スナックおのれ
毛。



 東京砂漠の神様と。

「東京砂漠」と言う。
東京は荒涼としていて、すみにくい、独りぼっちであること。あるっていても、死ぬほどの地獄をあじわなければならないということ。
けれど、私はここで神様に出会いました。しかも、たくさん逢いました。たとえば、トモダチ。休みの日に会うと、私を本当に楽しくしてくれます。たとえば、会社の上司。厳しい言葉も今、思い返すと、本当にありがたい。私は、思い出すたびに自分の態度の悪さを悔やみます。そして、会社の仲間たちに、お店のおばちゃん、お姉さん。みんなに勇気付けられて、こうして東京砂漠でやっていると思うのです。みんな、本当にやさしくてありがたいです。そのたびに私は、自分の駄目さ以上に自身の存在を確認できます。
東京砂漠には、神様がいる。つらいかもしれないけれど、神様がそこらじゅうにいる。そう考えると、ひとりぼっちの歩みも、心強くなってくる。私は、そう思います。

2003年07月30日(水)



 不倫探訪 IN ミスタードーナッツ。

ミスタードーナッツのロゴをずっと、鯉のぼりだと思い込んでいた。本当はコックさんの顔だとわかってから、10年たってない。要するに生まれて15年は間違いなく、ミスタードーナッツのロゴをずっと鯉のぼりだとばかり思っていたわけだ。
高校時代、学校の帰り、ミスタードーナッツに立ち寄ることがあった。友達と看板を見つめて、友人はコックの顔を見て、「ミスドに寄ってかない?」と言い、私は、鯉のぼりを見ながら「良いよ」と答えていたわけだと思うと、少しおかしい。同じ「ミスタードーナツ」の話をしているはずなのに、目から入ってくるミスドのロゴの認識がまったく違う。
どうも私は思い込みが激しくていけない。常日頃から思ってはいる。今日もミスドで本を読んでいると、横に30後半ちかくの男と私と同じ歳ぐらいの髪の長い女が座った。男は黒のスーツに濃紺のネクタイ、女は同じく黒のパンツスーツを着ていた。営業とそのアシスタント、もしくは後任といったところか。ところが、この歳の離れた男女、あきらかにおかしい。まず女が終始男に対して、敬語を使わず、会話に仕事のことはでない。そして、男が女の髪や頭、頬を触りまくる。これは、あきらかに不倫だと思いながら、意識をそちらに集中していると、奴さんたちがコチラを気にしている様子。時間は午後16:30。私は、イヌのイラストがプリントされ、PUNK!とかかれているTシャツを着ていた。ハッとした。何も観察しているのは、わたしだけじゃない。私だってだれかに観察されているのだ。一体、彼らに私はどう映ったのか。PUNK!なんて書かれたTシャツを着込み、夕方、仕事もなく本を読む女。学生に見られたら、まだ救いがあるというもの。けれど、私の雰囲気には既に学生の匂いが消えているということは、同い年以上の人ならばみぬけてしまうだろうと思う。果たして、家事手伝いか、それともただの無職者か、アルバイトか、ミュージシャン志望者か、劇団員か。鯉のぼりとコックさんほどの違いはないにせよ、なんだか私の考える自分像と大きくかけ離れたことを考えたに違いないような気がする。

2003年07月08日(火)



 片思いごっこ。

皆さんは、片思いごっこという遊びをご存知であろうか?ご存知ない。それは大変残念である。しかし、それも仕方がない。片思いごっことは、私と友人間で使われる名称で、本当の名前などたぶん存在しないゲームなのだ。
私の考えでは、恋愛の本質は成就するかどうかではなく、その過程にある。たとえば、片思いの相手に話し掛けられるのをあてどもなく待つ、はずんでいながらも沈んでいく気持ち。たとえば、片思いの人を思い浮かべる時の、安らぎとはじらい。10代の頃のようなあの恋愛の気恥ずかしさ。片思いごっこでは、そんな過程の部分だけを抽出し、本気で擬似片思い体験をしようというゲームである。
材料は簡単。自分と片思いの相手。自分には彼氏彼女がいてもいなくても構わない。片思いの相手は、素直にコイツいいね、というのを選ぶのがコツだ。これだけじゃ、普通の恋愛となんら変わりないじゃないかと思われるだろう。しかし、片思いごっこでは、相手の悪いところはなるたけ見ない。片思いの特徴は、相手と付き合わないことによる妄想パワーにある。だから、悪いところは伏せておこう。相手を自分の都合よく仕立て上げ、片思いの雰囲気を味わってしまおう。あとのやり方は、いつもの恋愛とまったくいっしょ。相手と話をするチャンスを多く作ろうと、努力してみたり、偶然を装って一緒に帰ってみたり、お洒落に気を使ったり。でも、たったこれだけで毎日の生活に張り合いが出て、ウキウキした気分になるから、まったく不思議なものだと私は思う。
ここで、片思いごっこの約束事。本気は、タブーである。本気になれば、それはすでに「ごっこ」の域から外れてしまう。絶対に心変わりの出来ないせつなさや最後に必ず来る別れが用意されているからこそ、片思いごっこには10代のような恋愛の楽しさがあると私は思う。


2003年07月02日(水)



 チュウ解放と心変わりと男と女。

突然だけれど、なにがいけないんだってんだ、チュウのひとつやふたつ。と、たまに考えてしまう。けれど、チュウの領域というのは、とっても微妙で、人によってはそれは浮気にはあたらないよ、と言い、また、一方でチュウだけは勘弁して下さいというAV女優がいるのもたしかだ。
この間、有名俳優とその娘の記者会見を見た。仲良し親子を自称する彼らは、娘が20代そこそこになった今でも一緒にお風呂に入っていますと主張し、その後、チュウをやってのけた。これにはさずがにオェッとなってしまったけれど、やっぱり人によってチュウの捉え方がまったく違うことを見せつけれれた気がした。
チュウは愛情表現であっても、なにも恋人同士に限ったことではない。母親が子供にチュウをするなんてのは、よく見る光景だし、外国の人ならほっぺにチュは挨拶代わりだ。しかしなんでまた、こんなにも男女間のチュウはこんなにも特殊なのか。それにはやはり、チュウがする人間を選んでいることにあるのだと思う。
私にとってチュウは、本当はもっとしたいものだ。ただ彼氏の方が、それを嫌がることはわかりきっているので、しない。私にとって、彼氏以外の人とチュウをするのことは、それすなわち心変わりを示唆する。浮気で済ませれば良い、と考える人もいるかもしれない。キスぐらい、と考える人もいるかもしれない。けれど、チュウの問題は、常にデリケートで、相手への気遣い抜きでは、考えられない。だから逆にもっとチュウが開放的なことだったらと思うことがある。気に入った人となら、誰とでもどうぞ、みたいな空気があれば、私の完全なる心変わりはなくなるような気がする。ただでさえ、男女間の戒律への風当たりは厳しい。だのに、どこかしらみんな相手以外の人を思うことがあるだろう。だからこそのチュウ解放。さすれば、完全なる心変わりを防ぐことができるのではないか。


2003年07月01日(火)
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