり出しているのである。これで、せっかく余暇を利用して自分の勉強ができるようになった子供たちの足が引っ張られることになる。この国はいったいいつまでこんな「悪平等」を続けていけば気がすむのだろうか。


 夜、上戸彩主演のドラマ『古都』を見る。
 川端康成がラリってるときに書いた内容が何もない小説なんだけれども、なぜか映像化が繰り返されている。岩下志麻、山口百恵に次いで二役の少女を演じる上戸彩だけれども、これはどうもミスキャストっぽい。そっくりな双子が登場するからといって、『ふたりのロッテ』みたいに入れ替わりをモチーフにしたわけではなく、自分とそっくりな人間がいることで現実の実感が揺らいで行く、『ウィリアム・ウィルソン』的な幻想小説としての面白さが『古都』の主眼なのである。それを普通のドラマに仕立ててもねえ。
 原作読む力のない脚本家と演出家じゃ、それも仕方ないんだけれど、渡部篤郎のストーカー的演技はドラマの中で唯一狂気を感じさせていてよかった。原作のエッセンスをつかめてたの、渡部さんだけだったんじゃないか。


 夜、久しぶりのチャット。直前に告知したにも関わらず、宇津見さん、鍋屋さん、あやめさんが参加。ありがたいことである。私としげの二人だけで向かい合わせでチャットするハメになるんじゃないかと心配していたのである。体力的にそうしょっちゅうはチャットは開けないが、またたまに掲示板の方で告知しますので、よろしければちょくちょく覗いて頂けるとありがたいのである。


 見逃しかけてた映画関係のニュース。
 かなり以前から何度もウワサをされていたのだけれども、OO7シリーズの最新21作目が『カジノ・ロワイヤル』に決定したそうな。
 御承知の方も多かろうが、この『カジノ・ロワイヤル』こそが原作者イアン・フレミングが1953年に発表したOO7ジェームズ・ボンドシリーズの第1作で、早くもその翌年、最初に映像化された作品でもある。もっともそれはアメリカのCBSテレビによる"Climax!"という単発テレビシリーズの一編としての映像化で、ボンドを演じたのはバリー・ネルソン(『大空港』『シャイニング』)、敵役ル・シッフルは名優ピーター・ローレ(『M』『カサブランカ』)という布陣だった。アチラではDVDも出ているそうだけれど、残念ながら日本では依然、未公開。当然私も未見だが、バリー・ネルソンの風貌はキザったらしいアメリカンってな雰囲気なので、さて、女にだらしなくても決してニヤケてるわけじゃないイギリス紳士のボンドのイメージに合っていたかどうか。
 アルバート・ブロッコリ率いるイオン・プロとMGMによる“本家”OO7シリーズが『ドクター・ノオ(OO7は殺しの番号)』を皮切りにスタートしたのが1962年、当然『カジノ』も映像化候補に挙がっていたのだが、このフレミングの処女作に関してだけはその映像化権をチャールズ・K・フェルドマンが握っていた。てなわけで、彼が1967年にコロンビア映画でジョン・ヒューストン、ケン・ヒューズ、ロバート・パリッシュ、ジョセフ・マクグラス、ヴァル・ゲストと五人の共同監督というムチャクチャな体制で、本家とは全く関係なく作りあげたのがコメディ映画ファンに語り継がれることになる『OO7/カジノロワイヤル』(DVDタイトルからは「OO7」が省かれちゃってるけどね)。この大怪作については語り出したらキリがないから省略するけど、そういった事情で、フレミングの原作が15作で尽きてしまって、オリジナル映画を作らざるを得なくなっても、イオン・プロは『カジノ・ロワイヤル』の映画化だけは断念してきたのだ。
 そのあたりの事情に変化が生じて来たのが昨年あたりからクエンティン・タランティーノが『カジノ』をリメイクしたがっているとのウワサ。どうやら今回、MGMとバーバラ・ブロッコリ(アルバートの娘)は、タランティーノの機先を制する意図で、ついに「ジェームズボンド21」として『カジノ』の映像化に着手したと見てよいようだ。……コロンビアから権利買い取るの、高くついたろうなあ。
 まあ、タランティーノが作れば映画はまたトンデモナイものになることは分かりきっているので、何としてもそれは阻止しようってバーバラさんは考えたんだろうね。気持ちは分からないでもないが、フェルドマン版『カジノ』のデタラメさを愛する人々にとっては、タランティーノ版が見られないことはちょっと残念に思っているんじゃないかと思う。私もそうだし。
 ただ、製作発表はあっても、主演のピアース・ブロスナンはボンド役を降りることを表明しているし、現在決まっているのは監督のマーティン・キャンベル(『ゴールデンアイ』以来の再登板)、脚本のニール・パーヴィスとロバート・ウェイドほか一部のスタッフ、役者ではジョン・クリーズのQとジュディ・デンチのMだけだ。この程度の状況で製作発表(しかも公開予定は来年である)というのはいささか早過ぎる気がするのだけれども、これはもしかすると、ウワサとして流れていた次のボンド役、コリン・ファレルやエリック・バナ、ジュード・ロウ、ユアン・マクレガー、オーランド・ブルームといった人々の誰かが色よい返事をしたんじゃないかというカングリもしたくなる。でもこの中の誰一人として「ボンド」と言われてピンと来る人がいないんだがなあ。ブロスナンのイチオシはファレルだそうだけれども、まだ20代じゃ若過ぎないか。
 けれどこれで残念がっているのは日本の香川県だろう。レイモンド・ベンソン作で、タイガー田中(『OO7は二度死ぬ』では丹波哲郎が演じた)の娘も登場するシリーズ最新作『赤い刺青の男』の映画化の希望と撮影の誘致の署名を活発に行ってたんだけれども、これがみんなパアになっちゃった。仕方ないとは思うけれど、せっかくだから
一部分だけでも日本ロケしてくれないものかね。

2004年02月05日(木) 入院日記4/気持ちのいい検査(* ̄∇ ̄*)
2003年02月05日(水) タクシー慕情……演歌だね/DVD『銀座カンカン娘』/『総特集 江口寿史』
2002年02月05日(火) ゴーマンかましちゃ、いけまっしぇん/『コンセント』(田口ランディ)ほか
2001年02月05日(月) 恐怖のブラック・メール/『真・無責任艦長タイラー1 入隊編』(吉岡平)



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