無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年02月06日(日) 特撮と絵画展と映画と美術展とアニメとドラマと/映画『ベルヴィル・ランデブー』ほか

 しげのチョコ作りが佳境。
 なのはいいけれど、台所の排水溝がチョコカスで詰まってるんだかなんだか、水が流れなくなってて汚水がたぷたぷ溜まってんだけど。いい加減、掃除しろよ(-_-;)。


 8時ピッタリに目が覚めたおかげで、オープニングだけ録画し損ねちまったけれど、今週もしっかりと見た『仮面ライダー響鬼』第2話。ヒーロー対怪人じゃなくて、鬼対妖怪という印象がかなり強くなっていて、多分これでまた「こんなの仮面ライダーじゃねえ」って怒りの声はチマタに溢れたことだろうが、さて本当にそうか。
 翻って、最初期の旧仮面ライダー1号を思い返して頂きたい。モデルはバッタと言うが、そのマスクやスーツのカラーは緑と言うよりは黒に近く、およそ従来の「正義のヒーロー」とは全くイメージが違っていて恐ろしげですらあった。
 仮面ライダーとは本来その「異形」さこそが原点にあるので、それは石森章太郎自身がライダーの「原作」マンガを手がけた『仮面ライダー』『仮面ライダーアマゾン』『仮面ライダーBLACK』の三作に共通するモチーフである。さらに原型となった復讐のヒーロー『スカルマン』のデザインを考えれば、ライダーが「みんなのヒーロー」でもなんでもない、ダークな存在だってことは論を待たない。その意味で、今回の響鬼はハッキリこの「原点」の系譜に連なっているのだ。
 だいたい「こんなの仮面ライダーじゃねえ」って声は、平成仮面ライダーどころか、既に2号ライダーのころから出てんだ。「変身!」って掛け声だって、ポーズだって、旧1号ライダーはやってなかったってのはムカシのファンにとってはトリビアでも何でもない「常識」。島本和彦じゃないが、「ライダーは旧1号のみ」という思いがある人間は、かえってほかの全てのライダーは「許す」しかなくなるのである。……あのね、“少年ライダー隊”やら“ライダーマン”やら、“電波人間タックル”だってかつてのファンは“許して”来たんだよ? ライダーがアタッチメント使うのはオッケーで、カード使ったりディスク使ったりしちゃダメって、そりゃスジが通らんでしょうよ。
 だからライダーが未だにバイクに乗ってないとか、敵さん(でっかい土蜘蛛)の背中にまたがって、バチで太鼓叩いてその振動で爆発させて倒したとか、そんなの別にどうってこたあねーんだって。そもそも「ライダーキック」だって充分馬鹿馬鹿しかったんだから。……第2話を見てない人は何のことだかよくわかんないでしょうけど、そういうシーンがホントにあったんですよ。信じてもらえないかもしれませんが(^_^;)。
 だから、阿部川キネコのマンガ『辣韮の皮』に出てくるライダーオタクのジャスティスなんて、旧ライダーのコスプレして「平成ライダー許せん」なんて言ってるけど、あんなのはライダーファンとして見た場合は単に自分のシュミに拘泥してるだけで、石森章太郎テイストなんて何も理解しちゃいない痛いオタクに過ぎないのである。……キミもそうなってはいないかね。
 昭和ライダーを神格化して『クウガ』以降を全否定する連中は、やっぱりその時代をナマじゃ知らない世代か、知ってても本気でライダーファンじゃなかった知ったかぶりのスノッブだろう。今度の第2話でますます日本中のライダーファンは震撼したと思われるが、もうあそこまでぶっ飛んでくれてりゃあさ、旧ライダーがどうのこうの言わないで、広い意味で石森テイストのダークヒーローものと思って見てこうかって私みたいなロートルは思うんですよ。前回のミュージカル風演出にはヘタレたけれど、今回は演出、編集のテンポもよくて、役者のヘボ演技もさほど気にならない。少なくとも出だしの時点では平成ライダーシリーズ中一番面白いと言っていいと思う。
 ……なんだか『ゴジラ』と同じような擁護の仕方をしてるが、もしかしたら『響鬼』が平成ライダーシリーズの「ファイナル・ウォーズ」になるんじゃないかという予感もしないでもない今日この頃なのでした。まる。


 続けて『ふたりはプリキュア マックスハート』第1話。オープニングが「マックスハート」って合いの手が入るだけってのはなんだかなあ。レギュラーが3人になるならタイトル変更したらどうなんだ。内容については敵さんがまた復活とかで先週までの戦いはなんだったんだって思うけど、番組改変になんてこんなもんだから怒ったって仕方ないやね。でも、ああいうロリータファッションのヒロインのブームって、まだ続いてるんかね。さすがに街中でゴスロリ少女を見かけることも福岡じゃ最近はなくなってきてるけど。


 まだ寝惚けてウワゴトを言ってるしげを叩き起こして、天神三越へ。
 あるツテから招待券をもらったので、9階ギャラリーの「池田あきこ展」を見に行く。しげは以前、ダヤンのシールを車の窓に貼っていて、てっきり池田さんのファンなのだろうと思って誘ったのである。ところが、しげはグッズコーナーばかり見ていて、展示されてる原画はろくろく見ようとしない。
 「ファンじゃなかったの?」と聞いたら、「キャラクターが好きなだけで、原画や話には興味がない」とのこと。会場をさっさと出て、グッズをいろいろ物色し始めたので、私の方はポツンと取り残されてしまった。結局たいしてほしいモノはなかったようで、わざわざ誘うほどのこともなかったようである。
 しげと一緒に出かけて一番ペースが違うのがこの手の美術展で、私は気に入った絵に出会ったらその絵の前でじっくり鑑賞するとか、そういうことも好きなのだが、堪え性がないと言うか、そもそも絵心がないと言うか、しげにはそれがまるでできないのである。買い物するときにはこちらの予定も考えずに急いでる最中でもウインドウの前で立ち止まって長っ尻するくせによう。そもそも舞台をやってて美術を鑑賞する目がないというのはどういうわけだ。こういうところがしげの努力不足なところなんである。
 結局、美術展に行った時にはじっくり見るヒマがないことが多いんで、図録を買わざるをえなくなるのだが、原画のペンタッチまでは図録じゃわかんねえし、足を運ぶ意味があまりないのである。一応、大学じゃ児童読物とかの研究を専攻してたから、絵本とかこういうのをオレはじっくり見たかったんだよ。
 作者の池田さんもサイン会のために来られていたのだが、時間の余裕があるにも関わらず、せっつくしげに追い立てられて会場をあとにした。


 シネテリエ天神でアニメ映画『ベルヴィル・ランデブー』。
 昨年、広島国際アニメーションフェスティバルで見たシルヴァン・ショメ監督の大傑作だけれど、福岡での公開はようやく今週から。東京では昨年末に公開されているが、地方では年越し、これでは『キネ旬』とかの投票にも間に合わない。ロードショー公開は数ヶ月に渡ることも多いので、アンケートのシメキリを1月そうそうに設定するのはやめてほしいんだよなあ。偶然広島で見てなきゃ、とても「これはいいぞ!」と昨年のうちにお勧めなんかできないのである。まあいくらお勧めしても、誰も見てくれないけどな(~_~メ)。
 こういうアート系の映画はなかなかTVでも流さないしDVDにもなりにくい。なっても初回売り切りですぐ絶版、小さなレンタル屋だと置きもしない。すぐに「幻の映画」扱いになっちゃうんで、公開中に足を運ぶしかないんだけれど、テレビアニメしかアニメとして認識してない似非アニメファンや、日本のアニメが世界一だなんて錯覚してるアニメナショナリストは、ホントに全然興味示さないのな。自分たちがどれだけゴーマンな見方しかしてないか自覚してないんである。
 あのね、本気で面白い作品を見たいって気があるんだったらさ、部屋に閉じこもってないでもっとカラタを動かせよと言いたいのよ。なんで毎週毎週、キャラ萌えだけで中身はスカスカのたるい某テレビアニメばかり見てられるのか疑問なんだよ、オジサンはさ。
 しげは『ベルヴィル』を見て、「セリフないけど、ちゃんと表情で何考えてるのか分かるね」と言っていた。そういう「表現力」がそもそも某アニメ(具体例はたくさんあるので特にどれ一つとは挙げない)にはないのである。まあ比較すること自体が『ベルヴィル』に対して失礼なのだが。


 それから大濠まで足を伸ばして、福岡市美術館へ。今日一日は予定があれこれあって大忙しである。
 目当ては、前回、ウチの劇団公演の美術を担当してくれた細川嬢の大学卒展。さっき書いたようにしげが美術に興味示してくれないから、なかなかこういう展覧会にも来れない。ここの美術館に来たのも10年ぶりくらいじゃないか。前来たのは確か「手塚治虫展」の時だ。
 美術系の大学で有名どころと言えば、福岡では数えるほどしかないので、逆に言えば福岡で本気で美術関係に進もうという人間は1ヶ所に集中することになる。市民ギャラリー室二つ、特別展示室二つを借り切り、絵画、写真、ポスター、絵本、装飾、調度、陶芸、建築モデル、アニメなどなど、何百人もの作品がひしめき合っているのだが、これが見ていて実に面白い。中にはもちろん「なんだかなあ」って感じの凡庸なもの、一人よがりなものもあるが、総じて若さのエネルギーで魅せているのである。才能の息吹が感じられる作品も実に多く、この中から頭ひとつ抜き出て世に羽ばたいて行こうとするには並々ならない根気と努力が必要だろうというのがヒシヒシと感じる。言っちゃなんだが、同人オタクの腐女子のレベルは全体としてはかなり低いよ。技術の面だけでなく、「人に魅せる」ことに関して、志に差がありすぎるんである。自己充足に陥っていて、他人との間に壁を作っといて、それでいてモノを売ろうってのはベクトル歪んでないか。
 ……まあ、それはそれとして、この何百点の作品の中から細川嬢の作品を探さねばならないわけだが、これがまたひと苦労でした。こういうときの常として、探しモノは必ず最後に見つかるものであるが、会場を四つ回って、細川嬢の作品が展示してあったのは、最後に回った特別展示室でした。もっとも、そのおかげでほかの人の作品もじっくり見られたのだが。
 細川嬢の作品は土管を模した鉄製の椅子が二つ。色は黒っぽいのと茶色っぽいの(色弱の言うことなのでアテにしないように)、シックでいい感じで、インテリアとしては洋間ならばどういう部屋でも汎用が効きそうである。肌触りもよくて頑丈、黒い方には両端に互い違いに取っ手が付いている。機能とデザインのバランスを取ることはなかなか難しいと思うが、部屋にこの椅子を置くことを考えたとき、取っ手が互い違いになっているということはつまり、これはどちらからも座れて足を取っ手のない方に伸ばせる仕組みになっているわけだ。ちょっとした工夫だけれども、よく考えられている。作品のタイトルを見てみると、「のびやかであること」。なるほどその通り(^o^)。管の中は物置にもなるかな。
 私は職人の家系に生まれているので、道具や調度というものは「使えなけりゃあ意味がない」と思っている。使うのがもったいなくて飾る場合もあろうが、初めからデザインだけが先行していて、床の間に飾ることが目的になっているようなモノは好まない。細川さんの作品、ウチじゃあ狭くて置けないが、広いリビングのある家なら、充分「使えて」しっくり来るのではなかろうか。
 写真集も隣に置いてあったのだが、こちらは舞台美術を撮影したもの。布を切り取って空間を演出し、照明に工夫を凝らし、幻想的なイメージを作り出しているものが多い。写真だけではよく分からないが、実際にそこに人を立たせたとき、布の隙間から光が当たって、役者の表情が能舞台のように揺らめく効果も出せるのではないかと思わせる。そこ間で計算しているとすればたいしたものである。浅倉摂さんの舞台にこういうのがあったので、影響もあるのだろうかと想像する。

 細川嬢に会えることは期待していなかったのだが、ちょうど作品を見ている最中に細川嬢が見える。食事か何かで外出していて、今し方帰ってきたところだとか。しげが「ボイんちゃ〜ん!」と仇名で呼びかけるが、場所柄をわきまえてないのが痛い(~_~;)。細川嬢があまり気にしてないから有り難いのだが。……だから人に勝手に仇名付けまくる癖、直せって。
 「お世辞は好きじゃないから」と前置きをして、しげと二人で作品を誉める。細川嬢、「嬉い」を連発する。私もしげもつまらないと感じたら知り合いのものでも遠慮なく貶してしまうので(でないと「批評」として信用されないでしょう)、素直に受け取ってもらえるのがこちらこそ有り難い。摂さんの名前を出したら、案の定、「大好きなんです」と仰る。
 細川嬢、初めはインテリアデザインの方に進むつもりだったのだが、今は舞台美術の方に目が向いているとか。来年は上京して大学院を受験したいと考えているとのこと。根気と貧乏に耐える(^_^;)努力は必要だが、才能はあるし、細川嬢ならやれるんじゃなかろうか。ほかの人の作品の影響を受けても、そこからオリジナルなものを積み重ねていければ、決してモノにならないことはないと思う。つか、なってほしい。
 「上京する前に一つ舞台公演打って、美術を頼もうか」なんて話まで飛び出てきて、細川嬢も「喜んで」と言ってくださる。それはそれであり難いのだが、いささか先走りの感すらある。だって、そうなると私ゃ、あと半年以内にまた一本脚本を上げなきゃならないわけなんだわな。全くどこが「劇団休眠中」なのか。


 あちこちハシゴしたのでいささか疲労。
 夕方4時ごろに帰宅して、7時までは遅目の昼寝。
 7時半からNHKでアニメ『アガサ・クリスティーの名探偵ポワロとマープル』第25話「プリマス行き急行列車 前編」。
 パディントン駅を出発したプリマス行き列車の一等客室の座席の下から、女性の刺殺体が発見される。その女性、フロッシー・キャリントンは、アメリカの鉄鋼王ハリデイの娘だった。ポワロと旧交のあったハリデイは、彼を屋敷に呼び、事件の調査を依頼する。ヘイスティングスとメイベルは、犯人はフロッシーの夫、キャリントン卿ではないかと推理するが……
 この短編は原作もドラマも未見。だもんで、どんなオハナシかいなと思って見てみたんだが、「クリスティーは短編はヘタ」の評判通り、前編見ただけで話も犯人もトリックもバレバレ。いや、ホントに当たってるかと思って、ドラマ版の方も見てみたら想像していた通りだった。なんかもう、『名探偵コナン』レベルのつまんなさだねえ。ただ、これは原作がチャチだって、それだけの罪じゃないんだわ。そりゃ罪はもう監督以下スタッフにあるのは間違いない。
 これはもう、声を大にして言いたいんだが、ミステリーのノウハウを知らないスタッフにミステリーアニメを作らせるんじゃない。「キャラデザインを見ただけで犯人の見当がつく」作品がミステリーと言えるかって〜の。
 まあ、これでも第1回のころに比べればそうとうマシな出来になったということであるが、五十歩百歩ではなかろうかね。……でも映画『デビルマン』見たあとだと、もうなんだって許しちゃう気分だからこれもまーいっか(^o^)。いいよもうなんだって。メイベル萌え〜のひとも世の中にはたくさんいるんだろうし、みんなどんどん萌えちゃってくだしゃんせ。「ポワロ×ヘイスティングス」もオッケーだ。


 続けて大河ドラマ『義経』第五回「五条大橋」。
 オープニングが前半のクライマックスになんなきゃいけないはずの義経(遮那王)と弁慶の出会い。三百行くらい悪態つきたくなるのを抑えてヒトコトで言えば、「月だの桜だの、そんな演出で殺陣ができねえのゴマカシてんじゃねえ」。
 タッキーとマツケンに殺陣を期待しちゃいけないのは分かってるけど、それにしても、もう少し何とかならなかったものか。弁慶の攻めを義経がヒョイヒョイ跳んでよけるのをデジタル合成で見せるのは仕方ないとしても、それがワイヤーワークよりしょぼいってのはどういうことよ。欄干に上ってるときふらついてんだぞ、合成なのに。
 そもそも義経と弁慶、二人のキャラクターが軟弱なので迫力も緊迫感も生じないのだ。義経はもっと涼やかな魅力があってこそだし、弁慶はもっと豪放磊落じゃないとコントラストは生まれない。チャンバラ“ゴッコ”が見たい視聴者はあまりいないと思うけどねえ。それとも軟弱なキャラに設定したほうが腐女子は「弁慶×義経」が想像できて楽しいのか。
 総じて今回の大河、女優陣が弱い。上戸彩と石原さとみの初々しい魅力に、松坂慶子以下の臭い演技が全然太刀打ちできていない。いや、石原さとみだって静御前がまだまだ板に付いてないんだけど、松坂慶子、無意味なタメが多すぎて鬱陶しいんである。時子なんて重要な役になんでこんな大根使うかなあ。
 今回、一番見られたシーンがやつぱり渡哲也清盛と、丹波哲郎源三位頼政の髭切りの太刀を巡るやり取りだったというのは、これから先のドラマの出来を暗示してるようで苦笑せざるをえないのである。この二人、史実では源平合戦の前に早々と「退場」しちゃうものねえ。見所がどんどん減っていくぞ。

2004年02月06日(金) 入院日記5/こわれた女
2003年02月06日(木) 新聞がみんな同じに見えるのは気のせいですか(~_~;)/DVD『明智小五郎対怪人二十面相』/『D坂の殺人事件』(江戸川乱歩)
2002年02月06日(水) なんかもー、下血とともに生きる毎日ね/『幻竜苑事件』(太田忠司・大塚あきら)/『よみきり▽もの』1巻(竹本泉)ほか
2001年02月06日(火) 文化はやはり相対的なもの/『NOVEL21 少年の時間』ほか



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