無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年07月14日(月) 「心ある」ということ/『GUNSLINGER GIRL』1・2巻(相田裕)ほか

 「WEBアニメスタイル」に、11日付で、「クオリティは誰のため」と題して、小黒裕一郎さんの以下のエッセイが掲載されている。

> 先日、知人の脚本家に「TVアニメの数は増えた増えたと言われるけれど、不思議とクオリティは落ちないな。むしろ上がっているんじゃないか。どうしてだ?」と訊かれた。言われてみれば不思議な話で、確かに10年前、20年前のアニメと比べれば、画が綺麗になってきている気はする。どこの現場も人手が足りないと言っているのにクオリティは上がっているのか。一瞬、僕も納得してしまったけれど、実はそうではない。アニメーションとして全体のクオリティが上がったわけではないのだよね。正確には、キャラクターの画が整うようになったのである。昔は各話毎にキャラクターの画が違うのが当たり前だったけれど、最近はそういったバラツキが減っている。話の中でも担当アニメーターによる、作画の凸凹が無くなってきているはずだ。全体にキャラクターの画が統一されているので、クオリティが上がったように見える。
 で、キャラクターの画を整える事に労力が注がれて、他の部分は弱くなっているというわけだ。最近、TVアニメで「おっ」と驚く作画や表現を目にする事が減ったのは、そのためでもあるのだろう。芝居は最低限何をやっているかが分かればいいや、とか、そういう感じになっている現場も多いのではないか。余計な事をやっているヒマはないよ、てな感じなのだろう。いや、勿論、それは全然余計な事ではないのだ(厳密に言うと、キャラクターの画以外の部分が弱くなっている理由はそれだけではない。表現の画一化等の理由もあるのだが、それはまた別の話題)。
 各話のキャラクターを統一させる、という事はビデオメーカーが制作現場に望んでいる事でもある。前に制作会社のPDから、ビデオメーカーが各話の画の統一をするように言われて、それができるシフト(総作画監督が全話全カットのレイアウトに手を入れる等)を組んでいるという話を聞いた。それが商品としてのセールスポイントなのだ。ビデオメーカーでもユーザーでも「クオリティ=キャラクターの画の統一」と思っている人が多いのだろう。
 この傾向が続くのが厭だと思う、心あるアニメファンは「それだけじゃつまらないぞ」と声を大にして主張するべきだ。


 こういう作品批判を含むエッセイの場合、プロである小黒さんの、これからもそれらの作品に関わるスタッフと付き合っていかねばならない立場を考えれば、具体的な作品名を出せない事情もわかりはするのだが、その分、批評性は薄まってしまう。
 全てのテレビアニメ作品が「キャラクターの画を整える事に労力が注がれて、他の部分は弱くなっている」のではない以上(例えば『プリンセスチュチュ』で毎回猫先生の身もだえの表現を変えて作画し続けたスタッフの努力とか)、「弱い」作品のいくつかを挙げた方がいいに決まっている。
 「心あるアニメファンは」という呼びかけ方はなんだか「オタクエリート主義」を彷彿とさせてちょっと乗りにくいのだが(もうオタクをエキスパートのように語って地位向上を図るのもかえってオタクのためになるまい)、単純に「そんなアニメじゃDVDになっても買わねえぞ」と文句つけるくらいのことは、ファンなら「自由に」語っていいのではないか。

 私も最近はあまりテレビアニメをチェックできていないのだが、例として『明日のナージャ』のデザイン、表情のつけ方が「どれみもどき」になっているのが気になった。細田守演出以外の回は「芝居は最低限何をやっているかが分かればいいや、とか、そういう感じになっている」と言われても仕方がないような回も散見する。CG、デジタル処理を施すなら、単に画面奥への動きを表すのにラクだから使ってる、と感じさせるような表現は避けてほしい、とも思う。
 『アトム』はキャラクターの表情や演技には毎回感心させられるのだが、シバリがあるせいか脚本に一つ芯が通っていない。なにもアニメ後進国のアメリカに迎合しなくてもいいと思うんだが。『デジキャラット』に至っては論外である。
 ああ、『らいむいろ戦記譚』はひどかった。あかほり系など、ゲームと連動したアニメは総じてヒドイし、『ハッピーレッスンアドバンス』などの「男の子一人に美少女いっぱい」パターンのものには「新しいモノ」が殆ど見出せない。ああいうものに萌え萌えなファンはアニメの何を見ているのかとも思うのだが、ナニが見られればそれだけでいいのかもしれない。
 ああ、こういう美少女系大量生産に先鞭付けたの、KSSだったよな。元凶は『女神』か。確かにアレはキレイだったけれど、よく見ると「止め絵」の演出で見せるテクニックが上手いんだった。当時はハイ・クォリティアニメとか言ってたけど、実はそう見せかけてただけってことか。

 ……なんだか一気にテキを増やしちゃったような気もするが、そのテキさんは本当に作品のミカタなのだろうか。
 よく、「作ってる人だって頑張ってるんだから、簡単に批判するものじゃない」とか、「腹が立つなら見なきゃいい」とのたまう方がいらっしゃるが、作品は誰にでも「開かれているもの」であることをご存知ないようだ。言論を封殺され、批判を閉ざされた作品に未来はない。クロサワもミヤザキも批判されなかったことはないのである。作品を誉めるのは簡単だが(手塚治虫を「ヒューマニズム」だけで語るとか、ディズニーを「夢と冒険とファンタジー」で語るとか)、貶すのには技術がいる。誉めるのに根拠は要らないが、批判には客観性が不可欠なのである。
 ファンが作品に対して、ナントカセミナーみたいな内輪ボメするような態度で接したって、端から見れば気色悪いだけなんだよ。
 

 なんだかなあ、なニュースが一つ。
 先日、アメリカのコミック出版社マーベル・エンタープライジズが、月刊誌『X-Statix』に連載予定の『Di Another Day』の中に、超人的な能力を持つミュータントの集団の一員として、イギリスの故ダイアナ元皇太子妃をモデルにしたスーパーヒーローを登場させると発表した。けれど10日になって、結局その計画を取り止めた。
 この計画が伝えられた時点で、イギリス王室は「元妃の名声とその悲劇的な死を金もうけに利用しようとするもの」だと強い不快感を示していたとか。でも王室だけじゃなくて、同様のクレームが一般からも相当数寄せられたんじゃないかと思う。世の中には「やっちゃいけないこと」があると思いこんでる人って多いし。
 批判なんて来ないだろう、なんて甘いことをマーベルが考えていたとしたら、ひどくお粗末な話だ。「別にからかってるわけじゃなくて、スーパーヒーロー(「ヒロイン」と言わないのはやっぱり人権関係なのかな)だからいいじゃん」、なんて発想だったら、ホントに馬鹿だよ。相手、王室なんだけどねえ。唯我独尊な人たちにとっちゃ、ヒーローだろうがミュータントだろうが、「格下」にしか見えないことなんて解りきってるじゃん。
 でも不謹慎なものが好きな私としては、これがもし実現してたら、いったいどんなものになったか、ちと見てみたかったのだが。更に不謹慎なことを言ってしまえば、商業ラインじゃムリとしても、同人誌かなんかで、日本の皇室の方々をキャラクターにしたヒーローものとか、誰か書かんかね。もちろんそのあとどういう運命がその人に見舞うかは知ったこっちゃないが(^o^)。


 来年公開予定の庵野秀明監督作品、実写版映画『キューティーハニー』のハニー役、佐藤江梨子のコスチュームが昨13日に初めてのお披露目。
 まあ、あのタヌキ顔のどこがハニーだとは確かに思うが、マンガの実写版なんて、どんなにイメージに近い役者を集めたって、絶対どこかがイビツになってしまうものなのである。『キャッツ・アイ』なんて、キャストだけならもうドンピシャで内田有紀、稲森いずみ、藤原紀香なんだけどねえ。もっともあまりの悪評に私ゃまだ見てないんだけど。
 今まで永井豪の映像化作品で「これはいい!」と本気で思えた作品なんて数えるほどしかない。飯田馬之助監督の『デビルマン/妖鳥シレーヌ編』『CBキャラ永井豪ワールド』くらいのものか。永井豪作品の破天荒なまでのスケールの大きさは、それをテレビや映画のフレームの中に収めようとすること自体、不可能なことなのかもしれないと思ってしまう。
 しかし庵野監督は、ハニー役に誰も予想もしなかった「サトエリ」という超変化球・エビぞりハイジャンプ大回転分身魔球なみを持って来た。これはもう完全に狂っている。島耕作にトシちゃんというのは大馬鹿だが、ハニーにサトエリというのは狂気だ。これはもしかしてもしかするかも。
 今度の映画、原作のパンサークローとの戦いという基本コンセプトだけ残して、ほかの設定は殆ど無視してオリジナルでいくもののようだ。ハニーの職業は派遣OL、ということだが、披露された寺田克也デザインのコスチューム、青いワンピースに白いラインが入ってるだけで、印象はコミケの安いコスプレねーちゃんなんだが、それがかえっていいんじゃないか。変身後のキューティーハニーのケバさと好コントラストである。
 なんでもコスプレは「30種類以上ある」とかで、「日本映画最多のコスプレ」だとか(^o^)。そりゃ、そんなアホなことやろうって映画人が今までいなかったんだから日本最多に決まっている。庵野監督、これは明らかに初めから「B級・C級テイスト・馬鹿映画」を狙っている。いや、更に意表を突いて、急転直下、あのデザインなのに超マジメな映画を作ってしまうか。ともかくどんな出来になるかこれだけ予想のつかない映画も珍しい。「何やってんだ庵野」と思う人もおられようが、少なくとも無難な映画にはなりそうもない。期待していいんじゃないか。
 

 テレビ『子連れ狼』の第2話「一刀危機一髪!! 獣たちに監禁された男と女!!」を見る。
 若山富三郎主演の映画版の第一作『子貸し腕貸しつかまつる』の原作ともなったシリーズ中屈指の傑作『鳥に翼 獣に牙』を元にしているが、原作の暗いムードが随分爽やかな印象に変わってしまっていて、面白くはない。
 温泉場に監禁された一刀(北大路欣也)が、「とびっちょ(無宿人)」たちに枕さがしのおりん(大沢逸美)とナニしろと嗾けられるシチュエーションがなくなっている。代わりに「三べん回ってワンと言え」って……。なんかえらく優しい悪人さんたちだこと。昔の萬屋錦之介版テレビでもしっかりナニはしてたのだから、コードに引っかかることはないと思うのだが。テレビはどんどん腑抜けて行くのだなあ。
 原作にない、侍の三沢市之進(ひかる一平)とその妻・雪乃(寺田千穂)の設定は黒澤明の『羅生門』、金沢武弘と真砂からの換骨奪胎。これもよくあるアレンジで新味がない。寺田千穂の涼やかな美人ぶりは印象に残ったけれども。

 続いて『TVのチカラ』。
 行方不明の娘さんを、お母さんが霊能力者、超能力者に探してもらう様子をドキュメント……なんだけど、これがヤラセ番組でないとしたら、テレビスタッフも酷なことをしてるものだ。
 ノーリョクシャとか言ってる連中、「男に連れ去られた」とか「湖が見える」とか「もう死んでる」とか、ふざけたことばかり言ってるのである。失踪事件とくれば「自分で消えた」か「誰かに連れ去られた」か、どっちかしかないじゃん。長いこと姿を見せなければ、死んでる可能性が高い。場所はたいてい山の中とか湖だ。連中の言ってることって、「いかにもありそうな」可能性を並べたててるだけだ。つーか、クロワゼットも同じこと言ってたよ。
 親にしてみればワラをも掴もうって心情だから、「生きてる」「死んでる」(イタズラっぽい自称「本人」からの電話まであった)って状況に一喜一憂してるんだけど、番組スタッフはあのノーリョクシャたちを本気で信じてるのか? 信じてやってるとすれば、その姿勢はオウムと同質のものだし、信じてなければ親の気持ちにつけこんだ詐欺行為だ。
 昔からこの手の番組、忘れたころに作られてるけど、局は「いくらなんでもこれはマズいだろ」って気がつかないのだろうか。ただのバカならまだ救いがあると言えなくもないけど、なんだかそうじゃないような匂いがして、イケスカナイのである。番組タイトルの「チカラ」がカタカナなのも胡散臭いよなあ。


 マンガ、相田裕『GUNSLINGER GIRL』1・2巻(メディアワークス/電撃コミックス・578円)。
 オビの「アニメ化決定!」の文字に釣られて購入。
 ああ、これももっと早くに読んでいたかったなあ! 人に本気で奨められる作品なんて、実のところそう多くはないのだけれど、これはいいぞ!
 表紙を見ると、美少女が銃を持っていて、その絵はいわゆるアニメ絵である。となると、もう腐るほどある「美少女が武器持ってドンパチやる」ありふれた作品のように見えてしまうのだけれど、これが全然違うのだ。少なくとも宮崎駿に叱られる可能性は絶対にない(^o^)。

 「少女に与えられたのは、大きな銃と小さな幸せ。『義体』と呼ばれる機械の体、薬による洗脳。居場所を求め銃を手にした、少女たちの物語が幕を開ける……。」(オビより)

 舞台はイタリア。「公益法人社会福祉公社」という名前の組織に、5人の少女たちが所属していた。
 ヘンリエッタ、リコ、トリエラ、クラエス、アンジェリカ。
 彼女たちにはみな一様にここに来るまでの記憶がない。そして彼女たちのここでの仕事は、政府のための「汚れた仕事」、つまり「暗殺」であった。
 「公社」は、身寄りがなく、居場所を失った障害者の少女たちに「義体」を与える。パートナーとなる「フラテッロ(兄弟)」は彼女たちの指導官としての役目を果たす。彼女たちは薬によって、人間としての感情を無くし、殺すことを躊躇わず、パートナーに愛情を注ぐように「条件づけ」を施されていた。
 だから、彼女たちの「感情」も作られたもののはずだった。いや、たとえ作られたものであっても、それが「心」でないことがあるだろうか。
 「もしも誰かを好きで好きでしょうがなくなって、それでも永遠に満たされないとわかってしまったら」。
 答えの出ない疑問を、少女たちはその身を血の衣装に纏いつつ、自らに問いかけ続ける……。

 いきなり『寄生獣』の話にリンクさせてしまうが、あの作品で一番おもしろかったのは、寄生生物の思考に影響されて、新一の心から「感情」が一時期失われていくところであった。
 「新一」という「人間」が消えたわけではない。しかし、彼の心から感情が失われ、涙を流せぬ自分になっていることに気づいたとき、彼自身もまた自分が人間でありえるのか、悩むことになった。自らの心が「不完全」なゆえに悩むのである。
 しかし、「完全な心」などというものはありえるのだろうか?
 我々は実のところ、「不完全な心」を重荷のように抱えて右往左往しているだけの存在ではないのだろうか。
 『鉄腕アトム』が、『人造人間キカイダー』が問いかけてきた疑問を、『寄生獣』は途中で放り投げた。けれど、この『GUNSLINGER GIRL』は、その問題に正面から挑んでいるように見える。
 「壊れたカラダ」を「修繕」してもらった代償として、「不完全な心」を植えつけられた少女たち。だから彼女たちの感情表現はいつも「イビツ」だ。ある者はストレートにその愛情をパートナーにぶつける。ある者はパートナーの「道具」に徹する。ある者は拗ねる。ある者はパートナーを思うあまり、「最後」の方法を取る。
 彼女たちは自分がどうイビツなのか、認識する力がない。だからその思いはとめどなく深化し、彼女たちの心そのものを押しつぶしていく。彼女たちよりは恐らくより「完全に近い」心を持っているパートナーたちは、それゆえに悩む。しかし答えが出るわけではない。結局、洗脳されたわけでもないパートナーたちも「完全な心」などは持っていないことが示される。そして、それは私たち読者も同じことなのである。
 彼女たちが、自らの運命をどこに置くことになるのかは、結局誰にもわからない。私たちは彼女たちの運命の流れ着く先を、ただ呆然と見続けることしかできないのである。

2002年07月14日(日) 劇団始動……か?/『電人ザボーガー』1・2巻(一峰大二)/『カムナガラ』4巻(やまむらはじめ)ほか
2001年07月14日(土) シナリオ完成!/『クレヨンしんちゃん』30巻(臼井儀人)ほか



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