無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年07月15日(火) それはそれなんだってば/『プラネットガーディアン』1〜3巻(高坂りと)/『サトラレ』4巻(佐藤マコト)

 追い山(山笠最終日)だけど、今年も長雨のせいで、山笠廻りができなかったなあ。結局、見られたのは博多駅前のやつだけ。
 『金色のガッシュ』はそれはそれは悲惨な出来でございました。いやもう等身違うし、どの人形も顔が殴り描きでぜんっぜん似てねー。あれは元絵が落描きなみだという皮肉のつもりかね。
 写真はこちら↓。
 http://www.rakuten.co.jp/meigetsudo/423266/423242/
 ガッシュの隣にいるの、誰だよ(-_-;)。
 福岡にいると学会員、写真に収めてと学会で発表すりゃいいと思うんだが、クレームが怖いのかな?(^_^;)


 俳優、坂口祐三郎さんが、13日、脳幹出血のため死去。享年61。

 テレビシリーズで主役を張っていながら、その後、私たちの前からほぼ完全に消えていってしまう役者さんたちがいる。
 『隠密剣士』『月光仮面』の大瀬康一さんなどはその典型的な例で、昭和30年代を代表するテレビシリーズ2本に主演していながら、その後は散発的にドラマにゲスト出演したあと、隠退してしまった(現在は杉並区で貸しビルのオーナーをされているそうである)。
 こういう場合、たいていは「ヒット作の役のイメージが強過ぎて、仕事が来なくなった」と説明される場合が多い。それを嫌って、それまでとは全く違う役柄、例えば悪役や汚れ役に挑戦したり、舞台にその活動の場を移す方も大勢いらっしゃる。『ウルトラマン』の黒部進さんや『キャプテンウルトラ』の中田博久さんは、ひところは時代劇の悪役ばかりされていた。

 坂口祐三郎さんも、『仮面の忍者赤影』のあと、ブラウン管から全くと言っていいほど姿を消してしまっていた。
 たまに『水戸黄門』に水戸綱条(黄門の養子)役で顔を見せたり(これも柳生博さんに代変わりした)、『人造人間キカイダー』にゲスト出演してゴールドウルフ(原作のゴールデンバットに当たる)を演じたりしていたが、さて、どれだけの人がそれを坂口さんだと認識していたろう。
 坂口さん自身もよくインタビューや著書などで、「赤影のイメージが強く、仕事が来なくなった」旨の談話を語っているのだが、果たして本当にそうだろうか。私はそれを随分長いこと疑っているのである。
 というのも、『赤影』の場合、坂口さんは殆どその素顔を仮面に隠して晒していない。第1部「金目教編」で、傀儡甚内に「忍法顔盗み」で素顔を移されたときにチラッと素顔を見せたくらいで、ほとんど一年間、仮面をつけっぱなしであった。これでどうして「イメージが固定する」と言えるだろうか?
 大学の頃、片岡孝夫(片岡仁左衛門)のファンだという女の子がいて、「私、片岡さんは『赤影』の頃からファンなんだ」と言い出したことがある。はて、片岡孝夫が『赤影』に出演してたっけか、と私は首を捻ったのだが、その子が更に「何言ってんの! 主役じゃない! 一度だけ素顔を見せた時の美しさったらなかったわ!」と怒鳴ったので、「……『赤影』の主役は片岡さんじゃないよ、坂口祐三郎さんって人だよ」と言ったら、「えええ! うそ! 顔、同じじゃない!」と驚いていた。
 そのころ片岡孝夫はテレビの『眠狂四郎無頼控』に出演していて、吊り目にメイクしていたから、まあ坂口さんに似ていると言えなくもなかったが、やはり別人である。まあ、彼女の場合は特殊であるだろうが、坂口さんの顔がそんなに世間に浸透していたとはとても思えないのである。

 『赤影』のテレビ放映が1967年4月から68年3月まで。その直後に坂口さんは芸名を「坂口徹」に変更している。1969年7月公開の坂口さん唯一の主演映画、『飛び出す冒険映画 赤影』のクレジットは「坂口徹」だ。「赤影」のイメージを払拭する意図だとしても、翌年とはいささか早い。本当に全く仕事が来なかったというのは事実なのだろう。けれど私はそれは「赤影」出演とは何の関係もないと考えている。
 つまりは坂口さんのマスクが美しすぎたのだ。テレビドラマの、それも子供番組の主演がキャリアに全くと言っていいほど影響しない、というよりは映画スターに比べて明らかに差別されていた時代のことである。別のドラマにすぐ主演、と仕事が続くものでもなく、かと言って別の番組にゲスト出演しても、あの美しさでは主役より目立ってしまう。番組製作者たちはあえて坂口さんを使うことを避けたのではないか。もっとキツイ言い方をすれば、あの当時のスタッフたちの中に、坂口さんの美しさに「嫉妬」していた人も結構いたのではなかろうか。

 「役者が育たなくなった」と言われて久しい。現在、舞台や小劇場出身の役者が重宝されるようになってきているのは、つまりは映画界やテレビ界に役者を育てるシステムがなくなっているからである。それは実は坂口さんが『赤影』で活躍していた30年以上前から続いていた。
 坂口さんは『飛び出す赤影』のあと、更に「坂口徹郎」に改名して、この時代が長い。熱心なファンは、「坂口徹郎」にも愛着があるかもしれないが、恐らく坂口さんにとっては長い逡巡の時代であったことだろう。
 そして近年、坂口さんは『赤影』のころの「坂口祐三郎」に戻した。晩年、「日本芸能教育センター」の講師を務め、俳優養成に力を注いでいたのは、自らが干されてきた経験が影響しているように思える。
 しげは、某所で芝居の練習中に、二度ほど坂口さんとすれ違っているそうである。一度は坂口さんかなと思ってじっと見つめてしまい、目が合っちゃったとか。ああ、なんてうらやましい。


 山本弘さんの「SF秘密基地」には、最近殆ど書きこんでいない。
 もともと殆どROM専だったのだが、一時期、荒らしが横行し、それに反応してレスを付け続ける定連さんたちのあまりのアタマの悪さに、私はすっかり閉口してしまった。書きこみの文章を読めば「こりゃ荒らしだな」とすぐ気がつきそうなものなのに、まるで見抜けぬ人が何十人もいたのである。そのあたりのバカっぷりは、いくつかのサイトで始終笑われているのだが、定連さんはどこ吹く風だ。
 山本さんが設定した「掲示板のテーマから逸脱した内容を書いてはならない」とか、「ありふれた内容のスレッドは立てない」などのルールも、記憶している人は殆どいないようだ。
 知識はあるが常識はない(その知識にしても偏狭なものが多い)人たちのダラダラとした会話を見続けるのも苦痛なだけなので、最近はたまにちょっと覗くだけになってしまっていた。

 それが、昨日覗いてみたときに、「トンデモ映画」をダラダラと書き綴っているスレッドで、山本さんの次のような書きこみを見つけたのである。

> 大林監督には他にもトンデモ映画がいろいろありますよ。『ブラックジャック/瞳の中の訪問者』『金田一耕助の冒険』『少年ケニヤ』『漂流教室』……。
> どれもこれも、シリアスなシーンをギャグにしてしまうなど、原作のイメージをぶち壊しまくり、一部には原作を嘲笑しているように見える描写まであって、不快感さえ覚えます。僕が原作者だったら絶対怒るぞ。

> 印象に残ってるのは、『金田一耕助の冒険』の一場面。
> 原作者の横溝正史氏のところに角川春樹社長(当時)がやって来て、「今回の原作料です」といってケースを開けると、中には札束がぎっしり。
> そもそも出版社の社長みずから現ナマを持ってくるなんてありえないんだけど、なんか原作者に対する悪意が感じられてなりません。
> この映画に関しては、評価する人もいるんですけど、僕個人としては、いくらなんでも、他人の創ったキャラクターにこんなことを言わせる監督なんて許せません。
 ↓
http://www.fukushi3.org/~yokomizo/bouken.html


 『ブラック・ジャック』が手塚治虫の気に入らなかったらしい、ということは伝え聞いているが、『金田一耕助の冒険』については横溝正史は特に不快感を抱いてはいなかったはずだ。映画化に関して基本的に一切注文はつけない、というのが横溝正史のスタンスで、片岡千恵蔵が洋服を着て金田一耕助を演じても、『本陣殺人事件』や『八つ墓村』が現代に時代を移して映像化されても、「あ、そう」ですましてきた経緯がある。「原作に沿ってほしい」気持ちがなかったわけではあるまい。そうエッセイに書いていたこともある。しかし、小説を全てそのまま映像に移すことは不可能であるし、逆に何の映画的アレンジのない映像化はたいてい失敗作になる。横溝正史はそのことを熟知していた作家であった。
 更に言えば、当時、まだドラッグに狂ってはいなかった(^o^)角川春樹は晩年の横溝正史を実の父のごとく仰いでいたし、横溝正史も、「やんちゃ」なこの若社長のバイタリティに好ましいものを感じていた。でなければ、社会派推理小説の台頭にくじけて、一端は筆を断っていた老作家が、矢継ぎ早に四長編(『仮面舞踏会』『迷路荘の惨劇』『病院坂の首縊りの家』『悪霊島』)を書き上げ、更には自作の映画化作品に4本も出演までしてしまうことがありえるだろうか(『犬神家の一族』『悪魔が来りて笛を吹く』『金田一耕助の冒険』『病院坂の首縊りの家』)。
 実際、山本さんが紹介しているサイトも覗いてみたが、「当時の角川映画の評価をそのまま採り入れた、自己批評」と、好意的かつ的確な批評が書かれていた。そう見るのが妥当であろう。
 まあ、あの映画が随分「乱暴な」映画であることは否めない。そこを許容できない人にとっては、「なんじゃこりゃ?」と感じるのも当然なのだが、山本さんは、激昂のあまり、当該のサイトもよく読んでおらず、事実誤認をしているのではないか、と思ったので、本当に久しぶりに書きこみをしてみることにした。
 7月14日付で私がつけたレスが以下の内容である。

> 単純なご記憶違いだとは思いますが、このあと、こんな展開があります。
> 横溝正史氏が札束をペラペラとめくると、ホンモノのおカネは一番上の一枚だけで中身は全部白紙。正史氏は「中身は薄いねえ」。頭を抱える角川春樹に向かって、追い討ちをかけるように「私はこんな映画にだけは出たくなかった」(『悪魔が来りて笛を吹く』について横溝正史が「このような恐ろしい物語だけは書きたくなかった」と語ってCMにも使われたセリフのモジリ)。コケる角川春樹。
> つまり、当時散々「カネだけかけて映画の出来はどうしょうもない」と批判されてた角川映画に対する皮肉であるわけで、横溝氏に対する悪意は大林監督の意図にはないと思います。

> (「他人の創ったキャラクターにこんなことを言わせる」ことについて)多分このあたりは大林監督よりもダイアローグライターのつかこうへいの趣味が出てるのだと思います。『熱海殺人事件』のくわえ煙草伝兵衛のセリフに共通するものがありますから。

> けれど、実のところ、「探偵ってのはね、一つの事件に対して、怒りや憤りを持っちゃいけないもんなんですよ。一つの殺人から、どう広がっていくだろう、そしてこの殺人がもう一つの殺人を生むんじゃないかしら、そう考えることが楽しいんですよね。」と似たようなことを原作の金田一も頻繁に語ってはいます。
> 殺人が起きるたびにワクワクし、またワクワクしてしまう自分に対して自己嫌悪を抱いて事件後失踪する、そんな行為を金田一は繰り返しています。そのあたりの「事実」を元にして、一つの「探偵論」「金田一耕助論」として語らせたのがあのセリフですから、好き嫌いは別として一つの「批評」として認めてもよいのではないでしょうか。


 これについて、今日、再び山本さんからついたレスが以下のもの。

> 記憶違いではありません。そのシーンも記憶しています。
> たとえ中身が紙だろうと、「金が欲しくてこんな映画を作ることを承諾した」かのように見せるって、ひどいんじゃないでしょうか。

> 『ねらわれた学園』でも、ラスト近くで眉村卓氏が、(いかにも映画の内容を嫌がっているかのように)机をどんどん叩くシーンがありましたっけ。
> 僕はそういうのも含めて嫌なんです。
> 「ほら、原作者もこの映画を嫌がってますよ」
> と観客に示して自虐的な笑いをとってるわけだけど、これって原作者に対してすごく失礼でしょ? 自分は原作者に嫌がられるような映画を作っていると自覚していて、なおかつスクリーンでそれをアピールしてるんだもの。

> そもそも、原作者ってのは映画の内容にはほとんど口出しできないものです。映画化権を売ったが最後、どんな映画になるか、監督を信頼しておまかせするしかない。
> たとえ心の中で「こんな映画は最低だ」と思っていても、おおっぴらにはそんなことは言えないし、作り笑顔を浮かべて映画の宣伝にも協力しなくちゃいけない。
> そんな原作者の弱い立場をさらに踏みにじっていると、僕には思えるのです。

> もちろん、これは主観の問題なんで、どっちが正しいとは言えません。たぶん藤原さんと僕の感じ方の違いは、作家かそうでないかに起因すると思います。
> 自分の作品が映像化された場合のことを考えると、シリアスな話をギャグにされたり、主人公に「殺人が好きなんです」とか「次はあんたを犯人に仕立て上げる」なんて言わされたりしたら、はらわたが煮えくりかえると思います。それを想像すると、とても嫌な気分になるのです。
> どうも大林氏という人、原作というのは原作者からの預かりものだと思ってないんじゃないか、映画化権を手に入れた以上、どんなにめちゃくちゃにしてもかまわないと思ってるんじゃないか――そんな気がするんですよね。
> まあ、大林氏にかぎったことじゃないけど。
> しかも、改変して原作より面白くなるならまだしも、かたっぱしからコケてますからね(^^;)。『時かけ』や『転校生』って、数少ない成功例なんですよね。
 

 正直な話、随分トンチンカンなレスだとは思ったが、何かレスがついても反論する気はなかった。もともと、「記憶違いではないか」の事実確認のための質問であって、「原作を改変することはどこまで許されるか?」ということを山本さんに聞きたいわけではなかったからである。
 この手の議論はもう若いころに散々し尽くしてきて、私にとっては今更であるし(そうなんだよなあ、あそこの掲示板って、私が10代、20代のころに散々してたことを未だに繰り替えしてるんだよなあ。若いころよっぽど他人と会話したことない人間が集まってるんだろうねえ)、それはレスの流れの趣旨にも反する。
 こういう場合、更に山本さんに絡んで、愚にもつかない言葉を垂れ流してるのがあそこの定連さんたちなんである。それが結果的にあの板を荒らすことになる。私は別にそんなアホなマネをするつもりはないので、またさっさと退散することにした。ルールにも「平行線になった議論は切り上げる」とある。
 山本さんが「これは主観の問題なんで、どっちが正しいとは言えません」と語っている時点で、論題は消滅しているのである。話を続ける意味はない。……と言いながら、「主観の違い」ってのには賛同するけれど、ホントは「作家かそうでないか」は原因じゃないんだけどね、と余計なヒトコト(^_^;)。
 『アルマゲドン』論争だって、適当なところで切り上げるアタマを定連さんたちが持ってたらよかったんだけどねえ。


 マンガ、高坂りと『プラネットガーディアン』1〜3巻(エニックス/ガンガンコミックス・各410円)。
 オビの「キュート&毒注意な絵ですが、ブラックなギャグマンガです!!」という惹句に引かれて購入。
 でもそんなに毒が強いってほどでもなかった。魔女っ子ものの変形なのだけれど、そのアレンジが今一つ効果を上げていないのがネック。
 凶悪な宇宙犯罪者たち「アルゴル」が宇宙監獄を脱走し、地球に向かったのを知った監視者の「メルカバー」のピロスケは、ごく普通の小学生の女の子、如月古雪(きさらぎこゆき)に、地球を守るための「ガーディアン」の力を与える。ところがピロスケのとんだ手違いで、「アルゴル」がやってきたのは5年後だった。受験勉強に忙しい古雪は、魔法少女になる夢など、とっくの昔に捨てている。けれど魔女っ子オタクの兄・樹(いつき)にむりやり引きずりまわされ、アルゴルとの戦いに駆り出される毎日。第2のガーディアン、ヒロインぶりっこの早乙女リリカ(本名・山田良子)や、邪悪な意志に捉えられダーク化した第3のガーディアン、桐島雫(きりしましずく)たちと、ひと騒動を繰り広げながらもなんとかアルゴルたちを撃退していくが……。
 異星人の襲来が時期遅れだった、という設定がややおもしろいものの、キャラクター設定も展開もまあ、どこかで見たような、という印象が強い。もっとも、魔女っ子モノなんだから、ヘンに捻った設定されても逆につまんなくなりかねないうとは言える。でも、いい加減こういうのは見飽きちゃいるので、ちょっとくらいは意外性がほしいところである。


 マンガ、佐藤マコト『サトラレ』4巻(講談社/イブニングKC・540円)。
 今まで指摘し忘れてたような気もするが、この作品は「SF」である。
 考えてみたら「サトラレ」=「口に出さずとも、自分の考えが周囲の人に『悟られ』てしまう不思議な能力の持ち主」なんてのは現実には存在しないんだから、「もしもそういう人たちがいたら、この世界はどのような変容を見せるだろうか?」という発想で構築された世界観は、立派なSF設定なんである。
 けどそれも4巻まで続くと、随分「ほころび」が生まれてきてしまっている。
 サトラレである西山幸夫と結婚した小松洋子、二人の間には光という女の子が生まれるが、その子もまたサトラレであった。お互いの思念波で相手がサトラレだと伝え合ってはならないと、普段は父親を単身赴任させて二人が会える機会を制限し、再会するときにだけ、親には子の、子には親の、普通の人間の身代わりを立てることにする。
 ……ムリだよ(^_^;)。親子ってそんなに簡単に騙せるものだろうかって疑問がまずあるけれども、仮に騙せたとして、その子が成長したときに、「二人のお父さん」がいることを納得させられるとは思えない。これから先、5巻、6巻と続けていくなら、作者の佐藤さん、そのあたりの不自然さをどうクリアしていくつもりだろうか。
 好きになった女の子とも、自分の汚い心を見られるくらいなら会いたくない、と島暮らしを続ける木村浩くんのパターンの方がリアルだけれども、でもこの場合、浩くんは隠棲したっきりになっちゃうから、新たな展開って生まれそうにないんだよなあ。こちらもこれから先、どうドラマにしていくつもりなんだろう。

2002年07月15日(月) 開高健よりは痩せてると思う/『新ゴーマニズム宣言 テロリアンナイト』11巻(小林よしのり)
2001年07月15日(日) 演劇は愛だ! ……ってホント?/『バトルホーク』(永井豪・石川賢)ほか



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