スナックおのれ
毛。



 若さが欲しいの。

若さが欲しい。若さが欲しくて欲しくて、たまらない。こうしている間にも、私から、風船の空気が漏れるように若さが流失しているに違いない。そう思う。
若者という年齢の階級があるけれど、26にもなると、その仲間入りができているのかちょっと不安になる。すでに夜更かしすれば口元に小じわを発見し、少しでも飲みすぎれば頭痛のストームが私を襲う。こうして、自分の身の上にまさしくおこっている状況を判断すると、やっぱり「ワタシ、若者で〜す」と躊躇なく言うのは厳しい。
若さってなんだろう。肉体的なことももちろんだけれど、対応力にあるんじゃないかとも思う。たとえば、新しいものにすぐに手が出るとか、そんなこと。今じゃ、新しいことに手を出すのは、どうも面倒で仕方ない。友達が良いよ、と言ってくれたアーティストもおいしいよと進めてくれた食べ物も、自分だけだと、どうにも腰をあげるのが、一苦労。今は、面倒だから良いや、で済ましてしまう。もしかして、若さって、面倒くさがらないことにあるんじゃないか?
どうも、年々、面倒臭がり心が増大しているような気がする。したがって、刺激のない受身の生活になってきているような気もする。これじゃいけない、と思いながらも現状維持の安穏とした生活を希望する自分が確かにいる。女が26になると、結婚願望が強くなるそうだけれど、もしかして、それは面倒臭がり心の延長に存在しているんじゃないかとも思う。恋愛するのも億劫、もしかして、そんなところなのかしら。
話は少し飛ぶけれど、今日、私は化粧品を買った。美白化粧水と日焼け止めの乳液とマニキュア。しめて7000円強。今まで、こんなに化粧品にお金を使ったことはない。けれど、どうも収まりがつかなかった。しぼんでいく自分の若さとそれに付随する行動力、刺激を求める力、これらすべてへのアンチテーゼだ。この気持ちは私のブームにすぎないのかもしれないけれど、できることなら、この先、ずっと続いて欲しいものだと思っている。


2003年06月30日(月)



 26歳→暴露→ココロの妖怪→若さの崩落

マイッタことに26歳を迎えてしまった。一昨日までは、25歳も26歳も大差ないと思っていたけれど、そうも言っていられない事に昨日気づいた。
会社にカッコメンがいる。カッコメンと言っても、誰しもカッコメンと言うかはわからない。だけれど、実にほがらかな笑顔をしやがる。もっと笑って下さい、と頼みたくなるような、やさしくてどことなくパワーのある笑顔だと思う。私は、それをみるたびにドキリとしたり、癒されてみたり。色恋関係なしに、奴と話をするのが楽しみでならない。
カッコメンは24歳。私よりふたつかひとつ年下。若干の年下。でも、この若干の垣根が随分と高いことも、私は彼より歳を幾分くっている分、知っている。
今日、いつものように仕事をしていると、ある女性社員がちょくちょくと彼と話しているのに気づいた。彼女は、誰とでも良く話す人ではあるけれど、なんだか少し様子が違う。なにが違うんだ、と聞かれると、なんともこたえられないけれど、たぶん、これは女の直感と言うものなのかもしれない。彼女は、彼を気に入っている。間違いない。
彼女は、かわいらしい。しぐさや声がとてもかわいらしい人で、話しやすいし、私も彼女が大好きだ。ただ、なんだか突然、胸がチクチクした。私には彼氏がいるし、今の状態が気に入っている。だのに、この胸のチクチクモヤモヤ。間違いなく、ココロの妖怪が姿をあらわしやがったと思った。
私のココロには妖怪が住んでいる。私は、独占欲が強くて、たとえば、仲の良い友人に対してもそんな気持ちを感じることがよくある。要は嫉妬深い。友達も恋人も友人も、私以外の人と過ごすのはあたりまえだし、私だってそうしている。わかっているけれど、たとえば親友から「友達とどこかにいった」などと聞くと、自分以外の人と遊ぶその人がとても妬ましくなる。理解しているように装うけれど、ココロの奥では、なぜ、私じゃないんだと不満が渦巻いてしまう。私は、この分からず屋のココロの妖怪が大嫌いだ。
たぶん、カッコメンと彼女に感じたのも要はそう言うことだ。ただ、今回の場合は、もっと嫌な考え方が吹き上がってしまった。「私は彼女よりも若いから、私のほうが気に入られるはず」。今、書いていてこの気持ちは擁護できない。なんじゃそりゃ、と否定する。けれど、私はその時、無意識にそう考えてしまった。
ただその後、はたと気づいた。私から若さをとってしまったら、何が残るんだろう。考えてみれば、若いという理由で大抵のことは許されてきた。けれど、26歳になって27歳になって、そして30まで。みるみる若さの影がなくなっていく。「まだ若いから」ではなくて、「もうそんな歳なのに」と言われるようになる。その時、私は何を盾にして、生きていくんだろう。25歳は入り口だった。まだ、重大なことに気づいていなかった。四半世紀を生きちゃった、という感慨と衝撃だけですごしてしまった。本当にやばいところに来てしまった。私の「若さ」という頑丈な盾が壊れかけている。それに変わる盾を、私は早く手に入れなければならない。




2003年06月29日(日)



 嘘がつけない人。

突然、
「なんでこの会社で働いているの?」
と、聞かれた。
いつもなら適当に答えがでるはずだったのに、でなかった。
答えに窮した私に、その人は、
「仕方なく?」
と臆面もなく言った。
話し込んで、ほんの数分。
この人には、嘘はつけないと直感した。



2003年06月26日(木)



 ストレスの行方。

今月はよーけ働かしてもらいました。毎日のような夜12時ちかくの帰宅。二日連続の松屋の牛丼またはチキンラーメン。「おまえ、こんなの好きだろ?」というわけのわからない社長の挑戦的な言葉。売り言葉に買い言葉。あーあ。疲れた。ってなわけで買っちゃった。買っちゃった。デジタルカメラ。今風に言うならデジカメ。嘘嘘、それが、一般的な呼び名です。あーあ。ストレス転じて、購買欲となる。吉と出るか、凶と出るか。災い転じてなんとやら。瓢箪から出た駒?豚に真珠?馬の耳に念仏、鬼の目にも涙涙(ルイルイ)。なだ、そうそう?
とりあえず、カメラ片手に大ハシャギ。25歳の大騒ぎ。25歳の胸騒ぎ、でもって、空騒ぎ。外は、梅雨の雨。随分とまた静かです。アスファルトが音を吸い込んで、ひんやりひんやり。




2003年06月24日(火)



 パソコン片思い。

君ってやつは、いつもそうだね。私が気持ちよく話していると、突然、固まったような振りをして。だから、私は、しょうがなくはじめからやり直すんだ。君との関係にはじめから戻って、またはじめからやってみせる。すると、どうだ。先ほど、本当に言いたかったこと、やりたかったことは、私の頭からヒラヒラとはなれて、まったく別のことをしてしまったことに後から気づくんだ。
いつもしている君との共同作業。どうも、それは私の勘違いだったんじゃないだろうか。共同作業だと考えていたのは、私だけで、君は私と一緒に作業しながら違うところをみている。だから、気に食わないと、ぴしゃりと突然貝のように口をつぐんでしまう。何か言ってみたらどうかね。図星かね。おいおい、それでまた口をつぐんでくれるなよ。こうして話しているのに、私がどれだけの時間を費やしているか、君は考えるべきだ。いや、いっしょにやっている以上、わかっているはずだよ。
言い過ぎた。
パソコン。
私の思いは勘違いでも片思いでも、かまわない。
けれど、君がさっきみたいに急に動かなくなってしまうと、私は本当に参ってしまう。
せっかく作った私の産物が二度と戻らない、もう動かなくなるのはもうごめんだ。
そうだ、いっそのこと画面を暗くしてくれないか。
私の書いたものが、もう私の目に入らないくらいに真っ暗に。
その方が諦められる。
その方が、「覚えとこ、覚えとこ」なんて馬鹿な考えも浮かばなくてすむ。

午前1:41
日記の途中。
パソコン、凍る。

2003年06月17日(火)



 チクビと、そのアニキ。

「乳首」とは、私の会社の気持ちの悪い23歳男子のことである。要するに、「乳首」はあだ名。しかも、私がつけたあだ名で、会社で私がこれを口にするときは、ひとりぽっちになったとき。「きもいぞ、ちくび!」「よってくんな、乳首!」と罵声を小声で話すときにしか用いられない。この「乳首」、兄と一緒に会社に勤めている。しかも、同じ部署。「乳首」と「兄」は年が随分と離れている。乳首は冒頭紹介した通り、23歳。アニキは31歳。乳首曰く、「子供の頃は、あの人は誰だろうと思っていた。母親に“たまに来るあの人、だれ?”と聞いたこともある」のだそうだ。計算してみれば、乳首が幼稚園のときにアニキは既に社会人になっていよう年頃で、確かに「乳首」の言い分もよくわかる。
乳首とその兄が、入社したのはごく最近のことで、もちろん最初は兄弟なんて思ってもみなかった。顔が似ているとか、声が似ているとか、性格の類似とか、そんな点は微塵も見出すことはできなかった。あの兄弟は本当に似ていない。だいたい、弟である乳首を始めてみた時、私はかれを29歳くらい、兄の方を26歳と踏んでいた。ハッキリ言ってしまうと、乳首は見た目がダサイを通り越してキモイ。性格もネチネチとしている点がうかがえる。しかし、兄は違う。お洒落なTシャツをさらりと着こなす気の良い「あんちゃん」だ。兄弟と知らされた時、まだ二人とあまり接していないから、こうも兄弟としての違和感がある、と私は思った。そのうち、つきあっていくうちに二人を兄弟としてわかってくる時がくるんじゃないかと考えたのだ。別段、そんなことどうでも良いことのように思えるが、あの兄弟の違いには興味を持たざるを得ない。
二人と接するようになって1ヶ月あまり。未だに溝は埋まらない。埋まらないどころか、深まるばかりだ。まわりの人もきっとそう感じているに違いないと思う。気の良い「あんちゃん」として人気のある兄と陰気でヒョロヒョロしている弟。乳首が兄と話をしているところによく遭遇する。乳首は兄とこんなにも長い時間を過ごすことは初めてのはずだ。乳首は自分の兄を改めてどう思っているのだろう。誇らしいと思っているのか、それともそうではないのか。
この間、乳首に頼みごとをした。彼のアニキに渡して欲しいと仕事でつかう用具を渡した。「あなたのお兄さんのところに持っていって。」「え?アニキ?ああ、俺の心の中のアニキかもしれない」。その時は、なんだか腹がたって「ハァ!?」と思いっきり突き放してしまったが、なにか考えることでもあったのだろうか。なんにせよ、乳首はキモイ。アニキは良い人。それに変わりはしない。出来すぎたアニキのいる自分を恨むのも誇るのも本人の自由。けれど、一個人として言わせてもらえば、少しくらいはアニキを見習った方が良いんじゃないかな。

2003年06月11日(水)



 世の26歳女性諸君へ。

先に一言、付け加えておく。
私は、今、酒を飲んでいる。
だから、わけのわからないことを書くかもしれない。
いや、書くだろう。
その場合は、許して欲しい。
さっき、仕事から帰ってきたばかりだから。
(もう、やだ)
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唯川恵の「永遠の途中」を読んだ。

女には、ふたつの道がある。家庭に生きるか、仕事に生きるか。最近では、多くの人が仕事をしながら子育てをしている中で、少し時代錯誤な言い方かもしれない。結局は、どちらに自分の焦点をあわすか、ということなのだと思う。女には、その選択を考えるときがきっと来る。
今月で、私は26になる。けれど、身についた仕事といえば何もない。再就職しても、いくつまで働けるのか、その間に私自身がモノになるのか、そういう考えが頭を掠める。仕事に対して年齢でカウントダウンしてしまう、そんな選択の時期が私にも訪れ始めた。
家庭か、仕事か。選択できることは幸福なことだと思える人がうらやましく思う。特に男性は「良いじゃん、女なんだから結婚しちゃえば」と軽軽しく口にしてくれる。そんなに家庭の中に入ることは幸福なのか?ないものねだりは、本質をつかまえていないことが得てしてあるから、彼らの言葉は冷やかしに過ぎないのではないのか。
けれど、どうにも私は、家庭か仕事かという選択がうっとおしくてならない。26というのは、選択するとかしないとか考えず、ひとつしかない道に向かって、いいかげんまっすぐにあるって行きたい。男性の場合は、会社での地位もある程度上がってきて、10年20年先の自分が少し見通せる歳なのではないだろうか。

唯川恵の「永遠の途中」では、女の人生の決断をする歳が32歳になっていた。32歳。私には到底考えられもしない歳だ。いいかげんそのくらいになったら、腹をくくる必要がなければならないとも思う。そして、二人の主人公は、異なる道を歩き出している。

最近、私は、あせっている。どうにも、モノにならなかった仕事や今の食べるだけの仕事。次々と40年後の自分を想定して歩き始めた友人。いや、40年後じゃなくても良い。1年先、3年先、10年先。彼らは、未来の自分に焦点を定め始めた。私はどうしたいのだろう、どうあったら、幸福の高みをみれるのだろうか。刹那的に生きるには、私は健康すぎる。今、夢中になれる「仕事」を見つけてしまえば、私は一生、それに振り回されるだろう。けれど、それはとても幸福なことだろも思っている。
家庭のことを考えると、仕事を心配する。仕事のことを考えると、家庭を心配する。まだありもしないふたつの未来に振り回される自分がいる。今、私には伴侶と持つ家庭もないし、これで一生と思える仕事もない。そう考えてみると私は、なんにも自信の持てない自分に不安を覚えているだけなのかもしれない。「永遠」を感じられない手ぶらな自分に嫌気がさしているのかもしれない。

2003年06月10日(火)



 趣味と実益と麻雀と友情と。

私にとって音楽は日常。映画は遊び。読書は、気分転換。絵を書くことは惰性。カラオケは必然。とすると、私にとって趣味ってなんだろう、と考えました。「趣味」、ポップに言えばホビー。辞書を引いてみたら「1.一定の修練を得た後、味わえる、そのものの持つ面白さなど。例)音楽の趣味を解する人 /2.利益などを考えずに好きでしている物事。/3.(選んだ物事や行動の傾向を通して知られる)その人の好みの傾向。」(三省堂新明解国語辞典第三版より)と、ありました。まあ、ここであげている趣味とは2のこと。それでいくと、私の場合、麻雀なんじゃないかと思いました。
麻雀を覚えたのは今から約4年前のこと。幸せなことに、麻雀初心者に対して非常にやさしい麻雀仲間たちが教えてくれました。最初の頃は、役のことがちっともわからず、とりあえず、上がることだけに重点を置いていました。(役を覚えないばっかりに、東南西北がそれぞれ2枚以上きたにもかかわらず、すべて捨ててしまったこともありました。馬鹿です)そのうち、上がることの楽しさを知り、勝つことの喜びを覚え、役作りの難しさや策略の重要性に目覚め、私は麻雀が好きではなく、大好きになりました。
私に麻雀を教えてくれた初期のメンバーとは未だに数多くの場を持つことがあります。仲の良い友人が4人も集まれば、麻雀なんかよりおしゃべりの方が楽しいと思う方もいるかもしれません。いっしょに出かけるのも悪くないと思うかもしれません。ご飯を作るのも良い手段でしょう。ですが、私たちは、私たちがせっかくそろったことを麻雀で確認しあいます。もちろん、話だけしていても楽しい仲間ですから、話題には事欠きませんが、その中に麻雀のちょっとしたエッセンスが入ってくるのです。たとえば、「ああ、強くなったねぇ」とか、「あいかわらず、その手が好きなんだね」とか、話は麻雀の話を皮切りに色々な話に転じ、その間、お互いの牌を競い合う。
あらためて、考えてみると、私は麻雀と言うゲームと仲間でそれを行う雰囲気が好きなのかもしれませんね。

2003年06月03日(火)
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