NY州在住 <旧『東京在住』・旧旧『NY在住』>
kiyo



 そしてあなたもここにいた。

 なんだか二日連続のエントリー。(本当は、月木くらいで書いていこうと計画しているんですが・・・。)

 週末、日本人の大学院生・研究者の集まりがあったんですよ。そして参加してきました。なかなか楽しかった。1万6千からの学校関係者の中で、日本人は100人にも満たないといいますから、やっぱり少ないですよね。(学部生含めてですから本当に少ない)

 やっぱり、日本の社会では、留学とか学校機関を通してのキャリアアップに対してインセンティブがないですよね。良いとか悪いとかではなくて。やっぱり現場での知識・経験が代え難いのですよ、という哲学でしょう。

 構内で、アジア人っぽい学生の集まりをみると必ず韓国人ですものね。(中国人の方は多く、ポスドクなどより専門的な分野からくるらしい)韓国人の団体の集まりには、何百人と集まるそうです。(っていうか、その時間とコストをかけて帰国したところで、あの国の経済に未来はないと思うのだけどどういうつもりで来てるのでしょう?答えは、送り出す親が持つ幻想に他なりません。)それにくらべて、うちはほのぼのとしたものです。上を見ても30人程度。しかも家族を含めて。

 始めは、バーベキューとコールスローとオートミールとパンをそれぞれとって、昼食。みんな仲良くなったあたりで、立ち話をする人や、子供と遊ぶ人や湖にたたずんでいる人などがでてきます。(みんな、30歳前後の人なので、ふつうに妻子を連れてきている。これも、韓国・中国人との違い。)

 そしてバレーボール部の人がバレーコートを作ってくれたので、私は数年ぶりにバレーボールを。(どうやらバレー部やテニス部があるらしいぞ。スキー部があれば入ったのだけど)

 非常に疲れましたが、非常に楽しかった。

 帰りに、同じコースの独身の方と話したんですよ。

「やっぱ車良いよね」
「いいですよねー。生鮮食料品買うのに、40分歩きませんからね」

「留学するには、結婚もありだね。」
「そうですね。ほのぼのできますからね。」

 確かに、遠く離れた山の中で一人戦っている感じから、結婚して妻子を連れてきている人を見ると、ここで二人だけの生活を築いていく感じがする。

 車はこっちで調達できるにしても、結婚は、つれてこなくちゃいけなかった。

「アメリカ・ニューヨーク州イサカで、のんびり暮らしたい人〜!手を挙げて!!私と結婚して一緒に行こう〜!」

 って誘ったら誰か来たかな?って思いながら、帰りにスーパーであり得ないくらいの飲料を買って、寮に帰り、昼寝して、宿題してました。

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2006年08月29日(火)



 そして始まるここでの生活

ここ、イサカで生活を初めて一週間がたとうとしています。
だいたい地理も覚え、オリエンテーションも終わり、寮での生活のスタートアップもだいたい終え、授業も始まりました。

授業が始まってみると、「あーやっぱり私は魚屋から肉屋になったんだー」という気持ちでいっぱい。今まで、政治学とか人権とかしかしてこなかったのに、今度は、国際開発という、とても経済とか社会学の領域に踏み込んでしまった。

ミクロ・マクロしかしらない私にどうやって、マスターレベルの授業について行けと?と本当に本当に胃が痛い日々が続いたものですが、きてしまった以上はなんとかしなければいけませんよね。

そういえば、あるカメラメーカーの知人は、材質系で博士号をとっておきながら、入社後はいきなり「黴(カビ)研究」とか始めさせられたというし(にしちゃ、私のカメラは未だにカビに悩まされているんだが)、友人のSEは、ネットワークエンジニアとして招聘されたのに、延々と幼稚で腐敗しきった上司(しかもそれが親類だというから手に負えない)との交渉に明け暮れて円形脱毛症になった。また、ここで知り合った素敵な日本人の方も農学で修士号ととったあとに開発コンサルの仕事にずっと携わることになったという。(そして今では開発に関して深い洞察と哲学を持っていらっしゃる)

そう、いきなり方向性がかわるなんてどうってことないんですよ。それが社会ってもんだ。まだ、社会科学に携われるだけ幸せだと思わなくちゃ。(いきなりシェイクスピアを読み始めるよりましだ、とかそういうこと)私にしてはポジティブシンキングですが、やはり、こうした周囲の多くの尊敬できる知己のおかげなんでしょう。みなさんありがとう。

東大の友達に、開発や開発経済に関する論文のコピーを持ってきてもらうようにお願いしたので、なんとかパースペクティブ(考え方)を習得できたらな、と考えています。

大学にはいったときに、目白のキャンパスはとても良い環境でした。緑に恵まれ、空の下で静かに本が読める。それからというもの、私はずっとキャンパスのある大学で勉強することが大好きになりました。

ここ、コーネル大学も、そうした意味では望める最高の環境だと思います。美しい木々や庭園に、荘厳な校舎が建ち並んでいます。帰宅中に、下を向かずに歩いている自分がいる。眼下に湖をのぞみながら帰宅するなんて、やっぱり私は人がうらやむ環境にいるのだと思わざるを得ません。(他方で、毎日20分山登り。とか、万歩計つけるまでもなく、ベッドによるに寝ころぶと足が痛くなっている、とかいう副作用はたくさんある。あと、冬は厳冬で死ぬとか。肉をゲットするのに徒歩40分だとか)

肉屋が魚屋になった気分なので、まだなにを履修していいかも、もう悩み初めて4日になりますが、決まりません。勉強とか宿題とか論文だとか、大変なことは多いけど、いずれにしても私のイサカでの生活は始まってしまいました。

本当はみんなでここで生活できたら、と思ってしまいます。それが私の一番の希望かも。

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2006年08月28日(月)



 驚きの通学路

こっちについてから、私のNY生活は何だったのだろうとおもうくらい、ありえないことが起き続けています。

たとえば、20度はあろうかという急な坂道を毎日20分近くも登るのか?朝、部屋を出て、「少し涼しいな」と感じて、あーフリースとか持ってくるんだったかな、っていうアイディアは学校に着く頃には、消え失せる。なぜなら汗だくだから。w
(学校には10分で着くものの、私の行き先の校舎はもっと果てにある。さすが農学部)

一番驚いたのは、なんで、渓流を眼下50メートル下に見下ろしながら私は学校に行くの??なんで?ここ学校だよね?しかも、それなりにアメリカでは有名な学校なはずなんですが。

私が大学に入ったときに目白に鬱そうとした森があったのも驚きましたよ。でも、お茶の水の聖橋みたいな橋を渡り、眼下に滝ともつかない水の流れを見下ろしながら、遙か先には、湖をのぞみながら、学校に行くことになろうとは。

アイヴィーリーグの学校らしく、蔦(アイヴィー)がからみついた校門や校舎、中世の城を思わせる校舎群。手入れのいきどいた芝生・花壇など、写真で見る限りは、世界でももっとも美しいキャンパスの一つなんだろうと思います。

でも、なんでここに大学があるんでしょう?
毎日それを思いながら、私は今日も、渓谷に建った橋を渡るのです。


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【写真】
上から、
校門の一つ(いくつかある。私はいつもここをくぐる)
渡る橋。
橋から眺める景色。

2006年08月23日(水)



 イサカまでの道程<私の最も長い一日>

さて、18日に日本を離れ、いまはニューヨーク州イサカというところにきてしまいました。

ほんとうは、17日の夜などには、お世話になった人々へご挨拶の電話をしたかったのですが、ちょっと『小川軒』で、ごちそうになった折りに、おいしいワインをたくさん勧められてしまい、私、もう大変なことになっていました。
泥酔といってもいい状態。忙しい中、その後で駆けつけてくださった瑠さんともまともにお話しできない状態。
気分が悪い中、大阪からわざわざやはり駆けつけてくれたお友達の助けを借り(というか、ほとんど全部やってもらった)一晩かけて荷物をパッキング。
徹夜で(いや、14日あたりからベッドの上で睡眠をとった記憶がないくらい寝てなかった)やっとのことで新宿からリムジンバスで成田。成田からANAでニューヨークJFK空港へと旅だったわけです。

もう、胃は何も受け付けないし、数分じっとしていると寝てしまう状態で飛行機に乗ったものですから、もう飛行機の上では意識は虚ろでしたよ。
本も一冊も読まず。
オーディオ機器で映画や音楽を楽しもうと思ったら壊れてるし、その質問をCAにしたら、周りの人に苦笑されるし。
kiyo「あの、JAZZ聞いてると寅さんが叫んでるんですが・・・」
CA「は?・・(チェックしてくれる)・・。大変申し訳ございません。壊れております。今修理中ですのでしばらくお待ちください」

しばらくして、何がみたいか?と聞かれたので、『トリビアの泉』と答える。
そして、数時間後
CA「お客様、ただいまより、ANAインフォメーションのチャンネルより『トリビアの泉』を上映いたします」
kiyo「あ、そうですか。28chですね・・・」
・・・
kiyo「あの。。。タモリがロビン・ウィリアムズになっているんですが・・・?」
<『RV』というロビン・ウィリアムズ主演の映画が上映されていた
CA「大変申し訳ありません。確認して参ります」

周りの乗客苦笑。
いや、私だってそれほどタモリとか『トリビア』がみたいわけじゃないんだが・・・。

そうこうしているうちにJFK到着。
懐かしい。なぜだか故郷に帰った気分。
同行したkensukeさんと別れ、今度は友達の家へ直行。
売店で買った、ゲータレードがまた郷愁をさそう。日本だと吐き気がしたが、この国だとすがすがしく感じる。

Michiの家へ到着。アストリアの閑静な住宅街にある。
そこで、スーツケースの中から別送するために段ボール箱二箱を作る。Michiも親身に手伝ってくれる。
(重いし、なにより飛行機の警備チェックにひっかかるおそれがあったので、すぐに必要ではない、電子機器や本は別送することにしていた)
そして、シャワーを借り、着替えてマンハッタンへ出撃。
この町でちょっと前まで暮らしていたんだなー、と通り通りに感激する。
わくわくする、とはまさにこのこと。

デパート『ブルーミングデールズ』でまた別の友達と再会。
中をのぞくと、もうコートや毛皮を売っているじゃないですか。
確かに、Michiの家もクーラーが必要ないくらい涼しかった。なにより、一日4回も雨が降った東京と比べれ、湿気が少ないのでとても過ごしやすい。
日差しが気持ちいいもの。

釜山出身のこの子も少しあか抜けた感じがする。でも、二の腕がもっとぷにぷにしていた。あーNYは栄養がいいからなー、と思わずにはいられない。
去年はずっと一緒に遊んでくれていた。でも、私はここには住まないのだよ。
ここから400キロ離れた森林の中にいかなくちゃいけないと思うと、この再会がつかの間なことを思い知らされる。

そして、遅い昼食を。
適当に、はいったイタリアンレストラン。やはりトマトソースの仕上げ方は私はNYの方が好きかもしれない。トマト自身の味をよく残した、それでいて青臭くない味。コンソメとかたくさん入れすぎていないからだろうか?
トマトの酸味をサンミと味わう。(笑)<わかる人にだけおもしろい、ネタでした。

そして、今度は、NYで最後の三週間を過ごした友人宅へ。
本当は行く予定もあう予定もなかったのですが、密告者によって私の滞在が明らかになってしまったため、いくことに。
懐かしくない。なんでだろう。まだ同居人(というか彼女が家主で私が居候だった)はすんでいるからですか?
このベッドでよくもまぁ、三週間もすごしたね、という気分。快適だったけど、もうそろそろこのビルも取り壊されるらしい。
あー、家主は相変わらず元気いっぱいで、複数の恋愛を同時に楽しみ、見栄張って、生きていました。きっと10年後も同じこと。それでも結婚できなかったら岡山に嫁ぐそうです。

そして、晩ご飯はチャイニーズへ。
Michiと、混んでいる本店はさけて、こっちによくきたんだった。
チャイナタウンで食べるものといえば、ベトナム料理のフォーか、このショウロンポウだったね。そして、有名な蟹ショウロンポウより、絶対豚の方がおいしいということで合意。
MichiもSachi(←私が居候していたところの家主)も、私のチャイニーズの食べ方を継承してくれていた。すなわち、1)チャイニーズにはダイエットコークがよく合う。2)この店で一番おいしいのはショウロンポウではなく、上海チャーハンである。
(上海チャーハンとは、卵とネギだけの非常にシンプルなチャーハン。でも、一番おいしい)

そして、空港へ。
事情があり、その日にIthacaにいくことができなかったので、早々にあきらめてMichi(一緒に空港まで来てくれた!)の家に泊めてもらうことに。
ふたたび、仲のよかった韓国少女に合流。野外につきでたカフェでスナックとビールを楽しむ。
日本でバーテンダーをしていたときに、さんざん作ったコロナビールも、やはりここだと味が違う。ただし、もう徹夜状態5日目の私はアルコールは無理。少しだけで終わる。
あとは、LAからきたという日本人と四人でいろいろお話しして、その晩を過ごすことに。おつまみのチップスもおいしい。というかNYの味がした。

Michiの家に帰った私は新記録かと思うほど早く寝付く。
ベッドの感触が久しぶりです。そしてベッドを貸してくれたKaoruさんに夢の中で感謝。

翌日、やはりMichiは空港まで送りにきてくれる。重い荷物を持ってくれて本当に助かるし、感謝につきません。
一時間でも早くIthacaにつかなくてはいけないために、フィラデルフィア経由でいくことに。
(感じとしては、名古屋から大阪にいくのに名古屋→東京→大阪と飛ぶような感じ)
ラガーディア空港のターミナルからみると、ビジネスジェットかと思うくらい小さな飛行機が。
あーそういえば、ミネアポリスからカルガリーに飛んだときもこれくらい小さな飛行機だったことを思い出す。二年前の誕生日だった。どうでもいい。

フィラデルフィアに一瞬のうちに到着。(フライト時間は一時間もないんだもの)
「フィラデルフィアといえば、フィリーチーズだな」と思い立ち、空港のフードコートで、チキンフィリーステーキ(フィラデルフィアチーズとグリルチキンのサンドウィッチ)を注文。
アメリカのチキンのあの大木鉄板で焼く臭いで、またアメリカにきたことを思い知らされる。


飛行機を望みながら、一人で黙々と食事。
少し大きめのサンドイッチもおいしいので全部食べる。ポロシャツ・短パン・サンダルに巨大なバックパックに、パソコン二ついれたビジネスバッグを提げた怪しい日本人は周りのアメリカ人にどのように写っているんだろう、と思ったが、今に始まったことではないので、とりあえずおいしそうに食べることにした。
っていうかおいしい。ポテトフライ好きな私としては、高温で短時間で揚げた皮付きポテトは喜ばしい。


いよいよイサカまでのフライトにあと40分というところでゲートに移動。
窓に向かってコーネル大学のパンフレットなどを読んでいると、目を疑いましたよ。
おい、これか。飛行機。


一式陸攻ですか??
(一式陸攻とは、第二次大戦中の日本陸軍の爆撃機。重慶を焦土にしたりと活躍したが、非常に脆いために、すぐに撃墜された。あの、山本五十六連合艦隊司令長官もブーゲンビル島上空でこれにのっていて撃墜・戦死することになった)
いやー、まさかプロペラ機とはね。やられた。
荷物とか、もうベルトコンベアじゃなくて、黒人奴隷とチャイニーズ奴隷がふつうに手で投げ入れてるし。
手荷物だって、スペース内ので黄色いタグを付けた上でカーゴルームに運ばれるし。
ブーンっていう音とかしてるし。
でてくるCAのお姉さんも、Narita→JFKと比べると三段落ちですか?という感じになってるし。


ほら。こんな感じ。
だって、私の前の客席に座ってふつうにハンバーガーほおばっているんですよ?このお婆さん。
食べ終えるとおもむろに、飲み物を配ったけど、5分で回収にくるし。
一気のみしなくちゃいけませんか?

ぼろぼろのシートにもたれながらもやはり寝る。
着陸態勢に入り、雲を抜けると下には森しか見えない。
一面緑。
ここは町??

着陸すると強い雨が降っている。
よくこのプロペラ機は着陸できたもんだね。
もう、着陸の時には、隣の見知らぬ乗客にハグしたくなる感じでしたよ。


なんと、ゲートをくぐると、目の前にバッゲージクレームのベルトコンベアがある。
そして、次のドアはもう外。
もうね、目眩もしませんよ。さすがイサカ。なんもない。
浜田山駅状態の飛行場。カルガリーを上回っていましたよ。

よくわからないうちに、乗り合いタクシーに乗せられ(いや、ほんとに意味わからなかったんだ。しらないにーちゃんが叫んでいてどこに行きたい?っていうからコーネルの寮の一つって叫んだら勝手に荷物をのっけられた)寮に着く。
ずぶぬれでスーツケース二個抱えていると、親切そうなインド系太ったお姉さんに、「○○さんならきっと助けてくれる」と教えられ、大学院学生協会の役員っぽひとが時間外にも関わらずチェックインをして丁寧に説明してくれる。
寮は、コロンビアにいたときに、二回目にすんだ、リバーホールそっくり。
シングルルームがそれの二倍くらいあって、もっときれいなのがいいですね。
そのうち、玄関ホールで最後のサインなどをしていると、やはり出来そうな中国人とポーランド人の男の子とやはり非常に英語が流ちょうな韓国の女の子とが私に自己紹介してくれる。そして、なんかよくわからない英語を聞いていると(私の英語力がないだけです)どうやら、偶然ウォルマートに行くから、一緒に来る?といってくれた。
是非是非!と頼んで夜九時に迎えにきてくれることになる。
そりゃそうですよ。見渡す限り、森と湖しかないこの町でどうやって生活必需品を買えと?無理。っていうかこれからの生活私どうするんですかね?


車中、いろいろなことを話すが、私より英語が出来な人がいないんですが・・・。
こんなに節度がある中国人をみたことないし・・・。
こんなに優しい東欧人もみたことないし・・・。
こんなに英語が達者な韓国人をみたことないし・・・。
(っていうか私の知っている高麗大学卒業生はこんなに英語うまくなかったぞ!!)
みんなPh.Dだっていうし。。マスターの私なんて・・・。っていうかどうして私この学校にきたんでしょうね。
いろいろ、暗くなるが、時差ぼけのせいだと割り切って、ベッドシーツ、ハンガー、フライパン、食器、調味料、洗剤などなどいろいろ買い込む。物価の安いこの町でももう二万円もこのために消費しなければならない。
晩ご飯はプレッシャか、眠いかわからないけどポテトチップスで十分だった。

豪雨の中買い物から帰ると、寮の皆さんが荷物を運ぶのを手伝ってくれる。
いやー優しいし、頭がいいし、英語が達者だし。どうしたことでしょう。
私の居場所はどんどんなくなっている気分です。
部屋の片づけと、PCのセットアップと、買い物のセッティングと、NYでお世話になった人へのお礼メールと、日本へ電話を数本かけて、その晩は寝ることに。
やたら柔らかいスプリングだけどやっぱりすぐに寝れる。
翌日は、オリエンテーション。

東京からイサカまで長かったな〜、もうそれだけしか思えなかったし思いたくもなかった。

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2006年08月21日(月)



 また会いましょう。

日本での滞在時間が24時間をきってしまいました。
明日の今頃は、私はもう飛行機に乗っていることでしょう。

結局東京にいたのは7ヶ月あまりでしたね。
帰ってきたときは、また海外に行くかどうか分からなかったのですが、本当に色々な紆余曲折を経て、また行くことになったのです。今度の行き先は、アメリカ、ニューヨーク州イサカ、という小さな町。

人口三万人といいいますから、このサイト(http://www.glin.jp/rnk/cj.html#701)によれば、日本で700番目に大きい、和歌山県有田市以下の小さな町のようです。こうして小さな町で過ごすこと自体が初めての経験なので、わくわくしています。NYのようにオペラ・ミュージカル・レストランなどはのぞめないでしょうから、今度はスポーツや天体観測でもやってみようかと思っているところです。

日本に久しぶりに帰ってきてからも、本当に皆さんには浴していただきました。長い時間のブランクを感じさせることもなかったし、連絡が滞りがちな私だったのですが、快く歓迎してくださりました。本当にありがとうございます。

特に出発が決まった二週間前からは、みなさん忙しいのに時間を作ってくださり、いろいろな話を聞かせてくれ、また、応援してくださったことは忘れがたい思い出です。感謝に尽きません。そして、この数ヶ月の間でまた、得がたい友人も何人も得ることができました。

すぐに帰国するつもりですが、皆さんどうか、幸せに、すくなくとも、悲しかったり、苦しい思いをせずにすごしてください。嫌なことがあれば、是非逃げ出してください。いやなことを無理や死しなければいけないほど、日本は豊かではないわけではありませんし、どうせ、あなたの周りにいる人は、あなたの選択を全面的に支持してくれるはずです。少なくとも私は、あなたの選択はなんであれ、尊重するし、全力で応援します。(ま、私にできることなどあんまりありませんが)ですから、皆さん好き勝手に、生きてください。生きましょう。豊かさが人間をだめにするなんて、知ったことではありません。

行くのが本当に憂鬱になるくらい、皆さんとの生活は楽しかったです。ありがとうございました。そして、これからもよろしくお願いします。そして、私の勝手な希望により海外に行きますが、それにより悲しませたり、失望させたりしてしまった多くの人へ、ごめんなさい。

また会いましょう。

2年前の言葉:http://www.interq.or.jp/happy/kiyo/giron.htm


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2006年08月17日(木)



 『極楽』のくしあげ

出発前で、準備とかあるのに毎日更新ペース。
ほんとはそんなことない。

私は関西が好きです。というか関西より西のエリア(関西はもとより、中国・九州地方)が好きです。どうも、西の水が合う。いつか、すみたいと思っている。

というわけで、大学のときは何十回も訪れたし、それなりに各地にお友達がいるわけです。なんで好きなのか?それが難しいんですよね。

・いろいろおいしい。ローカル色が強いものでも、見た目ほど個性が強い味を持っているわけではなく、守備範囲を広く、楽しむことができる。
・発音がしやすい。(日本語の標準語は人工的に作られたと聞きます。方言のほうがより自然にしゃべれるのかもしれません)
・車ですぐ走れば自然がいっぱい。(東京だとやっぱり1時間は走らないと郊外に出ることができませんものね)
・異邦人感覚を得られる。(違う言葉・文化の中ですごすと、自分がほかからきたんだな、というstrangerフィーリングを楽しむことができる)
・いろいろ図々しい人たちがいっぱい(なんで、タクシーに乗るごとに、毎回面接を受けなくちゃいけないのか?)
・税金の無駄遣いのオンパレード(「あーこうやって税金はどぶに捨てられているのか」と面白くなるほど気づく、無駄がいっぱい。これは東京の比ではない。アクアラインも真っ青の無駄の嵐)
・風前の灯の地方都市(マーケットがどんどん成熟し、消費者のリテラシーの向上によって、より商売に知恵が必要なのに、相変わらずテレビ見ながら店番して、ジリ貧になる哀れな商店街を見るのが一興か)
・神社がいっぱい(もう、関東の神社は行きつくしたよ)

と、楽しみが多いわけですね。
というわけで、また海外に行く前に、関西に言ってきました。はじめは大阪。

初めて訪れた、『極楽商店街』では、ファンキーなショーをみたあとで、大阪名物料理をはしご。たこ焼き→串焼き→ミルクせんべい・・・。

「どて焼き」などは突き出しとして、落ち着きますよね。
ねぎの風味が欠かせないが、煮物嫌いな私でもつまむことができる。(つまむ範疇を超えないが)

特に串揚げは、非常においしかった。
パン粉のさくさく感など、一見べたべたな庶民料理だが、料理人のこの料理を洗練させようとしてきた歴史を感じる。

ソースがそれほどしょっぱくないので、どんどん進む。
全種類制覇したくなってしまう。誰が考えたのか知らないけど、これもお約束の生キャベツ、がやはり欠かせない。ばりばりばりばり。青虫気分で次のくしが来る間、食べて待つ。

寿司と同様、一見ソース(寿司であれば醤油)で味が決まりそうだが、事前の仕事が不可欠なのだろう。

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2006年08月13日(日)



 発掘の日々

 最近、部屋の片付けをしている。というか、本をダンボールに整理して入れる作業が、私の場合、片付けとなっている。本棚がいくつかあるのだが、最も古い本棚には、やはり地層のように最も古い資料が眠っている。

 そうした、発掘した「戦利品」を楽しんでいると、案の定父として進まないのは、お約束だろうか?(たとえていうならば、転校したその日から、遅刻しそうになり、急いで走っていると、曲がり角で女の子とぶつかり、その子と朝のホームルームで再開して「あーっ!!」っていってラブストーリーが始まって・・・、のようなお約束である)

 昔の自分の残した資料を眺めていると、自分の本質がまったく変わっていないことがわかった。大変興味深い。

1.「国際」がなんとなく好きだった
 幼稚園のころだと思うが、そのころ、母に何度もお願いして出してもらった祖父の残した百科事典の一冊が見つかった。その一冊には、世界の国旗シリーズがあり、各国の国旗が並んでいた。何度もみたらしく、そのページだけ取れかけていた。あー、このころから、なんとなく世界の話を聞いたり、考えたりするのが好きだったのか、と感慨深くなった。あの頃の時代背景を考えれば当然だったのか、それとも、あの頃から母は稀代の嘘つきだったのか、今でも覚えている言葉がある。「国旗に赤い部分が多ければ多いほどその国は、悪い国である」と。そのときに、日の丸の赤い部分は、どの点で悪いのか、非常に悩んだものである。自分の子供には、正しい知識を与えたいものである。

2.いつだってマイノリティ
 高校の頃に書いたレポートがでてきた。自慢ではないが、2年連続で優秀選に選ばれた。内容が非常に面白い。各年ともテーマが、「沖縄」・「戦争責任」・「東アジア関係」・「環境問題」etcなどのテーマから各自選んで書く、というものだった。皆さんも予想できると思うが、99%の学生の結論は「沖縄の人は虐げられている」、「戦争責任を明確に」、「アジアの国との関係は重要だ」、「環境を大切に」といったものである。論集に選ばれるだけあって結論の導き方と論旨が明確だった。さて、私の場合は非常に面白い。
 私の一年目のレポートの結論は「日米地位協定が十年前から議論されていて、締結されてから数年たっているのに、いまどき沖縄の人が、騒ぐのは非常にナンセンスだ。知識不足は罪だ」。二年目は、「日韓基本条約を忘れて騒ぐのは、国を挙げて馬鹿な証左。途上国は、無視したほうがベター」といったものだった。我ながらびっくりした。この頃から、予定調和というか、みんなと一緒の結論にたどり着くのが嫌いだったらしい。
(ちなみに、沖縄県民・三国人に対して直接的に批判される表現は先生によって変更されていた。ちょっと問題だと思った。)

3.英語苦手
 1998年に受験した、私の大学の受験問題がでてきた。とても懐かしい。私の選択は、数学・英語・国語、だった。回答してみても、今でもちゃんと解ける。(時間は、おそらく当時寄りかかったと思う。英語以外。)私の大学のレベルが低いのか、私の能力が低下していないのか、どちらかだ。当時のメモをみていると、どうやら数学・国語は満点だったが、英語はあんまりできていなかった。そう、私はいつだって英語は苦手だった。もちろん今でも苦手だ。ただ、あの頃よりは、できるようになった、ということだけだ。

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2006年08月12日(土)



 桃祭り (´∀`)

クリスマス、誕生日、バレンタインだけでなく、この国はお歳暮やお中元、そのほかのお礼・返礼など数多くの贈答品の文化がありますね。

ま、その賛否は別にして、みなさんも多くのものといただいたり、送ったりしたことがあると思います。

大好きで、大好きで仕方がない、彼女・彼氏からもらったプレゼントなど、特殊な例は別にして、もらって一番うれしいものは何ですか?

「金! ( ゚Д゚)」

と、答え方あなた。病んでいます。練炭抱くか、青木ヶ原樹海にいるお友達と遊ぶのがいいと思います。

ま、そういう話はおいておいて、桃をいただいたんですよ。岡山の方から。

岡山=桃。それも白桃!

岡山のキーワードとしてそれ以外ないくらい、岡山は桃だらけ。なんつったて駅前には桃太郎像もあるくらいですからね。ありがたや、ありがたや。岡山のほうを向き、桃をもってお踊り狂ったものです。

桃祭りだー!!(゚∀゚)ッ!!

大変上品なお味でおいしゅうございました。
岡山の人ありがとう。いい夢を見させていただきました。

まだあるかって?
あ。あるよ。

アゲナイデス。コレハワタシダケノモノ

追伸:
三番目の写真中央のPCは新鋭ノートパソコン『アマテラス』
『オモイガネ』の二番艦として就役、航試後、本格的に旗艦へと以降予定。


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2006年08月09日(水)



 海中への誘い

私は水族館が大好き。
一年に数度は水族館に、お友達と、たまには一人で行きます。
何で好きなんでしょうね?

1.その流線型が羨ましいという羨望の気持ちから。
2.シャチの頭のよさと、堂々とした姿にあこがれているから。
3.いつもおいしいお寿司を食べさせてくれている海への感謝の気持ち。
4.暑い夏には涼を、寒い冬は、厳寒の海を泳ぎ続ける魚の力強さを求めて。
5.3次元で動き回れる魚を見て、私もふわふわした気分になれるから。
6.母なる海への回帰したい切望から。
7.私の前世がマンボウだから。

と、いろいろな理由が考えられますが、動物園も好きですが、水族館はもっと好きです。

ということで、関西に行った初日は、いつも行くことにしている世界第三位の規模(日本で第二位の規模)を誇る、「海遊館」へ。

相変わらずジンベイザメのゆうちゃんは元気そうだし、くらげもいつも通り、期待を裏切らないやる気のなさでした。
いいですね。深い水のなかにどんどん潜るような設計の海遊館は東京にはない水族館の楽しみがあります。

最初に言ったのは確か、1998年。やっぱり私はこれからもこの水族館に通い続けるのでしょう。

沖縄に行ってみたいと思ったことは一度もありませんが、あの「美ら海水族館」だけはぜひいってみたい。そのためにだけ、あの島に行く気になる。その野望を達成するのはいつのことなんでしょう。

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2006年08月07日(月)



 寿司屋の料理

さ、料理ネタです。

私は、寿司屋に行ったら基本的に寿司しか食べません。お好み焼き屋にいったらお好み焼きしか食べないし、しゃぶしゃぶ屋にいったら、やっぱり基本的にしゃぶしゃぶを楽しみに行く。サイドオーダーとして、魚介類を焼こうとか、蟹を鍋にいれてみるか、という気分には全くなりません。

それと同じように、お寿司やさんでは、カマの塩焼きとか大好きだけど、やっぱり注文しません。ところが、誰かに連れて行って頂いたりしてその方に、あまりに勧められたりすると、こうしたポリシーは強い方ではないので、「あ、じゃ、お願いします」と頼んでしまう。

今回、ある人とお寿司屋へ。私の好物を、おいしいよ、と勧められてしまいまして、注文。巨大なナスのみそ焼きと、やはり巨大なカキ。みずみずしいナスと香ばしい焼けた味噌がとてもいい相性で私を喜ばせる。

カキにいたっては、とてもジューシーな肉汁(?)が口に広がる。ほどよい塩味と豊かな海の香を楽しむことができました。お寿司屋はやっぱり寿司でしょ、という基本路線なのですが、たまーに、頼むと意外なラッキーがあるんですね。

ところで、こうした寿司屋は寿司を、という考えだけではなく、どうも、サイドオーダーを注文すると、お勘定が高くなる傾向にあるように思うのですがどうでしょうか?

経営的な要請なんでしょうか?ガソリンスタンドが、ガソリンでほとんど儲からず、洗車やオイル交換で儲けを得ているという話を聞いたのですが、そんな感じ?寿司屋は寿司で儲けがあんまりでないんですかね?大体再度オーダーを頼むと高く付くんじゃないかと。

いずれにしても、お寿司屋さんでは、値段もなにもないので、比較できませんが、そうなんじゃないか?という疑問もあるのです。


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2006年08月05日(土)



 そして頂へ

 この人に出会ったのは、私が19才のときだったでしょうか。そうかんがえるとちょっとだけ長い付き合いになっている。最初に話したその時から、話のセンスの良さ、言うべきことを、もっとも適切に話す人なのだと思っていました。なによりも、かっこいい。

 確か、NYに出航する、練習艦隊司令として、初めて前線を離れ、だんだんと、バックアップに回り始めたときでした。海将補だったでしょうか。艦橋へかけあがって、少し説明と雑談をしたときからその人に魅力を感じていた。

 それから一年に数度会う機会をもちましたが、いつだって颯爽として、朗らかで、頭が抜群に良かった。市ヶ谷の統合幕僚本部勤めのときでも、「海の男」の雰囲気だったし、事務職員を率いていても、その眼差しは鋭かった。

 最後にあったのは、去年の横須賀。横須賀総監だった。第一護衛艦隊をみつめながら共に昼食を。やっぱりこの人は素敵だった。
 
 様々な周囲の憶測を乗り越えて、今回、海上自衛隊幕僚長になることになったらしい。そのニュースを聞いて本当に喜ばしかった。詳しくは書けませんが、彼の人生の歩みを考えてみれば、困難な状況にあっても、いつでもベストを尽くしてきたことが、周囲の期待や助力を引き寄せてきたといえる。見習いたい。

 いずれにせよ、このニュースに触れたときは、本当に喜ばしかった。4万4000名、艦艇152隻の世界第二位の海軍の指揮官になるというのはどんな気分なのだろう。

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2006年08月04日(金)
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