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シリーズの邦訳三作目は、いよいよブリジャートン子爵の嫡男、もうすぐ放蕩に明け暮れた20代を終えようとしているアンソニー。18歳のとき、突然父を失った痛みから、自分自身の寿命を父の死までと設定したのだ。邦訳第一作の『もう一度だけ円舞曲(ワルツ)を』では次男のベネディクトがシンデレラをベースにしたロマンスで結婚。第二作の『恋のたくらみは公爵と』では、長女のダフネが、いかにもハーレクイン的な偽装婚約から逆転ゴールイン。ただし、訳者あとがきでは本作がシリーズ第二作とあるので、ブリジャートン家の、アンソニーからヒヤシンスまでのアルファベット順に名付けられた子どもたちは、実際には妹のダフネが先で、アンソニー、ベネディクトの順で結婚していったものらしい。
今回の下敷きになっているのは、オースティンの『高慢と偏見』、あのダーシーとエリザベスのカップルが、アンソニーとケイトというわけなので、それ自体、面白くないはずがない。そしてもちろん、これはかの、母ヴァイオレットのもとに愛情をもって結集しているブリジャートン一族の話、しかも長男のアンソニーが最愛の女性と出会い、自分自身と折り合いをつけていく話なのだから、面白くないはずがない。そしてそれ以上に、切ない展開というか、不安と安心が交互に来るようなエピソードの連続で、読むうちに自分も成長していくような気分にさせられる。
ヒロインのケイトは、実の親同様に育てられた継母の子、妹のエドウィーナを社交界にデビューさせるため、家族でロンドンに滞在している。17歳のエドウィーナは小柄ながら誰もがはっとするほどの美人、貧しいシェフィールド家にとって彼女の美しさが頼みの綱なのだ。一方姉のケイトは背が高く、実は彼女もじゅうぶん美しいのだが、21歳というのは社交界的にはかなり行き遅れている。父はもう亡い。だから、本人も家族も、まずはエドウィーナを結婚させ、その余力でケイトを、という筋書きを立てている。もちろん経済力だけでなくエドウィーナに幸せな結婚をしてもらうのが前提なので、姉は言い寄る男たちを面接官よろしくジャッジするのだが…エドウィーナを妻にするべく行動に出たアンソニー・ブリジャートン子爵の登場によって、ケイトの思惑は方向をそれ、アンソニーもまた、「妻となる女性を愛さない(自分が早死にするから)」という誓いを崩されてゆく。
意地悪な女性はほんの少しだけ登場するが、基本的に誰も悪い人は出てこない。みな、自分自身や相手によかれと思って行動しているだけである。それでもロマンスと同時に涙がつきまとうのは、愛する家族にだけは知られたくない秘密のトラウマを、アンソニーもケイトも抱えているから。長男と長女だからわかる、責任感についても言及される。ふたりが刺激的なやりとりを通じて、お互いへの境界線を踏み越えてゆく課程が、しっかりと描かれているのだ。
作中で読書好きのエドウィーナが読んでいるのが、女流作家オースティンの最新作、ということになっている。あと書きによれば、舞台となった1814年ごろ、オースティンはまだ、「By a Lady」の筆名しか公表していなかったというのも丁寧な補足である。そういえば、謎の社交界新聞で常に社交界の話題をひっさらう「レディ・ホイッスルダウン」の正体が、次回作で明らかになるらしい、とも書かれている。今度の主役は、コリン・ブリジャートンとのことである。これまた大いに期待したいところだし、次回の下敷きはいったい何か、という予想をあえて言わせていただけるのなら、有名な恋愛オペラのいずれかではないだろうか、と妄想する次第である。(マーズ)
『不機嫌な子爵のみる夢は』著者: ジュリア・クイン/ 訳:村山美雪 / 出版社:ラズベリーブックス2008
2005年09月20日(火) 『アンデルセン 夢をさがしあてた詩人』
2002年09月20日(金) 『子どもと本の世界に生きて』
2001年09月20日(木) 『魔女ジェニファとわたし』
2000年09月20日(水) 『「我輩は猫である」殺人事件』
今年は、『エンブリオ』(帚木蓬生/集英社)をはじめ、随分、医学エンターテイメント小説を読んだ気がする。『チーム・バチスタの栄光』(海堂尊/宝島社文庫)とか、『イン・ザ・プール』『空中ブランコ』(奥田英朗/文春文庫)とか…
『ラザロ・ラザロ』は、何というか、面白かったのだけれど、私自身の押し所が定まらず、言葉に表しにくい。どういう話かと言えば、不老不死の新薬をめぐる怪しげな取引に(業務で)巻き込まれる端麗な外資系製薬会社のサラリーマンと正体不明の男の愛(?)、かなあ。あと、随所に、外資系サラリーマンはつらいよ。
誰しも、死を畏れ、老いを畏れ、何とか逃れたい、何とか遠ざけたいと願いもするけれど、ひとりぼっちの不老不死には意味がないんだろうなあと。子どもの頃読んだ漫画に、ひとりだけ不老不死を定められた女性の愛と悲しみを描いた物語を読んだことがあるけれど、あれは怖かった。
細部はよく覚えていないけれど、多分、不老不死は何かの罪に対する一番重い罰で、不老不死を悟られることがないよう、一箇所に留まることも出来ず、恋人ができてもやがてそこから去っていかなければならなくて、何千年も孤独を抱えているというような。子供心に、永遠に続く孤独、というものが本当に怖かった。『ラザロ・ラザロ』読みながら、そんなことを思い出した。
本を読みながら、忘れないように、気になった言葉や心に残る何かがあると、本のページを折ることにしている。いつも、本筋に関係のないところに、折り目が残る。 超美形で端麗な主人公が唯一の友達に漏らす本音。美形ゆえに男にも女にももてるんだろうと言われて、
「いつまでたってもひとりなんだ。どういえばいいのかな、自分の捨て方がよくわらないんだ。」
「最初はうまくいっても、そのうち離れていってしまう、どの友達も。人の気持ちをつなぎとめることができない」
とも。
本筋とは関係ないけれど、この「自分の捨て方」と言う言葉、その「捨て方がわからない」というニュアンスが心に引っかかった。何でもないところなんだけれど、心に残る。主人公のように美形でなくとも、平凡な人間でも、身の処し方がわからない、そんなことはままある。生きていく以上は、たとえわからないままでも、とにかく不器用にでも、何とか前に進んでいかなければならない。どうして、身の置き所がないのか、身の処し方がわからないのか、ああ、自分の捨て方がよくわからなかったんだ、とちょっと瞠目。
ところで、『ラザロ・ラザロ』は10年前に刊行された本で、荒唐無稽だけれど、古さをまったく感じさせない。タイトルも納得で、悔いのない表紙買いでした。
『ラザロ・ラザロ』 著者:図子慧 / 出版社:ハヤカワ文庫2008
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管理者:お天気猫や
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