NY州在住 <旧『東京在住』・旧旧『NY在住』>
kiyo



 パブリックイメージ・資本・見合い戦略

 論文を書いていていかにページ数を稼ごうか?と考えていると(なんせ100ページもかけっていう指導教授がいうものですから)日々目の前におきたこととか、読んだり聞いたりした理論をこじつけたくなる。

 なるほどソーシャルキャピタルとは、共同体における信頼とか観念とか黙示的な了解事項の集積と考えていいのかな、なるほどね。ふむ・・・。

「どうして私とディナーなんて行きたいの?」
「ほら、共同体の生産性向上にはソーシャルキャピタルへの投資が必要だ。そのためには、私たちは分かり合わなければいけない・・・」

焼きそばに紅ショウガ、カレーに福神漬けはソーシャルキャピタルだろうか?韓国人はなんにでもキムチだがあれはなんだろう?

ビールをたのむのに、「とりあえず」と枕詞をつけない奴が出世できなかったらそれはソーシャルキャピタルの負の側面と考えて良いのだろうか?


 などなど。その思考の飛びようと言ったら自分がキチガイになったんじゃないかと思ってくる。(社会科学ならではか?)ところがちょっとおもしろいことを思いついたこともあった。
 前回のエントリーで、自分の世間のイメージは自分の本来的なものではないと思われている若者が私の部屋に乗り込んできた話をしました。そんなパブリックイメージでいいことを思いついたので、今日のエントリー。(前フリが長いね。だから瑠さんによんでもらえないんだろうか?)

 世間のイメージとは、いわゆる「パブリックイメージ」ですよね。それもやはり、個人や集団が他の個人や集団との継続的な相互作用の中で生まれてきたものといっても良い。例えば「いやー俺って10歳以下の少女しか愛せないんだよね」と一度や二度いったところで冗談か?と思われるが、それが数年にわたって言い続ければ立派に変態としてのパブリックイメージは構築できる。

 かなりソーシャルキャピタルだ。キャピタルとは、日本語でいうと資本でしょうか?生産活動を行う元手になるもののこと。つまり、活かしてなんぼ、ということですよ。パブリックイメージもそう。

 この間の若者は、自分のパブリックイメージが気に入らずに悩んでいましたが、キャピタル(資本)である以上活かした方が良いのかもしれない、と思った。

 電通やゴールドマンの社員だったらそのパブリックイメージを活かして、合コンでおいしい思いをしたほうがいいかもしれないし、お嬢様大学(そんなの今あるの?)出身だったり、成城に自宅を構えて居るたりしてるんだったらそのパブリックイメージを活かしてセレブ風清純路線で見合いを進める方がいいかもしれないし、入れ墨をほってるんだったらそのパブリックイメージを活かして、恫喝でもってセールスをのばした方が良いのかもしれない。この写真のようにしたり顔でちょっと手の込んだパワーポイントを使って話をすれば頭が良い、と思われるのかもしれない。


 所詮、資本なのだから活かしてこその資本。その先のベネフィットは最大化した方が良いのではないかということですよ。

 さて、お気づきのことかと思います。
 自分のパブリックイメージは資本だから利益を最大化するために活用されることをおすすめしますが、逆に言えば、ゼロサムゲームな熾烈な駆け引きを求められるビジネスシーンでは、相手のパブリックイメージにだまされちゃいけないということですね。

 借金背負った外資系金融マンもいるかもしれない。その彼女は清純派AV女優かもしれない。田園調布の六畳一間のアパート(実際あるんですよ!)に住んでいるのかもしれないし、その入れ墨だって高校の頃のイジメの傷跡なのかもしれない。上の写真のお兄さんはタダの飲んだくれかもしれない。


 MBAの学生と話していると、二言目には、デューデリだ、デューデリだ、といってきますが、全くその通りだと思います。しかし、そんなパブリックイメージなどバイアスが世の中に蔓延してるからこそ、経済は古典経済学の予定する正規分布にならないわけで・・・。あんたの出身のその投資顧問事務所もサブプラで随分だまされたんじゃないのか?といいたくなる。

 あなたのパブリックイメージはなんですか?どう活かしていきましょう?
 ほら、今日はお後がよろしいですね。

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2008年04月27日(日)



 私とチャオズの関係性

 珍しい短期更新。(ええ、論文が行き詰まっているのでね。現実逃避ですよ)

 一般的にアメリカの大学学部生は寮生活が基本です。それは日本のように一極集中した形態を取っていないので、有力な大学が本当に散らばっているからですね。(マサチューセッツのような例外もあるようですが)さらに、この大学は山の中にあるもので誰もがみんなで一緒に小さな街に住んでいるようなものです。

 キッチンにて、ルームメイトと・・・。

ゴホゴホ。ゴホゴホ・・・。うー。
「まだ、咳続くね。大丈夫?」
「うん。どうしたもんかね。でも食欲はでてきたので今日は先々週に大量に作った餃子(チャオズ)をたべようかな。まだ冷凍庫にあるよね」
「そうしよう。私もそれでいいや」
「うん。じゃ、そうしよう。私が茹でるよ」
「ところで、どうしてチャオズなんて中国語知ってるの?まだ教えてないよ。」
「あー日本人なら誰でも知ってるんだよ。その単語はね。クリリンとかテンシンハンとかも必須単語だよ」
「え?なにそれ」
「こっちの話。」

 なんて会話をしていると、ドンドンドン!スチール製のやすっぽい我が家の戸をたたく音が。誰よこんな時間(夜九時頃)に。
 戸を開けるとなんと去年教えた生徒が立っているじゃありませんか!
 どうして私の住所を?あーそうだ。大学のポータルサイトから電話と住所がしらべられるようになってたんだ。飯時だってのに・・・。
どうやら相談があるそうです。何度も言うがいつからこの大学は高校の乗りになったんだ?大学のインストラクターに人生相談なんて。と心の中でつぶやく。突き放すわけにもいかないので、ルームメイトにお茶とお菓子を頼み、自室に案内する。(っていうか、こう思い返すとルームメイトが嫁みたいだね。本当にルーミィ以外なにものでもないのですが)


 その晩やってきたのは韓国からの留学生。「君、韓国語で話すのはだめだ。せめて英語にしてください。最近韓国語は使ってなくてね。・・・。まず聞きたい!学部の一年生は多くの授業を取っているはずだし、若いインストラクターなら他にもいるでしょ?日本人がいいなら、そうだな、もっと信頼できそうな樹本さんなんて良いんじゃないか?」
「いや、この前、ジョナサンが先生の部屋に行って相談にのってもらったってきいて。ほかにもタマラが日本に行ったときしゃぶしゃぶご馳走してくれたたって聞いたから。Kiyo先生ならプライベートがオープンかなって思って
 大いなる誤解だ。いずれの例も勝手に押しかけてきただけよ。あっちから。

 ともあれ、私が咳き込んでいるのを無視して自分の問題を語り出す。
内容は、あらゆるアメリカの大学で形成されてる韓国人社会の話。韓国からの留学生は、アメリカの有名大学に留学ができる頭がよくてお金があるエスタブリッシュメント(日本語だと「セレブ」というんでしょうか?)として、いわゆる「俺らは選ばれた人たちだよな。しょんぞそこらのソウルの大学や日本あたり留学してお茶を濁してる奴らと訳が違うよな」という仲間意識でもって接してくる。他方、アメリカ育ちの韓国人は、「このアメリカにおけるマイノリティとして一緒につるもうや。薄情な白人どもとは付き合いきれないぜ」という仲間意識でもって接してくる。どっちの仲間意識も自分を自分として見てくれていない気がする、どうしたものだろうか?俺個人を考えた上で友達を作っていきたいが、私の韓国人としての属性しかみてないんじゃないか?かといって、彼らは基本的にまぁまぁ良い奴もいるから、無碍に付き合わないのもどうかと思う。


 という内容でした。聞き終えた後に、「私が修論で忙しく、風邪を引いて、晩飯どきに、そのうえアポ無しで相談をしなくちゃいけないことだろうか?そういう空気の読めないところが半島出身者の証だからどっちのコミュニティでも上手くやっていけるんじゃないか?」と思った。思っただけ。桜の咲き誇る季節(そうです。今が満開です)につっけんどんなのもどうかと思ったので、何かいってみることに。

 やっぱりこの人も、この前相談にきた奴と同じことに気付いた。この前の男の子は「人と違った何かをしたい。大勢に流されず自分らしく生きていきたい」ということだったが、この人の場合も「自分をちゃんとみてくれ。おれはそんなカテゴリーには入ってないぞ」ということだった。自分と他人との関係性

彼らの期待を裏切るようなことをしながら付きあい続ければいいんじゃないかな?韓国から留学生に対しては、貧乏っぷりを見せつけたり、『いや、おれは卒業してもMBAやPhDには全く興味はない。料理人になる(そうなんです韓国社会では料理人の民度が低いのです)』と公言すればいいし、アメリカ育ちの奴らには『今日もジョンとバスケいってきたがすごい面白かったよ。今度飲みにいくんだ』といっていれば、彼らのあなたへの期待を裏切れる。」
「なるほど」
「そう、期待を裏切ることは大切だ。相手の前提をはずすことができるからね。前提が崩されたときに人はもう一度最初から認識をし直す。そのときには君のことを最初から考えてくれるはずだ。その上で君とつるみたい奴はつるんでくるだろう」


 なんて話をしたら帰って行った。アメリカで学部生活を送るとこんな悩みをもつのか。少なくとも私の知る限り、日本の学部生は他人との関係性なんてあんまり気にせず、葛藤はもっと内なるものにあったように思う。かわいくない自分とか、面接がうまくできな自分とか、浮気をされる自分とか。いずれにしても、講師に相談することなんてあり得なかった。この違いはどういうことだろう。

そう思って階下におり、夕食を食べた。私のチャオズは冷めていた。元気をくれ。

【追伸】写真は昨日撮ったもの。二枚目の写真で、木の上に少女がいるのがお気づきだろうか?


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2008年04月24日(木)



 風邪と不確実性のブラックスワン

 さて、季節もかわりはじめているイサカです。去年もそうだったように記憶していますが、春をスキップしているようです。いきなり暖かくなり、私も半袖で学校にキャンパスまで行くことが多くなりました。冬でも夏でも、太陽光がきらいな私はサングラスをしていますが、そのほか、すぐに帰ってくる予定の場合には(夜に帰宅が及ばない場合には)短パンでだってキャンパスに行きます。

 ところが、実はここ四日間風邪をひいて寝込んでおります。変だなと思ったのは金曜日の夕方(実は先週の木曜日・金曜日はまれに見る激務だった)すこし喉の痛みを感じたんですよ。そのときは危ないという認識はなかったのですが土曜日にはすでに寝込んでおりました。


 原因ははっきりしていてイレギュラーな予定が入ったんですよ。あーそこで無理をしたのか、と。無理が利かない体になったあたりを加齢のせいにしていいのでしょうか?それとも、季節の変化により体に感じないくらい徐々にストレスがかかっていたんでしょうか?

 何はともあれ、月曜日の朝一で病院にいって薬を処方してもらってそのまま部屋の中で倒れております。心配した中華ルームメイトは、右往左往してくれていますが、本当に気にしないでほしい、と思う。香港産の薬を持ち出されたときは命の危険を感じたので丁重にお断りしておきました。


 こういう生活(大学の中で本を読んだり考えたり書いたり、偶に人と議論をする)は一般的な商売に比べて別に楽じゃないと思うのですが、やっぱり「不確実性」を相手にすることはないですよね。ほとんど予想の範囲内。今日の話はそんな話。

 どうやら、大混乱祭り中のアメリカの金融業界ではヘッジ可能(予測可能)な「リスク」と予測不可能な「不確実性(uncertainty)」とをどう折り合いをつけるのか、というのが最もホットな話題らしく、『Black Swan』(Nassim Nicholas Taleb 2007)(参照:http://en.wikipedia.org/wiki/Black_swan_theory)がめちゃくちゃなベストセラーらしいです。講義でも何度とりあげられたことか。

 つまるところ、日本のレストランで、店員がミスって客の頭にコーヒーをぶちまけても、せいぜい訴えられる、胸ぐら捕まれる、一週間程度のけがだろう、じゃ、その確率とコストを計算して、保険などでヘッジしよう、という話がリスクヘッジで、そのコーヒーかけられた客が店に自爆テロまで起こす、という突拍子もないことが不確実性ということですよね。そんな突拍子もないことがおきたときに我々の対処はどうあるべきか?ということらしいです。(例は私が作りましたので本当に適切かどうか分かりません。いま金融業界でおきているのはまさにその突拍子もないことなんだとか。)

 それはそうと、日々触れあう人が多くなればなるほど不確実性がおおくなるわけで中々ヘッジ出来なくなる。他方で、私の生活は、本や論文との対話が70%で、あとは少しの講義と、先生やグループとのミーティングです。だから、本の中の著者は私にウィルスを持ち込むことはないので、他人からうつる風邪なんて限りなく不確実性に近い、そういうことを前提として予定を組んでいるわけですね。(実働時間としては一般に働いている方と同じか、それより少し多いことかと思われます)

 そこにイレギュラーなお客様がいらっしゃると、途端に私の生活リズムが狂い色々不確実なものと向き合わなければいけないというわけです。するとこの論文提出を目前に控えたこの時期に風邪を引いたりするわけです。何も読めないくせに、頭は多少なりとも働き、なりやまない咳のせいで眠れないものでこんなことばかり考えていました。

 それでも、予定は動き続ける。スケジュールを一杯一杯に組み、余裕のないことをしていると、不確実性による混乱のダメージは乗数的にでかくなる典型を身をもって体験しております。ま、ありえないことを不確実性と定義しているのだから、そのための余裕などそもそもナンセンスなんですが、少し代替可能な予定を組んでおくべきだったと後悔しております。例えば、ゴルフのスケジュールを週三回入れておいて、万が一と言うときはそれを全て勉強に充てることが可能だとか。おお、まさに流動性の確保ということじゃないか!  

 というわけで、学期末ということもあり絶対に休むことが出来ない状況が続いておりますので私はマスクをして這ってでも予定をこなしているわけです。後悔先に立たず。


 今日は本当にマニアックな話になりましたね。今日はコメントもメールもないだろうな・・・。きっと最近拙宅にいらしたNさんあたりしかほくそ笑んでもらえないかもしれないネタでした。


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2008年04月23日(水)



 同居人との食生活

 実は、二月の終わりに引っ越しをした。なんか海外に来てからどんだけ引っ越しをしたのだろう、と思うほど何回も引っ越しをしたから随分手慣れてきた。日本にもし帰ることになっても、小金が貯まったらすぐ引っ越しを繰り返す生活をしてみたいと思ってきた。所詮、机とブロードバンドとノートと簡単な本棚があれば、どんなに狭くても構わないんだなって思った。最近は読む物も全部ハードドライブに詰まっているご時世だし。

 今回の目玉はルームメイトと二人暮らしということだ。ルームメイトは私より年上の中国人の女性で、入学以来同じコースで、しかも環境保護関連に興味があるということもあり仲良くしてきたので、すんなり話は進んだ。

 お互い、図書館ではなく自室で作業をするタイプということもあり、引きこもっている。隣同士で引きこもり、ご飯時や散歩時になるとMSNメッセンジャーで「何食べる?」とか「散歩に行くか?」などの会話をする。(ノックをしないあたりが、ヒッキー全開だ


 どちらともなく、私が作る、という話になるので、相手が主張したときには従うことにしているが、驚いたことはオール中華。中華料理店にあるような感じじゃなくて、とても素朴でおいしいので全く問題はない。その上、そこかしこに、今まで見たことないようなスパイスをブレンドしたり、甘い中華ハムが出てきたりと目と舌を楽しませてくれる。毎日楽しみだ。でも、毎晩中華。お昼ご飯を作れば、やっぱり中華風麺類。こんな感じ。おいしそうでしょう?


 ところが、しばらくして、驚いている私が驚かれなければいけないことに気付いた

「kiyoが作る食事はとてもおいしいけれど、どうして日本料理が少ないの?パスタとか、オニオングラタンスープとか。確かに、このサーモンの香草焼きとか、ご飯がついているけど日本食じゃない感じがする」

 なるほどね。日本人の食生活って典型的な日本食じゃないですね。ま、元をただせば天ぷらだって、すきやきだって外国の食べ物をまねた物なんでしょう?日本人は結構柔軟にできているんですね。

「子供の時からやっぱりこんな食事だった?」と聞かれて、やっぱりハンバーグとかミネストローネとか印象があるかなー、こういう私の料理より母の料理は遙かに雑だったけど・・・と答えると意外そうな顔の中にも微笑みがもれたのものです。


 ま、アジア食材のスーパーもほとんど行かないし。日本人は結構進歩的においしい物なら何でも食べていたんだな、と気付きました。というわけで、少しは日本的なものを食べてもらおうと、日本から届いた私の大好物「ちりめん山椒」を冷蔵庫から取り出してきて食べさせたら(いつもは私の夜食用だ)感激していた。韓国人には受けが非常に悪かったが、中国人は、あの甘くて偶にぴりっとくるちりめん山椒が好物らしい。

 と、思って一週間たったらタッパーの中のちりめん山椒が激減していた。勝手に食べたな・・・。腹いせに、マカオで買って持ってきたという肉の甘辛煮のおやつを沢山たべた。こういうのをチキンゲームというんだっけ・・・。

ま、共同生活も楽しみがいがありますね。今晩は一緒に作ろうか、餃子でも。

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2008年04月15日(火)



 散歩の目線

 イサカもいよいよ暖かい日が一週間に二度くらい訪れるようになってきました。すると、虫やリスさん達とさきを争うように、広場では学生がフリスビーやキャッチボール、テニス、サッカーに興じ、家族連れやカップルは、近くの州立公園の森に繰り出すわけです。ほほえましい。

 私も、そろそろ散歩やジョギングをしだすわけですね。腰の状態を確認するために長時間散歩をしてみました。延々と続く草原を一時間歩くとやっと林が見えてきたり。鹿にみつめられながら、さらに歩くと川にぶつかったり。なるほどね。これが冒険譚の世界な訳だ。(ちなみにこういうときにはi-podは不要だと思いませんか?)

 そんなことを考えていると、そういえば日本でもよく散歩してたけど何かが違うと思ったのです。なんだろう・・・。私が楽しかった散歩といえばなんといっても杉並だが、地方にいって一番楽しかったのは、盛岡だろうか?あのうっそうと茂る森の中を歩く気分は何ともいえない。蒸し暑くて歩くのが大変でも、何かが違う。こっちが良いとか悪いとかではないのですよ。

 ま、違いはたくさんあるんですけどね。土の色もちがうし、それにともなって植生もちがう。私は、環境保護と開発の関係を勉強している割には全く植物学について詳しくないので、ああー色が違うなー、とか、大学受験の時に選択科目にした地理の中で、○○気候だから、気温の変化がどうこうで、植生がこうなる、っていう暗記的なことしか思いつかないのが寂しい。

 それでも、一歩一歩踏みしめながら歩くと、「あーそういえば、この前の『生物多様性』についての講義で、土の中にある目に見えない『多様性』について考えるために顕微鏡で色々覗いたんだよね・・・。私の足の下にもそんな多様性が潜んでいる訳か」なんぞ思い出して、学費を取り返した気分になる。(費用対効果の無駄としか言いようがない)

 そんなこんなで、ま、日本の散歩とここでの散歩との違いに気付いたわけですよ。

 それは視線。

 日本の散歩だと半径一メートル範囲内の小さなことがきになってしょうがない。一本一本の木や、それこそ木の根っこが楽しい。それぞれの木に「威」があるような気がするのは、八百万の国だからだろうか?(変換していて気付いたが「異」でも良いだろうか?)霧に抱かれると眠くなりそうだし、根っこからはヌラヌラとした魂が呼びかけてきそうだ。そんな森でピクニックをしようものなら、弁当を取られかねない。

 そこいくと、ここの散歩ははるか何キロ先の地平線を眺めながら歩いている。(ま、それでも「威」がある奴(木)にでくわすが、その木のウロからは、毒リンゴを食べると助けてくれるような小人か、奇妙な花粉を飛ばす妖精がでてくる気分だ。いずれも人型だ。)是非とも弁当を分け合いたい。

 ま、そういうことだ。この人里離れた場所にいると、つねに世界平和とか、地球環境とかそんなことばかりで、自分の足下は見落としがちだということだよ。


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2008年04月08日(火)
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